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営巣流転

 
 どこに住みたいかということについて、深く考えたことはあまりなかったような気がする。

 大学で関西に来たのもそもそも大学がそこにあったからで、その後就職した会社に言われるがままに東京で研修を受け、名古屋に赴任してそこで6年間を過ごした。

 それから関西に転勤して最初は大阪市内、当時それなりに盛り上がっていた堀江や新町に近いエリアに、なんか面白そうだしと思って住んだのだった。確かにお店は多いし日頃遊び歩くにも好都合だったのだが、夜遅くに帰るとパトカーが路地裏でひったくりを警戒していたり、マンションの下の道から「誰かー!誰か止めてー!」という声と共にクルマが走り去る音がしたりして、何となく落ち着かない気分になって勝手知ったる西宮に引っ越した。

 それから離婚して再婚してもうしばらく阪神間はいいやと思い大阪に戻り、今度は大阪市内でも古いエリアに住んでみようと、上町台地に位置する谷町六丁目にマンションを借りた。この時が「ここに住みたい」と思って選んだ最初の機会だったかもしれない。

 谷六は面白かった。昔からの住民と新しく越してくる人たちのカルチャーがうまい具合に混ざり合って、街じゅうに新陳代謝が起きている感じが漂っていた。地下鉄の駅も近いし夜中に梅田からタクシーで帰っても2,000円台で済む。都会なので少々部屋は狭いけどまあ仕方がない。ここで数年住んで次の落ち着き先を考えるか思っていたところ、引っ越した翌年の夏のある日、向かいの家の住人が風呂場で首を括った。

 昔あの部屋でそんなことがあってね。へえー、という話ならまだいい。この時は自分の家に帰ろうとエレベーターを降りたところでヘアキャップを被った鑑識とコンニチハしたので、それからしばらくの間エレベーターのドアが開く度に胸騒ぎが止まらなかった。私は霊感ゼロの昼行灯だがこれは流石に堪えた。ううむ、残念だが次を探すか。

 仕方なくまたも物件を物色していたところ、100平米超の1LDKという変態リフォームを施した部屋を芦屋に見付け、これはいいと思って引っ越してきたのが今の家ということになる。この時は100%物件の面白さで決めたので、芦屋という場所にはまったく興味がなかった。ところが住んでみると市内でも交通がやや不便なエリアにある分家賃も割安で、辺りは静かでとても住みやすかった。ここで丸4年以上を過ごして、さて。そろそろやっぱり自分の住みたいところを本気で探してみてもいいんじゃないかと思い、何となく候補をいくつか絞って今に至っている。

 どこにいつ引っ越すかというところまではまだ決めていないが、何となくそう遠くないうちに芦屋を離れるような気がする。ところがいざそうなると俄然この地が恋しくなってくる。いや今も毎日ここで寝起きして暮らしているのだから「恋しい」もクソもないのだが、今のうちに何となく芦屋っぽいことをしておいた方がいいんじゃないか。ちょうど今日は天気もいいことだし。

 芦屋っぽいといっても、ロールスロイスを生協の前に路駐して買い物に行くとか(実話だ)、ペットシッターを雇ってアフガンハウンドとボルゾイを毎朝散歩させるとか(これも実話だ)、そういうことではない。そんなことはできやしないので、ただ芦屋っぽい休日の過ごし方みたいなものを、わざとらしくやってみてもいいんじゃないかということだ。

 ということで、まずは阪神芦屋近くのスペインバルで昼酒をキメてみた。店内は案の定指輪だらけでワイングラスを持ちづらそうにしている芦屋マダムや、スキニージーンズにシルバーの装飾が付いた革ジャンを羽織った芦屋ムッシュー(?)でごった返していて、擦り切れたグラミチにパタゴニアのアノラックという出で立ちの私は明らかに浮いている。仕方がないので女優サングラスをかけて戦闘態勢に入っている奥さんと2人、お店の外に出て立ち飲み状態で好き勝手に飲むことにした。

 途中店主の奥さんと思しき女性が出てきて自転車によじ登る息子さんを捕まえ、「あらあら、またそんなところに乗って」と優しくたしなめていた。できることなら私も「あらあら、そんなところで飲んで」とたしなめていただきたいところだったが、二度と来れなくなっても困るので黙っていた。

 そのうち店内も空いてきたので、モルタル仕上げのお洒落すぎるカウンターに席を移し、鹿肉の煮込みを頼んだ。思えばこういう外食は本当に久しぶりだ。

 何杯かワインを飲んで適当に食べた後、次に向かったのはパンタイムだった。ここも如何にも芦屋な方々でいっぱいだった。更にほど近いメツゲライ・クスダで肉肉しいソーセージを買うという暴挙に及んだが、そこでは最早カメラを取り出すことを忘れていた。ああ、今日の私たちはなんて芦屋なのだ。

 そして最後に向かったのは、旧宮塚住宅にできたティーハウス・ムジカだった。ムジカのスパイスティーと優しい店主は今も健在であった。

 結局昼過ぎから阪神芦屋界隈をぶらぶらと出歩き、楽しく買い物をして帰ってきた。うーん、我ながらいかにも芦屋らしい。満足した。

 これだけ楽しめるのだから、芦屋に住み続けても多分不満はない。大体ここは西宮に次いで住むには人気の街だ。生活上の不満などある訳がない。ないのだが。

 引っ越すのか?逡巡する人の心を見透かすような目で、久しぶりに長い留守番をさせられた茶トラがじっと見つめてくる。

 自分はどこに住みたいのか。そこでどんな暮らしをしたいのか。自分にとって何が一番大事なのか。とても悩ましい。でも一方で自分はどんな選択をするのだろうかと、自身を見下ろすもう一人の自分がいる。住む場所について考えることは、時に重大な決断を伴うものでもあるが、それでもやっぱり悩ましくも楽しい。

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