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元祖宅録ミュージシャン、アンリ・サルバドールの数奇な人生

アンリ・サルバドール。

フランスの国民的歌手/コメディアンであり、日本でいう国民栄誉賞みたいな最高位の勲章をもらっている人で、フランスでは知らない人間はいないといわれる大変な有名人ですが、去年出た彼の再発盤『ホーム・スタジオ 1969~1978』は、大いに話題になりました。

デモや未発表曲が入っているワケでもない、彼が70年代にリリースした既発楽曲をコンパイルしただけのこの編集盤がなぜ話題になったのかというと、シンプルに内容がヤバかったからです。

全編宅録にして、いま聴くだに強烈な、むしろ今こそ訴求性を持つような先進的なトラックで埋め尽くされていたからです。

再評価というよりはむしろ再発見、『アンリ・サルバドールってこんなんやってたの!?』と世界が驚愕したワケですね。

ここではそんな元祖宅録ミュージシャンであるアンリ・サルバドールの数奇な人生について書いてみようと思います。


アンリ・サルバドールは1917年7月18日、南米のフランス領ギアナ・カイエンヌで生まれました。で、彼が7歳のころ、父親の仕事の都合で一家そろってパリへ移住したのですが、そこでアンリ少年は当時流行の最先端であったジャズにヤラれてしまいます。とりわけルイ・アームストロングとデューク・エリントンに熱狂した彼は、独学でギターとドラムとトランペットを習得します。

そして16歳の頃、キャバレーのジミーズ・バーにて初ステージを踏み、見事レギュラー・メンバーに抜擢されます。このときすでにギターのみならず、歌も歌うしタップも踏むというエンターテイナー街道まっしぐらだった彼はその才能をいかんなく発揮し、ライヴに寸劇(コント)を挟み込むという手法を確立します。

このころの人気ネタであった『ジン』は、アンリ扮するアメリカ人アナウンサーがジンを飲みまくってベロベロになった挙句、客席に向かってゲロを吐くというものだったそうです。コミック・バンドの元祖として知られるスパイク・ジョーンズが当時人気を博していたこともあってか、笑いの要素が組み込まれたアンリのステージングは人気沸騰します。



ちなみに本邦においてはコミック・バンドといえば、シティ・スリッカーズやクレイジー・キャッツ、ドリフターズ等がおりますが、彼らの軸足はみなジャズにあり、いずれもこのスパイク・ジョーンズに強い影響を受けています。


そんなふうに着々と人気者街道を驀進していく中、アンリはあるジャズギタリストのレコードに出会います。ジャンゴ・ラインハルトです。火事で全身に大火傷を負い、左手の中指と小指がほとんど使えなくなったにも関わらず、猛練習によって独自の奏法を獲得し、超絶テクニックで名を馳せた偉大なジャズ・ギタリストです。





ヴァン・ヘイレンの五倍は早いと思われるその超絶速弾きにヤラれたアンリは、来る日も来る日もジャンゴ・ラインハルトのレコードを聴きながら耳コピに勤しみます。かくしていっぱしのジャズ・ギタリストとなったアンリは、歌手の伴奏の仕事なんかを始めます。

そして24歳のとき、レイ・ヴェンチュラ・オーケストラというビッグバンドジャズの楽団に加わり、南米ツアーをします。

しかし第二次世界大戦の激化によってフランスへの帰国が難しくなり、彼は実に三年ものあいだ南米にとどまることとなります。ここでアンリはマンボやカリプソなどのラテン音楽に夢中になりました。一説によればサンバをフランスに紹介したのも彼だといわれています。

1945年、ようやっと帰国した彼はトリオを結成し、数々のミュージシャンと共演します。この頃に憧れの存在であったジャンゴ・ラインハルトとも共演しているようです。

50年代に入ると、詩人で作家でジャズ・ミュージシャンだったボリス・ヴィアンや、のちにゴダールやジャック・ドゥミの映画音楽で名を馳せることとなるミシェル・ルグランと組んで、ロックンロールをやり出します。これは最初期の仏産ロックンロールであるといわれているようです。



また彼が1958年にリリースした『Dans mon lle』というレコードは、ボサノヴァの産みの親といわれるアントニオ・カルロス・ジョビンがボサノヴァを生み出すきっかけになったそうです。

