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「スポーツぎらい」という感情からはじまる可能性〜「働き者ラジオ」を聴いて

今はもうさすがにやってないのだろうけど、昭和の時代には泊りがけの新入社員歓迎会なんてものがありました。
私が新卒で入社したCM制作プロダクションでもそうでした。

社員は30名ほどですが、プロダクションだからか、日頃から付き合いのあるナレーターやタレントも(ただ酒飲みたさに)参加してきて、総勢50名近い一泊旅行でした。
土曜の午後、貸切バスで向かったのは海が近い民宿。

着いた早々先輩や上司は、「さあ、行くぞ」と、私たち新入社員に威勢よく声をかけるのです。

そして手渡されたのが、グローブにバットにソフトボール。

ホントにやるんだ。
はじまるのだ、新入社員歓迎ソフトボール大会が。


ソフトボールという行事を通じて心をひとつに!
春の日差しのなか、解放された肉体の果てにクリエイティブは生まれる!
そんなバカな。いま思えばあれが昭和だった。



スポーツは好きです。
小さい頃からキャッチボールはしていたし、ボウリングでのガッツポーズも研究したし、ブルース・リーに憧れてヌンチャクだって振り回した。

でもね、こういう歓迎会のようなものに組み込まれているスポーツ的なものは苦手だった。
あえて言えば、嫌いだった。
その後、ゴルフだって断固としてやらなかった。


これまでの自分を誰も知らなく、新しい自分へのリニューアル。
と、行きたい社会人としての第一歩を踏み出そうとしている段階でのソフトボールは、パソコンの履歴を盗み見されるようないたたまれなさがあり、いったいぜんたいどこがソフトなんだ。

高く上がったフライを追いかけて欽ちゃん走りしたら、
チャンスの打席で豪快に風を切ってしまったら、
この先ずっと「欽ちゃん」「扇風機」なんてあだ名が固定化されそうで、たまったもんじゃない。



スポーツは好きです。
体を動かすのは気持ちいいし、汗をかくのは爽快だ。
あくまでも自らの意思で、自らの楽しみで行うスポーツは、大好きです。
ところが、そのスポーツに別なる意味が備わってくると途端に嫌いになってしまう。
親睦や団結や交流。くそくらえ。


さらには思い起こせば、小学生時代の、体を育てると書いた「体育」
一瞬のうちにクラス内でのヒエラルキーが決定してしまう体育は、記憶の中の校庭が開放的で、空が青かったぶんだけ、悲しき思い出として、いつまでも膝小僧に残り続けています。


だから、山本ぽてとさんがいま執筆に取り組んでいる「スポーツぎらい」という本が楽しみでしょうがない。

お気に入りのラジオ(Podcast)「文化系トークラジオiife」というのがあります。2ヶ月に一回の配信だけど、その番外編に「働き者ラジオ」というのがあります。

ライターの山本ぽてとさんと、(ごめんなさい、何やっている人かよくわからない)工藤郁子さんの、ラジオ(Podcast)番組です。

その10月5日配信に「スポーツぎらい」というのがありました。


ライターである山本ぽてとさんが「スポーツぎらい」をテーマとした単著を出したい。
でも、なかなか筆が進まずまとまらない。
でも出したい。でも書けない。でもやっぱり出したい。

そんなもやもやを、スポーツが苦手だという人への取材話やテーマの絞り込み、集中して書くにはどうすればいいのかに絡めて、工藤郁子さんと語っていました。


いやぁ、これがおもしろかった。
本は完成した後にその執筆のきっかけや苦労などが後追いで語られることはあるけれど、プロセスでの紆余曲折を、著者自らが吐露するのって意外となかったような気がする。


ぽてとさん含め、取材をしたスポーツが苦手、嫌いという人のお話を単純にまとめたものにならなそうな印象を受け、興味がそそられます。

見渡せば、好きなものについて語っている本はいっぱいあります。
そこに込められている感情は、情熱的で愛に満ち溢れていて、誰も否定することはできません。
文章以外でも、推しを語る人たちの瞳はきらきらで、その表情を見ているだけで、赤の他人であるこちらも自然と微笑みが浮かんでくるほどです。

