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「全人的」の「分人的」な、かかわりしろ

いとちプロジェクトがどのようなプロジェクトなのかを知るための補助線として、当事者として関わっている私、小松理虔の立場から、ここ最近つらつらと考えていることを言語化しておこうと思う。(全く同じ記事を、いとちのウェブサイトにも掲載しています)

このテキストは私が普段考えていることが分厚い下敷きになっているから、初見の人には若干伝わりにくい内容があるかもしれないけれど、全部まとめて振り返ると本が1冊書けてしまうかもしれないので、ここでは一旦棚に上げておき、早速書き始めていくことにしよう。

筆者が学生たちを連れてかしまのまちをガイドする様子

医と地が連携した育成プログラム

いとちプロジェクトは、「かしま病院」が実施するコミュニティデザインのプロジェクトだ。病院を地域へと「ひらく」活動を通じて、「医」の人たちと「地」の人たちとの往来をつくり、よりよい地域をつくろうぜ、というプロジェクトである。

そのプロジェクトの中に「いとちワーク」という研修プログラムがある。病院のある鹿島地区のまち歩き、多職種対話ワークショップ、座学講座、保育園滞在などが主な内容だ。通常、毎週火曜日の午後に2時間ほど実施されているほか、合宿と組み合わせて行われることもある。

かしま病院には、複数の大学から学生が研修を受けにやってくる。医療や看護、薬学を学ぶ学生のカリキュラムに、病院や施設などでの実習が組み込まれているからだ。「いとち」が本格化した2023年からの1年間で、「いとちワーク」に参加した学生は100名を超えているはずだ。参加してくれた学生に対して、まずは御礼を申し上げたい。

この「いとち」が始まる前の研修は、どちらかというと「施設の中」で行われていたそうだが、この1、2年でプロジェクトが活性化され、地域との接点が生まれたことで、学びの場を地域に拡張できるのではないか、というアイディアが生まれた。その後、さまざまな試行錯誤を経て、かしま病院の指導医も認める研修プログラムに育ってきたかたちだ。

地域医療と全人的医療

非医学の立場にある私たちが講師になるという大胆なアイディアを実践・実装するに至った背景には、二つ、需要なキーワードがある。一つは、かしま病院が地域医療を掲げた病院であること。そしてもう一つが全人的医療という概念だ。二つのキーワードは、かしま病院の理念そのものであり重要な意味を持つ言葉なので、少し個別に分解して考えていきたい。

地域医療とは、病気や怪我の治療だけでなく、そこに暮らす人たちの健康的な暮らしのために提供される医療・福祉・支援などの総体を指す。介護やケアなどの領域を広く包摂しながら、地域全体の健康的な暮らしを支えようという考え方だ。

地域医療を推進する中で 、医師の役割は当然、病院の外にも広がっていく。患者が治療を終えて退院しても、自宅での暮らしがままならなければ病院にまた戻ってくることになるし、医療と福祉の連携も欠かせない。その患者が地域の中で孤立していないか、孤立しているのであればそれはどのような理由によってなのか、などまで考えなければならない。多職種のさまざまな職種の人たちと連携して治療方針を決めていく医師の役割は、ますます地域にはみ出しているように見える。

そしてもう一つのキーワード、全人的医療。これは、特定の部位や疾患に限定することなく、患者本人の心理、社会的側面、人間関係、これまでの人生の歩みなども含めて幅広く考慮しながら、総合的な診断・治療を行う医療のことを指す。

かしま病院でも、指導医師から「症状だけでなく人を診よう」「患者の背後にあるものを知ろうする姿勢が大事だ」というメッセージが繰り返し伝えられている。いとちワークも同様だ。地域の人たちとの対話ワークショップを提供したり、保育園に滞在して子どもたちと遊ぶ時間をつくったりしているのも、そこで過ごす時間が、患者の背後にある「地域」というものに対する解像度を上げる体験になるのではないかと考えているからだ。

