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FESTIVAL de FRUE 2023によせて  

 素直でありたいといつも思う。誰もが素直に生きられたら良い。それこそが真に平和な世界というものだろう。湧き上がる欲求に忠実に、そしてつねにユーモアを忘れずに。しかし現代社会において、素直でありつづけることはとてもむずかしい。  

 
 端的にいってバビロンとは、素直さを奪うシステム/社会構造のことだ。それは、わたしたちをなんの力も持たない卑小な存在だと思わせる。そうしていつか、わたしたちはすべてを諦めてしまい、独立や自由、運命までをも投げ出してしまう。  


 素直さを取り戻す方法はただひとつ、感動することだ。それもケミカルな感動ではない、ハートに火をつける、静かで深い感動である。先日、わたしはFRUEという野外フェスティヴァルにおいて、幾度となくそれを得た。去年、このフェスにおいて、わたしは幸福のあまり『生まれてきて良かった』と心底思ったのだが、今年も果たしてそうなった。DJとして出演する友人を筆頭に、気心の知れた仲間たちと連れ立って出かけたこの二日間は、前年と同様に、わたしの心に強烈に刻み込まれる体験となった。  


 出店のアイスコーヒーがとんでもなく美味しかったとか、テントサイトからメイン・ステージへと続く道で響き渡る虫の音がヤバかったとか、印象深かったことはいくつもあるけれど、わたしが真に感動したのは、あの日あそこに集まった多くの人びとが、音楽を信じきっていたということだった。出演者陣はいうに及ばず、観客やスタッフ、ボランティアに至るまで、それぞれが信じるものに対して、誠実な態度をしめしていた。  


 そうしたポジティヴ・ヴァイブレーションが溢れる場所には、真のアナーキズムが生まれる。アナーキーとは収束不能のケイオスのことではない。あまねくすべての人々が自らに由り、じぶんの能力を最大限に発揮する機会をもつことである。アナーキーとは“支配するもののない”というギリシア語が由来だ。わたしはFRUEを通して二日間たっぷり、自由を味わった。そして、気づいたのでも悟ったのでもなく、思い出したのである。生きている、ただそれだけのことが嬉しいという感覚を。  


 とりわけ印象に残ったアクトについて初日から順に書いてみよう。まず、会場に辿り着いていちばん最初に見た、DJとして出演した友人のみどりのプレイは忖度抜きでエクセレントだった。彼のプレイははっきり言ってまったくシームレスではない。むしろ破天荒もいいところである。大きなうねりを持つ、とてもスリリングなプレイだ。彼の手捌きはBPMやミキシングの質感をやすやすと飛び越え、異様な切迫感でもってさまざまな景色を次々に見せる。そのダイナミックなプレイから振り落とされないためにはいささかの根性が必要で、それは旅にも似ている。tripではなくjourneyに。彼のDJには強烈な磁場があるが、それはおそらく、真にすぐれたDJが持つ資質なのだと思う。  


 エンジェル・バット・ダウィドのステージングはまったく強烈で、脂汗が滲み、血管の内側がぞわぞわと毛羽立つようだった。ゴスペル、ブルーズ、ジャズ、ヒップホップ、あらゆるブラック・ミュージックの根源にある“ダシ”を剥身で突きつけてくるような、濃厚で厳かな音楽だ。
 しかし、キーボードを口でくわえて演奏するトランシーなパフォーマンスや、シャーマニックなヴィジュアルとは裏腹に、そのビート・メイキングは恐ろしいほど理知的である。巷間、アヴァンギャルドとも称されるサン・ラが、その実デューク・エリントンの真っ当なフォロワーであり、楽曲構成的にはほとんど破綻していないのに似ている。シンプルながらも絶妙にメタモルフォーゼするそのビートは、きわめて正気でスキがなかったし、いっけんフリーキーにみえる歌唱や演奏もむちゃくちゃアフロにグルーヴィーだった。予定より20分も早く終わったうえ、ライト・アップされたステージの上で黙々と機材を片付ける(ケーブルまで丁寧に巻き取っていた)さまは、シンプルに事故感がハンパなく、往年の松本人志のコントのような気まずさがあった。そこまでふくめて本当に強烈だった。エンジェル氏はたぶん、とても真面目で良い人なのだと思う。  


 
 その次に登場したDUBセットによるGEZANは、“これだけ色んなことをやりながら最終的にどうしようもなくロック・バンド”という感激を受けた。脳味噌を直接レンガで擦られるようなディストーションの快感と、鼻がかゆくなるほどの低音の快楽の波状攻撃は、“少しも満足していない”という苛立ちに似た発展途上感と、“ゆずらなさ”からくる危うさがあり、そしてそれはロック・バンドだけが体現しうる質感であると思う。  


