老いた若僧

明日で44歳になる。これまでの人生で「○○歳の自分」みたいなものを想像、想定することがなかったためか、想像通りにきたぞとか、いや想像と違ったなとかいう感慨もなく、誕生日特有の高揚感のようなものもなく、身体が前よりも圧倒的にだらしなくなったなとか、この疲れ、抜けることなくますます老いていくんだろうなとか、あるのは粛々と受け止めるべき現実と身体の痛みばかり。まだ老いを感じるなんて早いですよとか、リケンさんそんなんでは困りますよとか言いたい人もいるかもしれないからあらかじめ書いておく。うるせえよと。

とにかく疲れが溜まっている。それは三日三晩働きつづけた末の疲れという類のものではない。人生そのものの疲労なのだ。特にこの10年くらいは明らかに多動だった気がする。いやもともと多動的な気質だったとは思うけれど、自分のキャパシティ以上に激しく動いてきた。人生トータルで使う好奇心や「やる気」を前借りしてきたようなものだろう。その分早く死ぬと思うけれど、それはそれで仕方がないとも思う。

休んでくださいと言われても、そう簡単には休めない。望んで独立した個人事業主であるぼくにとって、働くことは自己の存在のなによりの証明であり表現そのものなのだ。ワークライフバランスを整えて趣味に打ち込んでみては? とか言われてもしっくりこないのである。仕事をすることでぼくは生きているのであり、ワークもライフも切り離せない。そして、であるがゆえに猛烈に疲れている。それでも、それを辞めたらぼくはぼくを証明するものを失ってしまう。だから動くしかない。いやあ、困ったもんだ。

もちろん、まだまだふつふつと燃えるものはある。そこそこ仕事に打ち込むだけの体力はあるし、人前で話す元気もある。依頼されれば人を励ましたり若い人たちをエンパワーする気力もある。けれど、そのエネルギーに限りがあること、それが残り少なくなっていることを猛烈に悟りつつあり、パワフルに見える自分のどこかにひたひた迫りくるものがあることを感じる。いやそれがまさに老いというものなのだろう。

この老いの実感の先に開けてくる地平もあるのだろうか。先人たちも似たような疲れを感じ、それでもなお、自らを奮い立たせてきたにちがいないのだ。老いたら老いたでまた先に新たな老いがあり、尽きぬ悩みに苛まれつづけるのだろうか。

生老病死みな苦しみだとお釈迦様は言ったらしい。死ぬまで苦しむしかないわけだが、ちょ、待てよ。「老」は二番目にすぎない。老いを感じたくらいでなにかを悟ったつもりになっているという意味で、ぼくもまだまだ若僧とはいえるのかもしれない。病と死に至るまで、まだまだ修行が足りていないということだし、この疲れの先にある疲れを感じるまで動きつづけなければならないということだ。

寝て起きれば44歳の自分が待っている。うれしくはない。ただ、オレは老いを感じるほどの人間になった、なれたんだなと思えば、それはそれで誇らしいとは言えるのかもしれない。気力を絞り、肩やら腰を伸ばし、湿布を貼って眠りにつく。晩秋の風が戸を揺らす音が聞こえる。月は、ぼくの真上に出ているころだろうか。

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