いきなりメランコリー

 なんだか、「いきなりメランコリー」をしたくなった。これは映画ミッドナイトスワンからの引用でもある。最近、この映画や小説の三体など、ドーパミンどばどばコンテンツに出会ってしまって脳が大変なことになっているのを自覚している。この波が引いていくとき、反動で相当落ち込むであろうことは覚悟こそできているが、それでも実際恐ろしい。ドーパミンが切れると、手は震えるわ、何もやる気が起きないわでそれはもう大変である。こう書くともはや薬物の禁断症状でしかないのだが、正直そんなに違わないだろう。禁断症状は耐えるしかない。ひたすら耐えて、もとの何もない日常に再び脳が慣れるのを待つ。そんな中で、ドーパミン不足に喘ぐ脳が少しでも苦痛を安らげるために思いついたのが、文章を書くことだった。というわけで、あなたが読んでいるのは、ドーパミン中毒患者のリハビリテーションの産物です。

 本題に入る。この文章で書こうと思ったのは、映画や小説の感想ではなく、Twitterを見ていてふと思ったことである(作品の感想などもいずれ書いてみたいとは思う)。
 タイムラインを見ていると、当たり前のように生理の話をしている人がいる。当たり前のように、血が出るとか、イライラするとか言っている。実際それは「ように」でもなんでもなく、ただただ当たり前のことなんだろう。が、私にとっては当たり前ではない。というよりも、私という存在が当たり前ではない、といったほうが事実に即している。
 私は生物学的には男性なのだが、Twitterのフォロイーは女性のほうが多いので、そういう話も聞こえてくる。そういう時、いろいろなことを考えてしまう。

 一つには「気持ち悪い」と思ってしまう。勘違いしないでください、女性の生理を気持ち悪いといっているのではなくて、自分のことが気持ち悪いのです。そういう話を聞いている自分が気持ち悪い。男の体をもつ人間が生理の話をしれっと聞いている状況が気持ち悪い。なにより、男の体をもつ人間が生理のことに触れたり、ましてやこんな長文まで書いているという事実がかなり気持ち悪い。お前はなんなんだ。
 そんな風なので、基本的には生理のことなんか触れることはないのだが、どうも今回は考えすぎてしまった。感傷的になりすぎてしまった。なので気持ち悪いのを承知で吐き出すことにした。

 普通の女性の「当たり前のこと」が欠けているという事実。曲がりなりにも私は、日常的には(たぶん)女性として認識をされて生活をし、自分でもそれが自然であると思って生きている。そういう身にあって、「女性の当たり前」を決定的に欠いているという事実を突きつけられるという瞬間は、まあ楽しくはないだろうね、くらいには想像してもらえると思う。「お前は偽物だ」「嘘つき」「女じゃない」そんな風に言われている気分になる。
 疎外感。なんで私だけ違うのか。みんなが当たり前に経験していることなのに、なんで私だけ語れないのか。愚痴れないのか。それはお前が嘘つきだからだ、偽物だからだ、だから居場所がないんだ、当然だ。
 …苦しい。

 そしてこの感傷は、より重大な絶望をも示唆している。私は、子供を、産めない。私は、母親に、なれない。生命が生命であるために当たり前のこと。次代に命を繋ぐ能力。私にはそれがない。生命としての存在意義がない。
 私は、母親になりたかった。自分の体を損じてでも命を繋ぎたかった。未来を継ぐものに愛を伝えたかった。自分がそうされてきたように。自分が与えられた無償のものを、次は自分が与えたかった。
 …むなしい。

 さて、かなり感傷が深まってきましたが(すでに泣いている)、ここで一つ触れねばならないことは、「そうはいってもお前は五体満足で生まれてきたじゃないか」ということです。そう、散々生命としての欠陥を嘆いてはいるが、実際私は欠損をもって生まれてきたわけではない。それは後天的な、あえて言えば精神の欠陥ということになるのだろう。
 授かった体で、生命を全うすればいいだけの話じゃないか。なにをそんなに苦しむことがあるんだ。男性として生きることもできたんじゃないのか。そうすれば、身体的な疎外感を感じることもなければ、子を授かることだってできただろうに。
 そう、その通り。選択肢として、私には男性として、父親として生きていくという道も与えられていたはずだ。客観的に見れば、それを勝手に放棄した分際で、何を文句垂れているのかというところである。
 しかし、私はそれを選ばなかった。自然に逆らってまで、生命としてのドグマを放棄してまで、女性として生きることを選んだ。何がそこまでさせたのか。それは全く簡単なことだ。それだけの代償を負っても、与えられた性別に適合する困難よりは圧倒的に現実的だったからだ。

 長々と語ってしまった。書こうと思えばまだいくらでも書けそうだけど、まあこんなところにしておこうかな。ここまで読んでくれた人(いれば)、ありがとうございます。
 最後に。
 私の絶望は、これから先もずっと癒えることはないのだろう。心にはぼっかりと穴があいている。誰しもそんなものは抱えているものだろうが、私の場合、最後までその穴が塞がれることはないのだろう。一生付き合っていくしかない。代わりになる何かを探しながら。

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