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366分の1

 
 非常時の日常が続いている。

 原稿を書くペースがまったく掴めなくなった。私の場合何かを書くということが多分に身体的なものなのだと思う。今は在宅続きのおかげで体を動かす機会が減っている。すると同時に書くことを考えることや、そのためにキーボードを打つこと自体が体から遠ざかってしまう。これはとてもストレスの溜まる状態だ。

 どうすればいいか。日記にしてしまえばいいのだと思う。それに人生においてこんな時間を過ごすことはそう多くはないに違いない。ならば自分にとっても記録としての意味があるはずだ。

 ***

 3ヶ月おきに通っている歯医者さんの検診に行く。私は歯医者が嫌いだ。どれくらい嫌いかといえば歯医者くらい嫌いだ。つまりこれ以上嫌いなものはないということだ。

 初めてサト先生にお会いした際、私は壁を見ながら「私は……歯医者が苦手で」と伝えた。先生は呆れ返った顔で「わかりました。もうそのつらい思いをしないよう治しましょう」と言われ、結局そこから2年近く色々なメンテナンスをしてもらい今に至っている。その間サト歯科は古い雑居ビルから北新地の食べ物屋さんがたくさん入ったビルの最上階に移り、唾液の吸引装置でいつも頬や唇を誤って吸う謎の看護師さんが増員された。

 この日も歯石取りは苦行だった。犬ネコなら麻酔かけるじゃないか!と思いながら歯を食いしばっていると、歯科衛生士さんに「堀さん、口を大きく開けていただかないと早く終わりませんよ」とたしなめられた。この病院の関係者は皆ニコニコしながらいつも容赦がない。最後にフッ素のアワアワで口を満たされて会計を済ませる。この味はいつもかつて祖父が幼い私に処方した甘い飲み薬を思い出す。

 梅田に出てきたことをいいことに、そのまま会社が在宅勤務の不便解消のために押さえている作業場に向かい、午後いっぱいそこで仕事をする。広いスペースに入ると、家に居場所がない(仕事をする場がない)輩が点々と座ってノートPCに向かっている。私は自宅に作業スペースがない訳ではないが、ネコが膝に乗る、夫婦でリモートの会議が重なるとうるさい、妻が「天城越え」を歌いながら仕事をするなどの事情があり、このような場所を切に求めていた。

 しかも私には貧乏ゆすりの癖がある。何か考えごとをしている間ずっと両脚が動いている。特に何らかの佳境に入るとそれは顕著だ。公文をやっている頃からそうなので、きっと死ぬまで治らないだろう。なので会社にいる間は両側に同僚がいる自席から離れ、オープンスペースで作業していた。当然奥さんも感知しており、あまり歓迎はされていない。

 それがここに来ればし放題だ。しかもコロナ対策のおかげで周りの人間とも距離がとられている。これ幸いとばかりに盛大に足を揺らしながら、YouTubeでひたすら洋楽を聴いて作業にあたった。

 その帰り道。取り敢えず書店に寄ることはともかく、その後とあるところに向かったのだが。そこに行くことは今の世のなか的にはあまりよろしくないのかもしれない。決していわゆる“三密”な環境ではないが、場所だけ聞けば目くじらを立てる人もいるような気もする。なのではっきりとは書かない方がいい、のかもしれない。

 まあその「今夜、全てのバーで」みたいなところで(書いてるじゃないか)、細やかながらコロナ不況の影響をモロに受けている零細店の支援活動に勤しむ。マスターの細い目は今日も笑っていなかったが、ちょうどこの辺りのことに関わる記事がnoteのタイムラインに流れてきたので、これは明日にでも別途書いておこうと思う。

 そして話題は、今度引っ越す家のことに移っていった。

 「通勤時間は今よりプラス15分ってところですかねえ」
 「そうですか、なら今よりも遠くなりますね……」

 いえいえ、だからって足が遠のくこともありませんよと慌ててフォローしたのだが、マスターの目はいよいよ細く険しくなってしまったのだった。

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