地域を知ることは、患者の背景を理解する補助線になる。なぜなら、その地域特有の社会課題、産業形態、食文化などが個人の健康にも関係してくるからだ。たとえば、いわき市民の健康課題として、塩分摂取量が多いことや血管系の疾患が多いことがよく言われるが、その背景に、かつてこの地が炭鉱労働で支えられていたこと、その後、製造業が地域全体で振興され市全体がある意味で「工業団地化」したこと、汗をかいて働く労働者が多く、塩分の濃いものが求められたことなどを挙げる人は少なくない。

このように、「わたし」という個人は、地域の歴史や文化、風習、地理的要因などから影響を受けている。わたしという存在は、地域と切り離すことが難しい存在だということだ。地域を知ることは、目の前の患者を知ることにつながるし、診断にだって役立てることもできるかもしれない。だから、研修の期間中、1回くらいは病院の外に出て、地域の人たちと語ってみよう、まちを歩いてみよう、なにかヒントが見つかるかもしれないよ、という「いとちワーク」が生まれたわけだ。

鍵を握る総合診療医

地域医療や全人的医療を支える鍵となる存在が、総合診療専門医である。特定の部位や臓器ではなく、家族や生活背景、地域の暮らしなども総合的・全人的に把握しながら患者を診断するという医師を指す。

その役割は、腹痛も怪我も、感染症も生活習慣病も、さまざまな疾患をいったん丸ごと全人的に診断し、必要とあらば大病院・専門医へとつなげること。いわゆる「かかりつけ医」と言えばわかりやすいだろうか。いわきのような地方都市には、臓器別の専門クリニックや大学病院のような大きな病院が多くあるわけではない。限られたリソースで患者たちを受け止めなければならない地域だから、総合診療医の活動のフィールドはますます地域に広がっていると言えるだろう。

そんな全人的な視点を有する総合診療専門医を育てていくためには、地域に出る機会、多様な人たちと出会い、語り合い、地域を知ることのできる場があるほうがいい。だが、病院はあくまで治療の場。地域の人たちとの交流が盛んに行われているわけではないし、日常的にツアーが組まれているわけでもない。その余白に、非医療の私たちが出る幕がある。

全人的理解とは

こんなことは当たり前のことだが、人を全人的に理解しようとすると、疾患はその人の全てではなく「一部」でしかないことに気づかされる。仮に目の前になんらかの生活習慣病を抱えた患者がいるとする。医師がすべきは、定期的に血液検査をして数値を測り、数値を改善するための薬を処方をし、しかるべき食事指導や運動指導をして改善を促すことだろう。だが、いとちの研修では、指導医から「その人の背景を探ろう」というメッセージが繰り返し伝えられる。

たとえばこうだ。その患者は、どうも毎日のようにポテチを食べてしまう。それは単純に不摂生だからなのか。あるいは、その患者を偏食に走らせるストレスがあるのか。ストレスからくる偏食なのだとすれば、ストレスの原因はなんなのかを探る必要はないのか。仕事が原因なのか、親子関係に由来するものなのか、就職がうまくいかないからなのか、あるいはなにかしら困窮状態にあるのか。そこまで考えてみようと。

総合診療医は、つまるところ、生活習慣「病」を診るだけでなく、その先にある「人」を診ようとする。それは言い換えれば、目の前の人を「患者」の側面だけではなく、固有の名を持った「◯◯さん」として捉えるということだ。

以前、かしま病院の総合診療医から、ある患者さんのケースを紹介してもらった時のことだ。指導医は、こんなふうに話を始めた。患者さんAさん。何年どこそこ生まれ、何十年にわたりどんな仕事をして、何歳の時に妻に先立たれ、その後どういう疾患を経験し、どんな手術を経て、現在このような疾患を抱えるに至り、こういう状況になっている方です……というように、その人の経歴を丸ごと紹介してから具体的なケースの説明に入った。総合診療医たちは、当たり前にこういうスタイルで症例を共有するのだそうだ。

ところが、臓器別の領域での研修だと、疾患の名称や具体的な臓器の状態、数値やデータ、画像などが提示され、どう判断すべきなのかの具体的なアドバイスに入るという流れが主流だという。大変興味深い話だ。どちらがいいとか悪いとかではなく、ある種の役割分担なのだと思うが、このエピソードにこそ、総合診療医のアプローチが端的に言い表されている気がする。

