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用意周到派の野ぐそでも、人間の本能にはかなわない、という話

藤原麻里菜さんという発明家がいる。

「オンライン飲み会緊急脱出マシーン」「インスタ映えを台無しにするマシーン」「怒ると勝手にひっくり返るちゃぶ台」「謝罪メールパンチングマシーン」など、なにそれ?的な無駄を、発明という形あるものにしてくれることで、世にはびこる当たり前に小石を投げいれてくれる。
そうして巻き起こる波紋がくすぐったくて、にやにや笑ってしまう。


発明を紹介する動画のなかで、藤原さんは笑わない。

動画のなかの藤原さんは、宇宙人のような衣装に身を包みランウェイを闊歩するパリコレモデルのように無表情だ。
町中で着たら遠巻きに嘲笑の対象となるであろうファッションでも笑顔を封印するのが一流モデルのスタイルなのか、発明を紹介する藤原さんも、そういう意味で無駄づくりのプロフェッショナルだ。
発明品の数々が笑えるだけに、そのギャップがとてもカッコいい。

そんな藤原麻里菜さんは雑誌「文學界」に【余計なことで忙しい】というタイトルのエッセイを連載している。
ちょうどこの前読んだのは「野ぐそに挑戦」というものだった。

野ぐそに興味を抱いた藤原さんの、野ぐそへの挑戦が綴られている。

まず藤原さんは、山登りが好きな母親に、野ぐそについて尋ねる。
母親からは自然保護の観点から、山での落とし物は持ち帰らなくちゃいけないと、至極まっとうな返答をもらい、悩む。

持ち帰るってどうやって?

愛犬家が散歩の途中犬が落としたうんこをスコップですくい、ビニルに入れ、小さなバッグに入れて持ち帰るように、野ぐそを持ち帰るのか。
散歩ならばまだいい。歩いて行ける範囲だから持ち帰れる。

でも、山の場合どうする?

車、ということになるだろうが、藤原さんは車を持っていない。そもそも免許さえ持っていない。
え、じゃあ、てことは、袋に入れて電車で持ち帰らなくちゃいけないのか。


JRによると、電車内に持ち込めないものとして、
危険物、刃物。暖炉・コンロ。死体。とある。
野ぐそはこれらには該当しない。

つづいて不潔なもの、臭気を発するもの。とある。
具体的に「くそ」とは明記していないが、野ぐそはこれだ。
いくらティッシュをかぶせ、新聞紙で包み、ジップロックに詰めても、もしも盲導犬が同乗していたら真っ先に吠えられてアウトだ。


山での野ぐそは自分には無理だ、と藤原さんは次なる手を考える。

野ぐその「野」を「外」と拡大解釈する。

身近な外、で不審がられず、持ち帰らず処理できる場所はどこだ。




ベランダだ。

さすがの柔軟な発想。


とはいうものの、いくら自分ちのベランダといえど、そこでそのまま下半身を露出して実行しては、副流煙ならぬ副流臭となってしまう。
しかも、下半身露出を近隣住民に目撃されてしまってはマズイ。

そんなこんなで藤原さんは下半身を露出しないで野ぐそ、いや、ベランダぐそ(ベぐそ)を遂行する方法を思いつく。


使っていないジャージの股の部分に切り込みをいれ、チャックを縫い付ける。
ベランダに置いた簡易トイレに座り、なに食わぬ顔で春の日差しを味わい、その時が訪れたらチャックを開き、一気に放出しようというのである。
なんとまあ。


実はこのエッセイ、実際に実行したのかどうかまでは書かれていない。
どうなったんだろう。ベランダぐそは成功したんだろうか。

ふだん藤原さんの発明紹介動画を楽しんでいる身としては、実行に向けた準備風景が容易に想像できる。

何度もジャージの試着を繰り返し、開くべき股の大きさを確かめ、慎重にハサミを入れていく。黙々と。
チャックを縫いつけ、開閉を繰り返し、いつでも行えるようシミュレーションを繰り返す。

実行の日の天候も重要だ。

今日は午後から雨が降る。寒いから止めよう。

今日は風が強い。この風向きは商店街に流れていく。危険だ。

そんな試行錯誤を、あのパリコレモデル顔で続けていたかと思うと、想像するだけでお腹いっぱいになる。やはり藤原さんはおもしろい。


さてここからが本題です。
藤原麻里菜さん、あなたのエッセイを読み終え、私は思い出してしまった。
生涯に一度だけ体験した、あの<野ぐその痛みと苦味を>。

それはまだ
AIどころかパソコンさえ身近でなかった時代。
グランピングという単語さえ耳にしたことがなかった時代。
キャンプといえば、ただテントを立てるだけの、そんな時代のことだった。

