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【控えめな自己主張日記】「生理のおじさんとその娘」の前に、「ガール・コード」というノンフィクションのお話を

7年ほど前のことです。
ある食事の席で、20代前半の女性数名と同じテーブルになりました。ドラマやアイドルや流行など、どうってことない話題について話していたのですが、どういう流れだったか気づくとなぜか話題が「生理」に移っていました。

彼女たちは「生理になると◯◯だよね」「生理が近づくと彼氏が◯◯」など、生理にまつわるあれやこれやを教えてくれました。

教えてくれた。

つまりそれは、目の前のオッサン(わたし)を無視したガールズトークではなく、このオッサン(わたし)も、会話の参加者のひとりとして認めてくれたというわけです。会話に加えてもらったのは嬉しかったけど、そのあまりのオープンさにツッコミの限界点を探れず、会話の迷子になったりもしました。
それが7年ほど前。

その間に、生理に関するトークや表現や番組が出てきて、タブーの鎖が徐々に解けてきた気もします。

ついこの間(3月)には、NHKで「生理のおじさんとその娘」というドラマもありました。
(このドラマはホントにおもしろくて、堅苦しくも重くもなく、最後のラップでの思いの吐き出しには感動さえもしちゃいました。近いうちにnoteで感想をまとめたいと思っています)

配信は3月31日までお早めに。


で、今日のnoteはその前に、こんなノンフィクションを紹介します。


アメリカの女子高校生ふたりの、生理に対するタブーに挑んだ体験記「ガール・コード」
2014年の出来事を著したノンフィクションです。


引っ込み思案であがり症のソフィーと、親からのプレッシャーに悩んでいるアンディが、夏、女性だけのプログラミング講座(Girls Who Code)で出会います。
チームを組むこととなった二人は、卒業の最終課題として簡単なゲームを作り発表することとなりました。
さあ、どんなゲームにする?なにをテーマにする?


二人が出した答えは「生理」でした。

そうして取り組むこととなった横スクロール系アクションゲームのタイトルは「タンポン・ラン」


ゲームの主人公は、銃の代わりにタンポンを持ち、銃を撃つ代わりに相手にタンポンを投げつける。という。

発表時のプレゼン文章の一部はこんな感じです。


【このゲームのコンセプトは奇妙かもしれないが、より奇妙なのは、社会がゲームを通じて銃と暴力を普通のことだと受け入れているのに、いまだにタンポンと月経を口にのせるのもはばかれる話題だと見ていることだ。少なくとも月経が社会における銃と暴力と同じくらいに普通のことになることを望む。なんのためらいもなくゲームで扱うことができるくらい。】

アメリカに限らず、銃や暴力による「血」は普通のこととして受け入れられています。映画やゲームでも平気で「血」がビジュアル表現となっています。
それなのに、同じ「血」なのに、月経による血は、どうして不快な気持ち悪いものとして考えられているのか。
多くの女性の人生の大部分で月経があるのは正常なことなのに、月経を取り巻くタブーは恥ずかしく下品なこととして刷り込まれているのか。

そんな疑問から思いついたといいます。


呆れられるかも、笑われるかも、不快にさせるかもと不安を抱きながら臨んだ発表の場。
講座の参加者、講座の先生、発表を見に来ている大人たち、その全てから「タンポン・ラン」は好意的に受け入れられ、二人は大きな自信を得ます。


その後広く発表された「タンポン・ラン」は話題となり、大きな反響を呼びました。
そして、あるラジオ番組に出演することとなりました。
ところが、司会者から攻撃的で皮肉で辛辣なインタビューを受けることとなってしまうのです。


二人は、「タンポンラン」の制作意図として「ゲームにおいて女性が過剰に性的対象として扱われている」ことについて話すと、

司会者は返します。

「ビヨンセについてどう思う?」「カニエ・ウエストはどう思う?」

「ビヨンセは、トチ狂って裸同然の格好であちこちでお尻をふっているだろ。彼女は超・性的対象化されてるよね。そして彼女は意図的にそれをやっている。どうしてみんなはそれを称賛するんだい?」

カニエ・ウエストの音楽が好きだというアンディに対しては、
「彼ってラッパーの中でもすごく女たらしで反フェミニストだったりするでしょ、そこらへん君はどう折り合いをつけているんだい?」
と意地悪な質問をぶつけてくる。


さらに
「タンポンラン2はあるのかい?」と司会者の話は続く。

そう聞いたあと司会者は「コンドーム・ファイト!」と叫ぶのです。

「コンドーム・ファイト、つまりね、君らがコンドームに穴を開けるために戦うバトルゲームさ。妊娠させたら勝ち!」

中年男性が二人の17歳女子に女性を妊娠させるゲームを作れと提案する。

このときの司会者の笑い声を、二人は「ヒイヒイと大笑い」と表現している。


このようにタブーに立ち向かう二人に対して辛辣で意地悪な大人がいる反面、二人を理解し守り応援する大人たちも出てきます。後者のほうが、数は断然多い。そんな大人たちが二人にかける言葉は力強く温かい。子ども相手という気を抜いた対応ではなく、ひとりの人間として尊重していて、ちょっと感動的でもあります。


「ガール・コード」の最後、二人は「タンポン・ラン」以前の自分と今の自分を振り返っています。


<野望を持っていたけれど、恐怖や不安、自身のなさに苦しんでいた。その女の子はずっと私のなかに存在し続けるだろう。誰の中にもそんな女の子がいるんのだろうと思う。
だけど成功する人というのは、どのように見えたとしても、恐怖や「できない」という感覚を乗り越え、未知の世界に飛び込んで学び、創造し、築き上げていく人だ。>


「ガール・コード」が、(生理についての)当事者である女性からの発信であるのに対し、
NHKのドラマ「生理のおじさんとその娘」は、生理の経験のないおじさんからの発信。


生命の誕生のためには欠かせないことなのになぜかタブー視され、大きな声で明るい場で語られることをためらわれる生理。

私も正しい知識を持っているわけではなりません。
子どものころの授業は真剣に聞いたわけでもなく、どんな授業だったかも今では何も覚えていない。
私のような昭和の子どもたちは、生理をちょっとしたからかいの道具として扱っていたところもあったかもしれません。


でも、平成の終わりから令和にかけて、少しずつだけどゲームやドラマで描かれ始め、変わり始めていることも事実。
それでもまだ大半は、「生理のおじさんとその娘」に登場した、生理を穢れのように扱い、顔をしかめる同級生の家族(父と息子)の反応のほうが多いであろうこともまた現実。


やはりどうしても経験のない人は、当事者ではない問題には触れないでおこう、黙っていよう、となってしまう。
それは生理だけじゃなく、たくさんある。
ジェンダーやマイノリティや入管や、震災被害だってそう。

見て見ぬ振り、というか、当事者同士で考えてね、という部分は悲しいかな正直ある。
でも、それでも声を上げる人たちはいて、でも、それもまたいろいろと難しい。

「よかれと思って」や「あなたのためを思って」が押し付けになってしまう危険性だってある。


「生理のおじさんとその娘」は、その気持を大切にしていた。
互いが抱くそんな複雑な気持ちをラップという形で最後に吐き出して、完全解決には至らないかもしれないけれど、ちょっとだけいい方向に進んでいくラストだった。


私は男性です。
できることは、「ガールコード」のようなノンフィクションの存在や「生理のおじさんとその娘」のようなドラマの良さを、こうした拙い言葉で伝えていくことしか、いまのところないのかな、と思っています。

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