 クラウン・コアの衝撃も忘れがたい。彼らの音楽をひとことで表すなら“スカム”ということになるのだろうが、スカムというのは一般的に、テクもカネもないプレイヤーによる、学童が大便の絵を書き散らすのにも似た退行的な表現様式である。しかし彼らはそれを大変なハイスキル&ハイバジェットでやっていた。エリートの下降思考であり、シンプルに言えばワルノリだ。インターネット的な(同名のバンドのことではない)露悪性と、脱法ハーブ的な粗悪なBAD感(これはディスではない)に満ちている。
 キューバン・ジャズでは、プレイヤーたちがビンビンにやり合って、互いの汗と脂を交感することを“マンテカ”というのだが、彼らの音楽には汗臭さは微塵も見当たらなかった。そしてそれはルイス・コールの、自傷的なまでにストイックな、パッツパツのドラミングに依るところが大きいと思う。  


 二日目に出演したティム・ベルナードスの、午睡の夢のようにひそやかで、干したての布団みたいな太陽の匂いのする音楽もすばらしかったし、中村佳穂の堂々たるステージング(“POP”というのはああいうことだと思う)も印象的だったが、なんといってもエルメート・パスコワール・グループにはヤラれた。“くらう”というスラングでは到底表現しきれないほどの、すさまじい感慨を受けた。
 彼らは、矢の如く過ぎ去った100分のセットの中で“YES”しかいわなかった。ショーマンシップにあふれた超絶技巧と動物的霊感が織り成す演奏には、力強い“笑い”が満ちていた。痙攣的で冷ややかな笑いではない、全てを肯定するおおらかな笑いである。ワハハ、ゲラゲラ、クスクス、ニヤニヤ、あらゆる笑いの背後にある、たったひとつの笑い。その唯一の笑いの震源地から発せられるヴァイブスこそが愛である。ゆえに宇宙の本質は肯定であり、笑いであり、愛なのだ。

 愛に導かれるがままに、わたしはダンスを踊った。つまずくような段差はひとつもなかった。ダンスとは、音楽という偉大な営みの一部になろうとする根源的な欲求だ。そうしてわたしたちは、ひとつの大きな共同体でありながら、同時にひとりになることができる。そのひとりとは“孤独”という意味ではなく、“個人”ということだ。    
 
 
 終演後、すっかり放心した表情の友人たちと、たったいま目撃したものについておそるおそる語りあったが、『なんだったんだろうね?』という言葉しか出てこなかった。何が起こったのか、誰もわかっていなかった。まさしく魔法そのものだった。  


 あまりに強烈な音楽体験によって、ふわふわと浮き足立つわたしたちを、ゆっくり、やさしく地面に着陸させてくれたのは大トリのブレイク・ミルズだった。ポップスの快感原則に則らない曖昧なコード進行と朴訥きわまる歌は、カントリーのオルタナティヴであり、最小単位のエモだった。そのエモーショナルは静かに斬新で、作為的なものはまるで見当たらなかった。熱い湯を張った湯船に身体を沈めたときのように、わたしの心身はときほぐされた。ブレイク・ミルズのギターはとても、とてもやさしかった。  


 五感を素直に体験し、神々と戯れた二日間だったが、一緒に出かけた仲間たちと交わした会話も心に残っている。
 画家の友人と、この世にいなくなってしまった人の話をしたときだ。わたしの右腕には“親切”というタトゥーが入っていて、それを彫ってくれたのが彼である。それを入れようと思ったきっかけも他ならぬ去年度のFRUEなのだけれども、本稿では一旦脇へ置いておくことにする。わたしが『正しくない表現かもしれないけれど、びっくりした』というと、彼は手巻きタバコを巻きながら『俺はまた会えると思ってるから心配してないけどね。だってジャケ、まだ描いてねーし』と言った。わたしは『そうだね』と言った。二回言った。だって本当にそう思ったから。  


 武満徹は『国家がその権力において個人の<生>を奪いつづけるかぎり、<音楽>が真に響くことはない。私たちは、<世界>がすべて沈黙してしまう夜を、いかにしても避けなければならない』といったし、スーザン・ソンタグは『あらゆることは今から始まる——私はもう一度、自分で生まれなおす』と書いた。素直さを奪うシステムの中で、わたしたちは何だか全てを忘れてしまう。でも、何度だって思い出せる。そこに音楽が鳴っている限り。

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