備忘録0107

唐突にnoteを再開した。なにかバズらせたい文章があるわけでも、ひけらかしたいアイデアがあるわけでもない。こうでもしておかないと書くことが見つからない、いや、書くべきことを忘れてしまうからだ。書くべきことはいくらでもあったはずだ。それなのに、次の日になるとすっかり忘れているということが続いている。自分の脳内で言葉にはなっても、文章にはなり切れていない。そういうものを書き込めておきたい。唐突に、そう考えた。

今日から、臨床哲学者の西川勝さんの本、『ためらいの看護』(増補版)を読み始めた。のっけからしびれる文章が続く。西川先生の文の下地になっているのが、看護士として働いていたときの個々のケースである。精神病棟に生きる人たち、あるいは腎臓病から透析を受ける人たち。市井の人たちが繰り出すパンチラインや、何気ない言葉に秘められた含蓄、突拍子もない出来事やトラブルに、西川さんが「喰らう」場面が何度も登場する。

率直に思ったのは、いやあ、よくここまでネタ持ってるなあ、なぜここまで色鮮やかに書けるんだろう、ということだった。そう思ってすぐ、ああそうか、西川先生は元看護士なのだから看護記録をつけているはずだ。その看護記録が、そのまま文章に使われないにせよ、日々の記憶をより鮮度の良い状態で残す媒体としても機能し、名文に姿を変えているのだろう、と直感した。これは、東畑開人さんの『いるのはつらいよ』にも感じたことだ。

なるほど看護記録かと思った。その「臨床」の記録が西川さんの思考を深め、本を下支えしている。そして、何事も安直なぼくは、まさにその看護記録に当たる詳細なログを書き残しておけば、こんなオレにでも本を書く種になるかもしれないと思えた。それで、ぼく自身のいわば「看護記録」をつけておこうと思ったわけだ。

患者にとって耐え難い非日常を支える普通の人。非日常の場面においてもあたりまえの日常性を断固として漂わせる人がそばにいること。人がわけのわからないところへと連れ去られるのを引き止めてくれる人。それが、看護に求められているのではないだろうか。(『ためらいの看護』より)

西川先生は看護についてそう語っている。うむ。看護士ではないぼくに深いことはわからないけれど、病という非日常を抱えている患者にとって日常のシンボルである看護士がいかに心強いものかということはよくわかる。治療も診察もしない。けれど、そこにいること自体、看護なのだろう。そういえば、元旦に読んだ朝日新聞の1面に登場していたスヴェトラーナ・アレクシェービッチも同じようなことを言っていたっけ。

近しい人を亡くした人、絶望の淵に立っている人のよりどころとなるのは、まさに日常そのものだけなのです。例えば、孫の頭をなでること。朝のコーヒーの一杯でもよいでしょう。そんな、なにか人間らしいことによって、人は救われるのです。(朝日新聞2023年1月1日号 総合面より引用)

ぼくがここに日常を書いたところで救われるような人はいないとは思う。いや、だれも救わなくても将来の自分自身を救うことならあるかもしれない。とにかく30分でもいいから記録しておくことだ。ただでさえ足りない思考をダラダラとこぼれ落としてしまっては、ぼくのような書き手は書き続けることができない。

だからこそぼくは、このたいした刺激的でもない働きづめの日常のことを書き残しておこうと思った。そう、まさに日常をだ。そういう気にさせる何かを、西川先生の本は持っていた。まだ最初のほうを読んだだけだけれど、人生の支えになる本になってくれる。そんな直感が、心に突き刺さっている。

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