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なつかしい日々

 
 過去、現在、未来を毎日行ったり来たりしている。

 巣ごもり生活で気付いたことが2つある。ひとつは「自己肯定感」について。元々私はこいつを掴むのが苦手だが、それをこの1年ほど強化していたのがnoteに記事を書いていくことだった。ほぼ毎日、短くてもいいから文章を書いて、好きな写真を組み合わせてひとつの形にする。この最後にピリオドを打つのが重要で、まとまったものをひとつ残すと、小さなものだが自分のなかに「今日も書き上げたぞ」という自負心が生まれる。それが生きる気力をチャージするとても大きな役割を果たしていたのだった。

 しかしそのリズムが長引く自宅待機で失われてしまった。するとそれに合わせて自分を認める気持ちも、自分を愛する気持ちも萎えてきた。これはいけないと思いながら何とか再び波を掴もうともがく。公私に渡るこのところのモヤモヤはつまりこういう仕組みで起きていたことを、最近いよいよ実感している。

 もちろん毎日の仕事のなかでその自負心が得られるのがベストだが、ちょうど1年と少し前から私はまったく違う種類の仕事に就いていて、なかなかそこまでの手応えを毎日掴むのが難しかった。なのでそれを補完するためnoteに何かを書きつけることを始めたのだが、今考えればその判断は正しかったのだと思う。

 もうひとつ気付いたのは、実は自分はあの朝早く起きてバスに乗って、押し合いへし合いしながら電車に乗って会社に向かう日々をなつかしく思っているんじゃないかということだ。

 これはとある朝の通勤風景だが、何故自分がこんな写真を撮ったのかは覚えていない。確かこの頃は大きなプレゼンを間近に控えていて、朝いちばんのバスに乗ろうと早足で近くのバス停に行ったのだ。周りの人はまだコートやダウンを着ていて、マスクなんて風邪をひいている人以外に誰もしていない時代のことだ。

 そう、私はいま自然に「時代」と書いた。在宅勤務が続くこの状態が正常か異常かといえば、異常だと思う。ただ実はこれが新たな正常なんじゃないか。ポストコロナ、アフターコロナ、ウィズコロナなど色々な言い方を耳にするが、コロナ禍が過ぎ去って「元に戻る」ということはないんじゃないのか。今はまだこの状態を異常と思うかもしれないが、次はこれがベースの世界が来るんじゃないのか。最近そんな感覚が自分のなかで急速に膨らんでいる。なので「時代」なんて言葉がすんなりと出てくる。もはや流行や習慣ではなく、時代が変わる瞬間に自分はいるのかもしれない。

 そんなことを考えながらこの写真を眺めていて思ったのは、あの頃がなつかしいなということだった。

 思えば満員電車なんて好き好んで乗っていた訳ではまったくない。あの東京の息が止まるような混雑度合いではないにしても、JR神戸線の新快速もまあそれなりに朝からサラリーマンのヒットポイントをごっそりと奪うに足る代物だった。否応なしに列車に押し込まれ、誰かの読むタテに折りたたまれた日経が頬に当たり、ブルートゥースの接続に失敗した中年男性のスマホから大音量のアニソンが流れ、20代と思しき女性が背もたれに首を乗せ大口を開けて寝息を立てている、そういう列車に乗り込んで会社に向かう。そんな日々がなつかしいものか。しかしそれが今の私には確かになつかしく感じられるのだった。

 とある打合せで後輩の女子が言っていた。いま知り合いと会ったらハグしてしまいそうだと。いい歳した私でもその気持ちはよくわかる。べつに満員の電車やバスにまた乗りたい訳ではない。しかしあの人と人との絶対的な距離の近さ、自分の快・不快で距離感を自由にコントロールできるあの感覚が、今はとても恋しい。

 やはり時代は変わったのだと思う。そんななかで自分はどうやってリズムを掴んで生きていくのだろう。在宅勤務が始まってはや1ヶ月が過ぎた。

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