私は社会に不要な人間だ。文句ある?ー手前味噌な、ある日の仕事日誌

私は、社会には必要のない人間だ。これは別に、卑下しているわけではない。私の考えでは「本当の意味で社会に必要な人間などいない」と思っている。一人いなくなろうが社会は回っていくと考えているからだ。「お前なんかいらない」とのたまう人間はいくらでもいるだろうが、私が彼らに言いたいのは「お前もな」ということである。

脇道に逸れた。実際、私は、社会に必要のない人間だ。しかし、一瞬であれば、役に立つこともある。それが言いたい。「社会に必要ない」と集中砲火のごとく言われて、命を絶つ人は少なくないと思う。確かにそうかもしれない。しかし、生きていれば、何かの役には立つ可能性はある。そういう小さい話をしたいと思う。

それは、私の仕事中に起こった出来事だ。本題に入る前に、回り道になるが、基礎知識として、職場周辺の地理を少々お話しする必要がある。ご存じの方は、ここは飛ばしてください。

私の職場は、ある駅の改札口に直結しているオフィスビルだ。その駅は「南北に」線路が続いている。その駅の周りには、大きなオフィスビルがいくつか立ち並んでいる。改札口は、線路の真上にある。その改札口から「東西に」歩道橋が貫いている。その東側に、私が勤務しているオフィスビルがある。ビルとしては3階部分に当たり、そこがメインの入り口となっている。

「南北」「東西」の位置関係を把握して頂いたことを前提に、以下の話を語っていきたいと思う。

この前の日曜日、私のオフィスビルは、全館停電を行い、休館日作業に入っていた。そのため、人員がそちらに割かれ、我々警備部門は最低限の人数しかいなかった。

そのような中、お昼過ぎに迷子が発生した。5歳の女の子だという。お母様がインフォメーションブースにやってきて、そこを介して防災センターに一報が入った。お母様とお父様は、完全にお子様を見失っており、うちのビルだけでなく、「駅の東側」にあるビルをくまなく探すために、インフォメーションスタッフに連絡先等を伝えて、去っていった。

しかし、少々私たちは困ってしまった。前述したように、我々警備部門には、最小限の人数しか残っていないのである。この人数すべてを割いて小さな女の子を探すには、うちのビルは広すぎるのだ。

そのため、防災センターを出て勤務に当たるメンバーに、その子の情報が書かれた紙が渡され、職務の合間に探してくれ、という対応を取らざるを得なかった。私もその一人だった。私のその時間の持ち場は、ビルの3階入り口に1時間弱ずっと立つものであったからだ。

紙片を受け取って、防災センターを出た私は、持ち場に向かうため、ビルの「外構部に」ついている1階から3階に直結している、長いエスカレーターに乗った。

エスカレーターに乗って、上を見た。すると、エスカレーターのほぼ終点、3階部分辺りを、一目散に駆け上がっている小さな女の子が目に入った。周りを見渡しても、大人の姿が見当たらない。さすがにおかしいと思い、紙片を見返すと、書いてある服装と一致しているようだ。

その子は、すぐにエスカレーターの出口に着き、駅に直結している歩道橋の方に消えてしまった。私は、少なくとも警備服を着ている時はエスカレーターを走らないようにしている。ただ、この時はそうも言っていられなかったので、急いでエスカレータを駆け上がった。

女の子は、その年齢にしてはかなりの健脚だった。私がエスカレーターを3階まで駆け上がった時には、すでに駅の上を東西に貫く歩道橋のかなり向こうを「脇目もふらずに」走っていた。あまりの迷いのなさに「本当に迷子か」とも思った。ただ、相変わらずそれらしい大人の姿は見えない。もしこのまま見過ごして、駅の改札口を越えて、向こう側に消えてしまったら大変だと思い、必死で追いかけた。

ようやく駅の近く(すでに私のビルの敷地外=職務外)で、女の子に追いついた。呼びかけても反応せず走り続けるので、あまりよろしくないが、やや通せんぼする形で、その女の子に話しかけた。

「××さん?」「うんそう。ママを探しているの」

よかった。ビンゴだった。その子をビルの方に向かうように促して、ビル3階にあるインフォメーションセンターに預けて、私の任務は終わった。

以上が、事の顛末である。要約してしまえば、持ち場に向かっていた私が、「たまたま」迷子の女の子を見かけて、インフォメーションセンターに連れて行ったというだけの話である。

では、長い前提を話してまで、なぜこの書き込みを行ったかというと、話は最初に戻る。私は、社会に必要な人間ではない。それは現実である。ただ、そんな人間でも、役に立つ一瞬はあるのだと、述べたいためである。

私は、ただ単に「その時間に」持ち場に向かっていただけである。迷子探しなど頭にもなかった。それでも、迷子を発見することができたのは、本当に「偶然の巡りあわせ」としか言いようがない。もし仮に、私がエスカレーターに乗るのがあと10秒遅れていたら、または乗っても足元しか見ていなかったならば、「この段階での」発見はなかったのである。

もしそうでなかったならば、手前味噌だが、ゾッとする。女の子は、歩道橋を西側に向かっていた。つまり、我々のビルとは、駅を挟んで反対側である。そうなったならば、かなり捜索は難航していた可能性が高いからだ。

前述したが、ご両親は、自分たちが立ち寄った駅の「東側の」ビルを探し回っていた。駅前の交番にも足を運んだみたいだが、実はこの交番も駅の東側にある。そうなると、捜索範囲が「駅の東側に限られていた」可能性が高い。それだけでも、かなりの広範囲になる。ましてや、女の子は駅の西側に向かっていたわけだから、それはどんなに時間をかけても、空振りに終わるはずだったのである。

大騒ぎになっていたことは、想像に難くない。あまり想像したくないのだが、駅の西側で「いい」大人に出会ったならばともかく、「よからぬ」大人に目をつけられていたならば……とも考えてしまう。

そういう意味では、私が「たまたま」「あの時間に」「あの場所に」いたことは、手前味噌だが、意味があったのだと思う。繰り返すが、私は、社会には不要な人間である。それでも、生きているだけで、「意図せず」「偶然であっても」誰かの役に立つことはあるのである。

かなり説教臭くなるが、たとえ社会には不要でも、生きる価値がない人間はいない。そのことは強調したいと思う。「社会に不要な人間は死ね」という考えの人間が、昨今では偉そうに幅を利かせている。かつての私が、「社会に不要=生きる価値もない」思考の人間だったので、特にかつての私には送りたい言葉である。かなり遅いのは否定できないが。

最後は、偉そうに説教臭くなってしまった。本当に申し訳ない。ただ、またまた手前味噌だが、女の子に何も起こらなくてよかったとは、改めて思っている。



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