備忘録「普通のケア」と漂流

今読んでいる西川勝さんの『ためらいの看護』のなかに、「普通のケア」という言葉が出てくる。特別なこと、高度なことはなにもしない。みんなで声をかける、どうぞこちらへと着座をうながす、お茶を出す、一緒に外を眺める。そんな、なんのことはない「ケアのかけら」が複数の人によって「つぎはぎ」されるとき、「普通のケア」が立ち現れるのだと西川先生はいう。西川先生はそれを「パッチングケア」と呼んでいる。

普通のケアは、あまりにも普通すぎて「サービス」とはいえない。対価をもらって体験を提供するわけではない。「自分らしい最期とは?」のような難問を突きつけることもなければ、高度な技術に裏打ちされたものを提供するわけでもない。哲学的な問いが、そこから生まれるわけでもない。

ぼくがこの「普通のケア」に共感したのは、それはそのまま、ぼくがいつも語っている「共事者」の議論にも当てはめることができそうだからだ。特別ではない人による、特別ではない普通のケア。そんなケアの一部分であれば、ぼくたちにも担うことができそうだ。知らないうちに、いつの間にか、目の前のいい時間に関わっていた。自分ではそれはケアだと思わなかったけれど、その一部に関わってしまった。そんな経験なら、ぼくにもある。

ぼくは、前に書いた『ただ、そこにいる人たち』という本の中で「福祉は誤配される」という趣旨のテキストを書いた。プロフェッショナルな技術や知識を持った人ではなく、たまたまその場所を訪れた人の素人ゆえの行いが、生にくさや困難のある人たちの「自分らしい時間」のようなものを作ってしまう可能性がある。どれほどその障害が重度でも、部外者ゆえに勝手に福祉の扉をまちがって開けてしまうことがあるのではないか、だからもっと扉を思い切って開いてみたらいいのだと。

西川先生の「パッチングケア」は、そんな誤配の偶然性、即興性みたいなところに、いい具合に光を当てている。なによりパッチングは「つぎはぎ」だから、複数なのがいい。プロならひとりで10の仕事をやれる。普通の人は1しかできない、でも10人でやれば10になる、かもしれないし、10にはいかなくても7くらいにはなる。

専門性なき人たちは、しかるべき正しい対応など知らない。たまたま自分のところにボールが回ってきたので、即興的に来たボールをだれかに渡すだけだ。そのボールの受け渡しの仕方もまた特別なものではなく、そう、まさに「人にほんらい備わっているもの」を通じてである。人として普通に、あいさつしたり、どうぞどうぞと着座を促したり、天気の話をしたり。

そこに強い意図はない。それは即興と偶然の連なり。「正しい方向」に向いていないのである。向かう先がないのだから、それは「漂流」ともいえるだろう。目的地のために最短距離で正しい航海をするのではない。なにが起きるかわからない海を漂うのだ。しかし、漂流するということは、相手をコントロールしない、意のままに操ろうとしない、ということでもある。

そういう場所に、意図しない「いい時間」が生まれるのだろうし、特別なスキルなど必要ないというところでなら、素人や部外者も、自分なりに関わることができる。そしていつの間にかパッチングの一部になってしまう。

うん、これって看護の話だけではない。いろいろなところに通ずる話だし、ぼくは、こういう考え方を「取材」のような領域にも当てはめることができるのではないか、ということをぼんやりと考えている。相手を意のままにしないで取材なんてできるのか。目的やしかるべき筋書きを立てずに成立する取材なんてあるのか。あるいは、ケアの時間を立ち上げてしまう取材というものは、ありうるのか。

いわば取材とケアをめぐる問い。掘り下げて考えてみてもよさそうだ。

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