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下準備の話

 
 人生是養生。

 noteが下書きを残すと「続きが楽しみ!」とか言うようになった。心憎い限りだが途中で書きあぐねたりすると途端にプレッシャーになる。まあでも日記みたいなもんだしいいかとやっと思い直して、今こうして再び打ち始めている。

 少し間が空いたが家のリノベの話だ。壁だったところを抜いてもらったり、逆に入り口だったところを塞いでもらったりしたおかげで、1階のあちこちで薄緑色の石膏ボードが剥き出しの状態になっている。これを当初からある土壁と合わせて白色に塗ることにした。

「床のオスモだけやって、あとは引っ越してからぼちぼち塗ろうかと」
「ほんまですか?床汚れるし、ボードなんで変だと思いますよ」

 最初はのんびり構えていたのだが、いざ現場を見てみるとディレクター役のヌシムラ氏の言う通り、土壁と石膏ボードが混在する空間はどう見てもちぐはぐで落ち着かなかった。メリットがあるとすればネコが爪を研いでも気にならないということくらいだろう。ううむ、これは腹を決めてやらねばなるまい。

 やると決めたら動きは早い。ひと通りの材料をヌシムラ氏に聞いて買い込み、晴れて夫婦2人でパテと塗料にまみれることになった。

 壁を塗ると言ってもその作業の多くは下準備だ。恐らく実際にペンキを塗る工程は全体の2割くらいじゃないだろうか。そして残りの8割のうちまずやらなければいけないのが「養生」だ。

 養生という言葉を初めて聞いたのはいつだろう。多分大学時代に引っ越しのバイトをしていた時だと思う。養生といえば当然体を休めることだと思ったので、最初は誰か怪我でもしたのだろうかと思ったのだが全然違った。引っ越しの場合は建物や家具に傷が付かないようクッション材を貼り付けたりすることだった。そして自分で壁を塗ることについて、誰に聞いてもどのDIYのサイトを見ても、とにかく養生が大事だと書いてある。養生に始まって養生に終わる。養生なくして塗装なし。養生の後に道はできる。一体何様なんだ養生ってやつはと思っていたが、やり終えた今、断言する。養生がすべてだ。

 養生の基本は、塗料を付けたくないところをマスキングテープで覆っていくことだ。この家でいえば壁と壁を区切る柱の部分がそれにあたる。

「右利きの場合、左下から時計回りにぐるっと貼っていきます」

 そう言うとヌシムラ氏は私が生まれて初めて買ったサスケ印のマスキングテープを手に取り、シャッ!と音を立てて手際良く塗装エリアを縁取っていく。

 私の人生におけるマスキング経験はほぼすべてプラモデルかラジコンだ。特にラジコンはオフロードのバギーから巨大なハイラックスまで、結構な量のボディーをマスキングしてきた。しかし所詮おもちゃの一種と毎日暮らす家とでは、気分的なシビアさが全然違う。

「私、模型とかラジコンでしかやったことないんですけど」
「大丈夫です!建築の世界はプラモデルとかよりはるかに大雑把なんで」

 こんな会話を聞いたら建築家のセンセイ方が怒るかもしれない。でも確かにそうだ。今借りている家もオーナーさんが全部DIYで壁を塗ったらしいが、ところどころむき出しになったコンクリートの躯体にかなり盛大に塗料がはみ出している。だがそれが住んでいて気になるかといえば、全く気にならない。むしろ味だとさえ思える。そう、アジだ。

 味だよ、味!と思いながら、私もサスケ印を手に取ってテープを貼っていった。貼ること自体は1時間もやっていれば慣れるのだが、難しいのは塗装する面とカバーする面の隙間を2、3ミリ空けることだ。これがないと塗装面のキワにまで塗料が行き渡らず、縁が全部塗り残しのようになってしまう。このちょうどいい隙間を空けていくことが結構難しい。

