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詞をよむ:スピッツ「春の歌」

 季節はもうすぐ春が終わる頃でしょうか。ふいにスピッツの「春の歌」が聴きたくなり、その歌詞に気づいたことがあったので筆をとりました。

 気づいたこととは、この歌のいう「春」が四季の一つの「春」ではないのではないかということです。もうお気づきの方もたくさんいらっしゃるかもしれません。

 もちろん、歌詞の解釈は聴いた人によって幅があって当然です。むしろ、適度な抽象性を有する、人によって解釈が分かれる歌詞こそがすごい歌詞なのだと思います。したがって、私の解釈が全てではありません。正解というわけでもありません。ただ、私の解釈を皆さんの思考の端緒として役立てて下されば幸いです。

 さて、本題である「春の歌」の歌詞の話に戻りましょう。

 私は、この歌が四季の一つ「春」を歌ったのではなく、不自由や窮屈からの解放を象徴するものとして「春」という言葉を用いたのだと思うのです。私にそう思わせたのは、楽曲中1番に相当する部分です。以下、引用します。

『重い足でぬかるむ道を来た 
 トゲのある藪をかき分けてきた
 食べられそうな全てを食べた  ・・・(この3行を「A」と呼ぶ)

 長いトンネルをくぐり抜けた時 
 見慣れない色に包まれていった
 実はまだ始まったとこだった  ・・・(この3行を「B」と呼ぶ)

「どうでもいい」とか そんな言葉で汚れた 心 今放て

 春の歌 愛と希望より前に響く
 聞こえるか?遠い空に映る君にも』

 まず、「A」の3行では、重い足取りでぬかるむ道を進み、それを越えたと思ったらトゲのある藪をかき分け進む、という描写がなされ、思い悩みながらも前進する様子を読み取ることができます。「食べられそうな全てを食べる」のですから、自分が何をするべきか取捨選択することも難しく、がむしゃらに足掻いていることも窺い知れます。

 次に、「B」です。ここで長いトンネルを抜けます。私は、高速道路を走行していて、トンネルから抜け出た瞬間の爽快感を思い出しました。トンネルから抜けることは、一般的にも辛く苦しい状況から抜け出すことを意味していると思います。ここで、歌詞の主体はいわば殻を破り、解放されるわけです。「見慣れない色に包まれ」ていますので、色が鮮やかに見える吹っ切れた状態でしょう。そして、「実はまだ始まったとこだった」と、自分の人生がまだまだこれからで、希望にあふれていることを知るのです。

 そうして、「どうでもいい」と投げやりになっていた自分を戒め、心を解き放つ。

 最後に、愛と希望は、解放されて自由になった心に降り立つもの。だから、自由をうたう「春の歌」が何よりも先に響く。逆に。自由な心なくしては愛と希望も訪れない。

 こう考えると、この歌が心を自由にすることの賛歌であるとも言えると思います。

 普段から何気なく聴いていて、まさしく春に聴きたい歌だよな〜なんて感じていましたが、実際にはそれ以上の意味もあったのではないかと考えるに至った次第です。四季の春も、長く、辛く厳しい冬からの解放を意味していますから、この歌は様々な意味で解放の歌、自由の賛歌ですね。

 歌詞を書いた草野マサムネさんはすごい…。


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