備忘録0130

今月21日。龍谷大学校友会の主催で開催された「煩悩とクリエイティビティ」に参加。親鸞研究者の井上見淳先生にナビゲートしてもらいながら、だれもがそうとは知らずに持っている「無知のクリエイティビティ」があるのでは、みたいなテーマで対話した。

この備忘録にも過去に書いているように、専門的な教育を受けていなくてもむちゃくちゃおもしろい作品を作ってしまう人がいたり、そうとは知らずにケア的な空間を成す一部になってしまったり、自分のふとした悩みやコンプレックスが、どこかに社会と通ずる点になってしまったり。そういうものってだれにもあるよなと、そんな話。

仏教にも「草木国土悉皆成仏」って言葉があって、草木や国土にも仏性があるのだということなんだけれど、そういうものかもしれない。

特に「ケア」や「アート」、みたいな文脈でそれは起きているような気がしている。創造性とか芸術性って、訓練したり研究したり「後天的に」与えられるものでもあるけど、「先天的に」備わっているものでもあると思う。だから発揮されているのに本人にはわからない。専門家から指摘されて初めて「もしかしたらそうかも」と気づく。専門家を驚かせるような豊かななにかが立ち上がるときって、結構あると思う。

けれど、多くの場合、それは本人にも気づかれることなく、発揮されないままお蔵入りされてしまうことも多い。だから表面化しないだけで、実際にはだれしも起こりうることなのだと思う。だからアートもケアも「誤配」され得るのだ。受信するアンテナは、だれもが持っていると思う。

親鸞は、修行を続けてあるべき姿を目指すのではなく、「煩悩はいかんともしがたい」というところから出発して、だれもがそのまま阿弥陀仏によって救われるんだと説いた。つまり、修行してたどり着くべき「ゴール」を示すのではなく、すでにあるじゃんという「スタートライン」を提示していると考えることもできる。そういう親鸞に、ぼくらは学ぶことが多い。

理想的な「こうあるべき」という姿は、どうしても、そこに至るまでの最短距離や「正しい順序」を求めてしまう。それも大事だけれど、到達地を先に示すのではなく、苦しいとかつらいとか、あるいは楽しいとかやりたい、こうしたいという「煩悩」から「出発」することを、ぼくも大事にしてきた。

ぼくが「共事者」なんて言葉を発明したのも、そういう「素人」のふまじめさをポジティブに捉えたいからだ。こうあるべきというゴールを示さずに、今そこにあなたがいるだけで、よくわからないんだけど、むちゃくちゃ可能性に開かれているということを、専門的ではない言葉で伝えていきたいという思いだ。親鸞先生、ありがとうございます。

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