 そしてもうひとつ厄介だったのが、塗る面が細かく区切られていることだった。この家は真壁づくりで、柱の一面を表に見せる様式になっている。これはこれで雰囲気があっていいのだが、当然壁は柱の立っている間隔に合わせて細かく区切られることになる。そのひとつひとつをテープで縁取りつつ、むき出しになった柱や鴨居、長押の表面もカバーしなければならない。

 そこで使うのがこのマスカーだ。なんて偉そうに書いているが、私だってひと月前まではこんなものまったく知らなかった。簡単に言うと細い布テープに薄いビニールのシートが付いたもので、これを柱の上部に貼ってビニールを広げると、その下数十センチが丸ごとビニールで覆われることになる。素人からすればこれだけで既に凄いのだが、しかもそのビニールがある特殊な加工が為されていて、柱や壁にぴったりと貼り付くのだ。

 ここに落としたかった訳ね……。コロナはともかく、まったく大したもんだよマスカーってやつは。こいつを発明した人はさぞかし大儲け、いや天才じゃないかと思う。これがなかったらウチの鴨居の半分は白く染まっていたに違いない。マスカーのある人生と無い人生なら私は断然マスカーと共に生きる方を選ぶ。

 素人作業のせいもあるがこの養生作業だけで軽く丸一日は掛かった。この時点で既に腰も太股もパンパンだが、日数も限られているので間髪入れずパテ塗りに進まなければならない。厳密には私が細かい土壁のマスキングを済ませる一方で、奥さんが新人パテ職人として、普段埋めている毛穴よりだいぶ大きな穴を埋めていくことになった。

 思うにパテ盛りは料理やお菓子作りに通ずるところがあるような気がする。エプロン姿の奥さんが粉と水を調合してパテを作ったり、コテを使って盛っていく姿は、ひょっとして前職は……?と思うくらい様になっていた。

 そして塗り進めていくとこうなる。白と茶色があるのは最初に買ったパテと後で買い足したパテが違うからだ。もし図画工作で私がこんな絵を描いてきたら親はさぞかし不安に思っただろう。しかしパテを塗り終える頃には、この手の抽象画じみたボードがフロア中に点在していた。

 さて、パテとはつまり粘土のようなものなので、乾けば当然固くなる。そこにそのままペンキを塗れば表面はボコボコだ。これも味と言えば味なのかもしれないが、バカ舌で鳴らす私でも流石にそれが味だとは思えなかった。よってパテが乾いたらサンドペーパーで削って平らにするしかない。

 マスキングテープやマスカーに続き、生まれて初めて防塵マスクというものを買った。着け方は意外に簡単で、まずバンドを頭からかぶったうえでゴム製のマスク部分で鼻と口を覆い、肌と密着するようにストラップを締め込むだけだ。その慣れないマスクをかぶったうえで、左にあるサンダーに紙ヤスリを挟み、ボードに塗られたパテを片端から削って平らにしていく。

 この威力がまた凄かった。半密閉の新たに作った屋根裏でパテを削っただけで、フィルターを見てみると既に全体が黄色く染まっている。普通にやればこれを全部吸い込んでいたのかと思うと空恐ろしい。以後ヤスリがけに防塵マスクは必須になり、妻が塗り夫が削るという初めての共同作業の体制が確立された。

 というところまで取り敢えずやってみたが、この時点で既に2人ともへとへとだ。しかも2人で暮らすには家が無闇に広いせいで、ひとつの作業がなかなか終わらない。こういう経験をすると大工さんや職人さんの仕事の凄さや尊さが身に染みてわかる。ありがとう皆さん。

 さて、パテも塗ってペーパーがけもしたので、次はいよいよ塗装か。いやいやそうは行かない。塗るは塗るでもペンキを塗る前に一度塗るものがある。そう簡単に終わるものではないのだ。この時点で残り一日半。休み明けすぐに床貼りの工程が来る以上、素人作業は絶対にこの一日半のうちに終わらせなければならない。果してそれは可能なのか……。

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