総合診療医は、このように患者を全人的に捉えようとする。だが、目の前の患者さんが、これまでの人生を、自分の状態を、素直に語ってくれるようになるには信頼関係が欠かせない。だからこそ指導医たちは、「人を症状だけで、疾患だけで判断してはいけないよ」「人を丸ごと理解しようとする姿勢が必要だよ」と、学生に向かって言葉をかけるのだろう。

そして、この総合診療的な姿勢、言うなれば「全人的着眼」は、医師でも医療関係者でもなんでもない私にも、なぜか謎の角度からブッ刺さってくるのだった。

「当事者」の分人的一面性

目の前にいる人に、なんらかの病気や障害、困難があるとする。だがそれもまた、その人の「一部」だ。もちろん、その人たちにはつらさや困難があり、私たち非当事者に自分ごととしてそれを考えて欲しいからこそ当事者は声を上げ、支援者はそれを手助けする。その声を無視してはいけないと思う。けれど、なにかの課題の当事者であることはその人の一部でしかないということも、全人的着眼は教えてくれる。

目の前にいる人を、なにかわかりやすい用語でカテゴライズされた当事者(たとえば「認知症のばあちゃん」とか「発達障害の少年」とか)として見ると、その人のことをなんとなくわかったつもりになれてしまうが、そのカテゴリ一の一色のみで、その人を塗り固めてしまうということにもなってしまう。人の本来もつ複雑さ、多面性が見えなくなる、つまり「全人的」に捉えにくくなるということだ。

自分を成り立たせているものを円グラフにするみたいな感じで、わかりやすく書き出してみたらいい。なんらかの苦しさを抱えている自分だけがあるわけではないと思う。なにかのゲームが好きな自分、母親や父親である自分、ラーメンが好きな自分や、マージャンにハマっている自分もいる。なにかの困難があったとしても、それは自分のせいではなく、生い立ち、教育、交友関係、過去の恋愛などが関係しているかもしれない。

専門家や支援者は、その「一部の側面」に深く関わる存在だと言える。それだけ専門的な知識や情報、経験が求められるからだ。だが、そうではない側面、そうではない領域であれば、私たちにも関わることができる。

たとえば目の前に「認知症」とされる男性がいるとする。専門家は目の前の人が認知症だと把握したうえで、しかるべき言葉をかけ、しかるべき介助ができるだろう。だが、その方が麻雀を打ちたいと言い始めたらどうだろうか。昔好きだったアニメの話がしたいと言ったらどうだろうか。その男性をケアできるのは、医師でも看護師でもヘルパーでもない、雀荘浸りの大学生かもしれないし、昭和のアニメを熟知するオタクかもしれない。

介護の担い手ではないからこそ生まれた豊かなコミュニケーションの前では、目の前の人が認知症かどうか、患者かどうかなんて、宙に浮いてしまうのではないだろうか。全人的に人を捉えようとすれば、目の前の人の多面性に気づく。そしてその多面的な一側面に、私たちの関わりしろも広がっているのだと思う。

複数の「わたし」と共に

地域医療の実習や現場の医師たちとの交流を通じて、私はこう考えるようになった。専門性というのは、その専門性を向けるべき「一部」を深く掘り下げて、鋭く洞察し、適切な処置を施すことができる一方で、その当該領域だけしか見えなくさせてしまう面があるのではないかと。

人は多面的で、さまざまな側面を持っている。それは5にも10にも、100にもなるかもしれない。とするなら、もはや人を「全人的に理解する」なんてことは到底できないとすら思える。

いや、ちがう。だからこそなのだ。多面的な個を全人的になんて理解しきれないからこそ、さまざまな人たちがそれぞれの「一部」を持ち寄って目の前の人にみんなで向き合い、その「一部」の数を増やしながら、それでもなおその人を全人的に理解してみようと試みるのではないか。人を総合的に、全人的に理解するには、医師だけではたぶん足りない。仲間やチームが必要なのだ(仲間がいれば、それだけ多面的に捉えられる)。