アントニオ・カルロス・ジョビンはお姉ちゃんのアパートに居候してバスルームに籠城し、日がな一日マリファナを吸いまくりながらギターを弾き倒してボサノヴァを作ったといわれており、チェット・ベイカーの『チェット・ベイカー・シングス』の歌い方にヒントを受けたそうですが、アンリのレコードにも何か感ずるものがあったのでしょうか。

ボサノヴァの誕生には諸説あり、たとえば歌手のディオンヌ・ワーウィックなどは『ボサノヴァを発明したのはバート・バカラック』と主張してはばからないワケですが、まぁとにかく、この永遠の命題に関してアンリ・サルバドールが一枚噛んでいるというのは頭の片隅に入れておくべきでしょう。ちなみにアンリは『ボサノヴァを作ったのはオレだからね』と冗談めかしてコメントしたりしています。



59年、盟友のボリス・ヴィアンが突如として死にます。ヴィアンが身分を偽って書いた小説『墓に唾をかけろ』が映画化されたんですが、その試写会を観たヴィアンはあまりのクソっぷりに激怒し、そのまま心臓発作を起こして試写会終了直後に荼毘に付されました。

盟友ヴィアンの死がどういう影響を与えたのかわかりませんが、この頃からもともとタレント性抜群だったアンリはよりオーヴァー・グラウンダー傾向を強め、TVショーの司会とか俳優の仕事もやるようになっていきます。また60年代に入ると彼は自身のレーベルを立ち上げ、コミカルなポップ・ソングを量産し、国民的歌手としても名を馳せるようになっていきます。

またやり手の妻・ジャクリーヌのマネジメントによって、60年代後半には『RIGOLO』というレコード会社を設立するまでに至ります。ちなみにRIGOLOというのはフランス語で“ウケる”みたいな意味です。





そして60年代末、アンリは何を思ったのか突然リズムボックスを買い、宅録を始めます。歌やギターはもちろんのこと、ベースや鍵盤もすべて自分で演奏するという完全なるワンマン宅録です。タレントとしての華やかな生活を送る裏側で、パリのヴァンドーム広場にある自宅にこもり、編集やミキシングに勤しむ日々。スライ・ストーンがリズムボックスを使って宅録を始めたのがギリギリ70年代に入ってからなので、アンリの革新性が大変なものであったというのがわかります。

というかアンリは明らかにスライ・ストーンに影響を受けていたと思います。彼が75年にリリースしたシングル『Le temps des cons』などは、完全にスライの『Thank You』を下敷きにしています。







ちなみにジャケットにミッキーマウスが登場していて大丈夫なのかよと思うのですが、アンリは70年頃にディズニー楽曲のシャンソンカヴァーみたいな企画盤を出していますので、おそらく許可はとっているのではないかと推察されます。

宅録期のアンリは当時流行の最先端であったファンク音楽に傾倒していたようで、他にも1972年のシングル『Sex Man』などは、ジェームズ・ブラウンの『セックス・マシン』と、『バットマンのテーマ』を掛け合わせたかのような、ものすごく狂ったダンス・ミュージックをやっています。



アンリ自身としてはベースの演奏が弱点だと思っていたようですが、そこは多重録音によるコーラスと超絶テクによるギター、狂ったオルガンによってうまいことカヴァーしています。

そして70年代後半、最愛の妻・ジャクリーヌが亡くなり、レコード会社も消滅し、そこから20年ぐらいアンリは不遇の時代を送りましたが、00年に出した『Chambre Avec Vue』というアルバムが超絶大ヒットし、ふたたび脚光を浴びることとなります。




それからもアンリはコンスタントに音楽活動を続け、2007年に自身の集大成ともいえる「Reverence ~音楽よ、ありがとう!〜」というアルバムをリリースし、9月に来日公演を行い、12月にパリで引退コンサートを開き、2008年の2月に亡くなりました。享年90歳。“音楽”というフィールドにおいて、とにかくやりたいことをひたすらにやりまくった彼のクリエイティヴィティに心からの賛辞を。彼の作った音楽は永遠に残り、これからも聴き継がれていくことでしょう。





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