友だち数人と出かけた、キャンプという名の夜遊び。
見様見真似のなんでもぶち込め的な中途半端なカレーライスは、確実にお腹を直撃した。
公衆トイレなんかあるような場所でもなかったから、「ちょっとウンコしてくる」と仲間に告げ、近くの草っぱらに駆け込んだ。


背の高い草に囲まれたちょっとした窪地を見つけ、ズボンとパンツをおろし、急いでしゃがみ込む。
間に合った。


こういう話の場合、パターンとして「あ、紙がない」で、パニック、てのがよくある。
でも、ちがうのだ。
自分でいうのもなんだが、自分は極めて用意周到派。

数日泊まりで出かける時は、途中読み終えたら困ると、本を数冊持参する。
ボールペンの替芯は常備を忘れない。

だから、野ぐそに向かう時も、ジーンズのポケットに、ティッシュはしっかりと忍び込ませてあったのだ。
紙はある。安心だ。


しかし昭和というのはまだ発展途上。今ほどティッシュの質は優れていなかった。ジーンズの尻ポケットから取り出したティッシュは、引き出しの奥から出てきた輪ゴムのように、繊維が崩壊寸前で慎重に手にしないとぼろぼろと崩れ落ちていってしまう状態であった。


でも紙はある。ないわけではない。だいじょうぶ。おしり拭きはギャンブルではない。慎重に狙いを定め、それこそ無駄なく最小のティッシュで最大の効果を上げるのだ。

見えない背中にシップ薬を貼るように、ブックオフで買った本の値札を剥がすように、
慎重に、とにかく慎重に肛門周辺にティッシュを持っていく。
よし、いいぞ。拭けている。取れている。大丈夫そうだ。


しかし干からびた輪ゴムが簡単に千切れてしまうように、繊維崩壊間近のティッシュは指と便とを隔てる力強い壁とはならなかった。
いつしか便は、たよりないティッシュを突き抜け、指先へと移動していたのだ。


うわぁ。
指の先端にある、豆味噌のような<それ>。
落ち着け。大丈夫だ。それはぽつんと付いた豆味噌だ。勢いよく手を振れば振り落とせる。遠心力を使うんだ。

豆味噌の付いた右手を高くあげ、いざ。
一気に振り下ろす。


ここは大自然。木々がそびえ、草が茂り、足元には土がある。
木と草と土があるならば、もうひとつそこにあるものがある。
岩だった。
小ぶりな岩が地面から顔を出している。

しゃがんだ姿勢のまま振り下ろした右手は、そのままの勢いで傍らの岩へと向かっていく。
これも遠心力なのか、いったん振り上げた拳はもう下ろせない。
右手はみごとに岩にヒットする。


イテぇ!

人間の本能というのはおそろしい。
沸騰したやかんに触れてしまった時、あち、と思わずその指先を口元に持っていく。
のと全く同じことが、その時起きてしまった。

豆味噌の豆的な部分は遠心力で弾け飛んだが、粘着性を持った接地部分の<それ>は指先から離れることはなかった。
離れることなく、反射的にそのまま我が口元へと運ばれたのだ。

グェ。
ペっ。


時に野ぐそへの憧れを抱くのはいい。
四方を壁に囲まれていない広大な空間で、風や音の息吹を感じながらの野ぐそは、日常を超越した解放感をもたらしてくれる。
今まで心や体を不自由にしてきた現実の厳しさを、ひと時忘れさせてくれる。

俺はなんだってできるんだ!

恥や自意識や人の目や、そんなものを一切捨て去った野ぐそは、人を一歩前に進めてくれる。
でも、覚えておいてほしい。
野ぐそのあとには、必ず現実があると。

野ぐそであっても、その後の処理を正しく行わなければ、日常にはすんなり戻れない。
痛みや臭みや口の中に残る残骸を携えたまま、日常に戻るのは危険すぎる。

野ぐそに挑戦

やらなくていい挑戦はやらないほうがホントにいい。気をつけよう。


数年前に訪れた某芸術大学の彫刻科の実習室。
ガラス越しに眺めるその塑像の土台が、なぜか<それ>の塊に見えてしまったのを覚えている。


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