この考えを、作家の平野啓一郎が提唱する「分人主義」と結び付けてもいいかもしれない。ふつう人間は、個人を分割できない一人の人間として捉え、その「本当の自分」がさまざまな仮面を使い分けて社会生活を営むと考えている。だがそうではなく、対人関係ごと、環境ごとに分化した異なる人格すべてを「本当の自分」だと捉え、それら複数の人格すべてを認めていくのが分人主義の考え方だ。

輪郭のくっきりとした一つだけの「本当の自分」があるわけではない。とするならば、なにかの困難の当事者である自分だけがあるわけではない、と考えるのが自然だ。なにかの当事者ではない自分もいるし、障害者ではない自分や、認知症患者ではない自分もいる。

人格は複数あるという前提に立てば、なにか特定のカテゴリに縛られる必要もない。「認知症のおばあちゃん」ではなく一緒にお茶を飲む隣人として捉えることもできるし、「迷惑な行為を繰り返す知的障害者」ではなく大事な表現を繰り広げる作家なのだと捉えることもできる。「被災地」として捉えるのではなく、酒や魚を楽しむエリアとして見てみてもいい。

そうやって、「なんらかの課題の当事者ではない側面」を期せずして掘り起こし、その人の「分人的側面」を通じて出会う回路を立ち上げる。専門家ではない人たち、ぼくがしばしば「共事者」と呼ぶ人たには、そんな役割もあるのではないだろうか。

全人的に目の前の人たちを捉えようというとき、目の前人の患者ではない側面や、当事者ではない側面を通じて、ぼくたちはその人と出会いなおすことができる。当然、その側面とて一部分ではある。けれど、課題を抱えているかもしれない人たちを、医療や福祉とは別の角度からケアしてしまうような可能性を、ぼくたちは有していると言えないだろうか。

たとえば、寿司屋でたまたま隣り合った人が、うまく言葉を発することができないとする。専門家なら、その人は「場面緘黙」だろうか、あるいは「失語症」だろうかと、知識や情報と結びつけて考えることができるだろう。だが、その時点で目の前の人を「場面緘黙当事者」とか「失語症の方」とラベリングせずにいられない。

ぼくたちは、そんな障害があるとは知らない。いや、あるとは知っていても目の前の人と結びつけられないかもしれない。あれ、おかしいなあ、言葉が通じないのかな、もしかしたら? と戸惑うだろう。でも、筆談したり、ジェスチャーしたり、あるいは適当に相槌を打ったり乾杯したりして、いい時間を過ごすことができるかもしれない。そのあとカラオケになだれ込んで仲良しになる可能性だってある。

だから、なんらかの当事者ではない自分や、当事者性・専門性が低いことを嘆くのではなく、専門性のない自分を頼りに動いてみればいいと思う。そうしないと、目の前の人は全人的には見えてこない。正しい方法ではなかったとしても、アクションを起こして0から1を生み出そう。まちがっていたら素直にそれを認めて学び、それも含めて楽しんでいこう。それが、私たち部外者の「実践的態度」だと言えるのかもしれない。

専門家ではないからこそ

当事者ではないからこそ、専門家ではないからこそできることがある。私たちは、医師ではないからこそ、目の前の人の「患者ではない側面」をひらき、その人を多面的に知る回路を立ち上げてしまう可能性を有している。もしそうなのだとすれば、大事なのは、「しっかり」やることではなく、「うっかり」やってしまうことだ。ぼくたちのそんな先走りこそ、全人的医療を思いがけなくひらくスイッチになるかもしれないからだ。

地域医療も、全人的医療も、医療や看護だけが使う言葉ではない。そこには常に、ぼくたちのような、部外者でありながら関係者でもあるという中途半端な人たちの関わりしろがある。だからこそ「いとち」は、医学生にだけでなく、ぼくたちにもひらかれた学びを提供してくれる。一応「講師」として関わっているはずなんだけれど、ぼく自身も着実に学んでいる。来年度も大いに学ばせてもらうつもりだ。

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