一方、嫌いなものについて語る人たちの表情は、一様に眉をひそめ、険しく攻撃的で、できれば目にしたくない。


さて、山本ぽてとさんの「スポーツぎらい」はどうだ?
スポーツへの嫌悪に満ちているのか。


どうやらラジオを聴いた限り、「嫌い」からはじまりはするけれど、向かうべき方向は嫌い一直線ではなく、暑いと涼しいが行ったり来たりする天高い秋の始まりのように、思索に満ちていそうです。



山本ぽてとさんは、執筆に向けスポーツが嫌い、苦手だという人に30人ほど取材を重ねたそうです。

ある人は、スポーツが苦手だから、逆に勉強をめちゃくちゃ頑張っていい大学に入り、広告代理店に就職した。
そこで出会った人たちの多くが、学生時代スポーツに打ち込んできた体育会系の人たちだった。
なんだよ、自分はスポーツが苦手で勉強してきたのに、この人たちはクソッ、って最初は思った。
でもしばらくすると、あることに気づいたという。
それは、スポーツに打ち込んできた人たちは、ミスに対して寛容である、と。
ドンマイドンマイ精神が身についている。
ミスをしても気にせず、相手を責めず、さあ次頑張ろう!という、住宅街のコインパーキングにある看板<前向き駐車でお願いします>のようなメンタリティがある。


たしかに。
これは一理あるかも。
ざっと思い出してみても、これまで接点のあった仕事関係の人、特に営業関係の人は、ざっくばらんで社交的で人を責め立てることもなく、あっけからんとしていた。その多くが体育会系出身だった。

ミスすると、ねちねちと粘着性の高い、根に持つタイプは(統計を取ったことないけど)ひょっとしてスポーツぎらいの人だったのかもしれない。


山本ぽてとさんは、こうした取材を通して気づいたことがある。
スポーツが嫌いだった人も、30歳以降、もう一度スポーツと出会い直しているケースが多いと。


政令指定都市ではない我が地元の10万都市でも、家の近所の半径1キロ圏内に、数件のスポーツジムが乱立しています。
いったい何人のスポーツ好きが走ったり泳いだりダンベルを掲げているんだ、とフェルミ推定するのが恐ろしくなる程です。


大人になると、みなそれぞれのやり方でスポーツを楽しんでいる。
自分だけではじめられ、自分の中だけで完結できる。
そこには、根性も団結も、あだ名をつけて笑ったりはない。
誰かのためではない。誰かに強いられたわけでもない。
ただ自分のため。自分がやりたいから体を動かす。極めてシンプルな動機に満ちています。


子どもの頃の、体育という名のスポーツの、<早く走る。高く跳ぶ。何回できる。>は、記録であり評価であり、そして残酷なレッテル張りでもありました。
テストの回答用紙は裏向けて誰にも見られないように隠すことができるけど、体育の場での自己表現は、衆人環視で、失敗も成功もそのままキャラクターとして固定化され、ン十年経った同窓会で酒の肴として引きずり出されてしまうのです。ああ、残酷。そりゃあ、苦手にもなるでしょ。


でも、もともとスポーツそのものには罪はない。
そんな、勝手に嫌いになられても、とスポーツ自体は嘆いているかもしれない。
嫌いの本質は対象自体にあるのではなく、周辺に散らばる根性や団結や絆や、そんな取り巻きの胡散臭さに潜んでいるのかもしれない。
その胡散臭い周辺から解放されれば、きっと嫌いは好きに変わる。

そういう意味で、ひょっとしたら「嫌い」という感情を因数分解したら、どこにはとてつもない可能性が秘められていることに気づくことができるのかもしれない。


「働き者ラジオ」での山本ぽてとさんの語りには、そんな可能性を感じてしまいました。


スポーツに限らず安心して失敗できる場、があればいい。

そんな言葉が印象的です。


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