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好きなモノの話をしよう。

最近、気づいたことを。
私は、好きなモノの話をしている人の顔が好きだ。
好きなモノについて人が語るとき、頬がつやめいて、語り口は高揚し、言葉は踊るように転がる。
その人たちの顔はいずれも、違いなく、光っている。
美しさがある。

たとえば先日、私はゲーム好きの人の話を聞いた。
私はゲームのことはとんと疎いので、言っていることの半分も理解はできなかったけれども、「ゲームを通じて、様々な生き方をしている人に出会える」と教えてくれたその人の感じ方を、とても好ましいと思った。

翻って私自身はどうかというと、私は好きなモノのことを人に語るよりも、子供のときから、自分の内側で誰にも秘密の宝物のように、そっと大切にするようなところがあった。
人から好きなモノのことを聞かれたら、通り一遍に答えはするが、自分がどのようにそれを愛し、何にそれほどまでにひかれているのかを心のままに話したことはないような気がする。

要するに、恰好を付けたかったのだ。
私が好きなモノは、だれから見ても恰好がよくなければならなかった。
誰もが「素晴らしいね」と認めてくれるモノでなくてはならなかった。
そして、それを人に納得させるだけの言葉を、私自身が持たなくてはならなかった。

私は、エレファントカシマシが好きだ。
15歳のとき、「悲しみの果て」を聞き、カセットテープに録音した。
20歳のとき、「ガストロンジャー」や「so many people」に惹かれ、ライブに行った。
20代中盤、深夜遅くに働き疲れて帰ってきた自分の姿が窓に映ったとき、TVCMの「俺たちの明日」が聞こえた。
だからといって、夢中になって彼らの活動を追うようなことはしなかった。
すべては「点」だった。
中年となった時、その「点」が「線」になり、とうとう先日、宮本ソロ公演にまで赴いた。

なぜ唐突にそのような事態になったのか、自分でもつかめなかったのだが、おそらくこういうことだと思う。
私は音楽が好きで、ロックが好きで、あるいは、自分が生まれる前の歌謡曲を愛で、明治や大正の時分にあった、日本の大衆文化に惹かれる。
古いモノが好きなのだ。
そして、他の人にはさっぱり理解されない理屈としても、そういう自分の好きな要素を凝縮した有り様として、おそらくエレカシのことをとらえている。
そういった意味で、エレカシとは音楽ではあるが、音楽ではない。宮本というひとりの人間を記録した映画でもあって、自分という人間は、その合わせ鏡だ。
宮本が20代の時、どうだったか。30代の時、何を見て、どのように考えたか。40代では、50代では。
現存するものの歴史を、今この時として辿ることに、圧倒的な価値を感じる。たぶん、そのことに没頭しているときの私の姿は、いささか異様なのか、あるいは滑稽かもしれない。
ただ、それが私の好きなモノの形で、私なのだろう。

私の知る限り、エレカシは、宮本は、「ありがとう」を歌にしない。
世の中に、これほどまでに感謝をささげる歌が溢れているというのに、なぜなのか。
公演に行って思ったのだが、宮本にとって、「ありがとう」は直接伝えるものだからではないか。
そういうところが、どうにもぐっときて、恰好がいい。

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