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東京下町散歩 葛飾・柴又 導入篇

はじめに (活動報告)

 先日、立教大学探検部さん主催の座談会に参加しました。他大学の探検部さんもいらして色々と熱く語り合いました。

 中でも印象に残ったのは昆虫食の実践として食した参加者さん自作のタガメ入りアイスクリームです。アイスはすぐに口の中で溶けてしまうので、タガメだけ舌に残るという事態になりパニックになりました…。

今でも覚えているのですが、刺激臭と共にしょっぱいとも言える、甘いとも言える味覚の源のような味が舌を襲いました。思わず苦悶の表情を浮かべてしまいましたが、周りの人は慣れているのか(?)冷静でした。同席した教授によると、キツい匂いの正体はタガメが水中で獲物を誘き寄せる為のフェロモンなんじゃないかということでした。

このアクティブな座談会に影響を受け、我々も負けていられないと急きょ東京下町のフィールドワークを企画しました。

ですが、年末ということもあって僕一人でやることになりました…。この企画は碩路発足時から案としてはあったものの、実施は初めてとなります。

 下町と言ってもかなり広いので、今回は葛飾区柴又に限定しました。まずは下町がどのように出来たかを述べ、それから個人的に関心がある柴又に触れていきます。


東京・下町の形成

 東京の町の発展は近世(安土桃山〜江戸時代)から始まります。下町という言葉は台地である山手に対して、土地が低いという意味で名付けられました。下町は江戸城の城下町という捉え方もでき、山手より先に江戸文化・商業の中心地として栄えました。

具体的には、明治時代でいう東京15区の日本橋区や神田区、浅草区や本所区などを指します。以下の東京都公文書館サイトで、東京の行政区画の変遷と東京15区(*35区の地図中にあります。)の地図をご覧になれます。

 ところが1923年に起きた関東大震災ではこの下町の9割以上の家屋が火災により全焼してしまいます。まだ火災が猛威を振るっていた2日目の夜に、当時の内務大臣であった後藤新平が「帝都復興ノ儀」を作成し、これに基づき東京は再び発展していきます。その後、太平洋戦争下の空襲で再び焦土となりますが、またもや驚異的な復興を果たします。現在では、町の再開発が進み、江戸や昭和の面影を残す景観は少なくなっていると聞きます。ちなみに浅草の浅草寺は東京大空襲での焼失を含め、過去20回近く焼失したと考えられています。その度に再建してきた人々の努力には脱帽せざるを得ません。

 先ほどの下町の定義に基づくと、葛飾区は下町ではないと考えられますが、今回訪れた葛飾区の柴又は古くから下町として広く認知されていた訳ではなく、戦後の町の発展と共に、また山田洋次監督のドラマ・映画「男はつらいよ」の舞台となったこともあり下町と呼ばれるようになったそうです。 

 なぜ今回、東京下町散歩に柴又を選んだのか。それは僕が「男はつらいよ」の1ファンであるという理由に他なりません。企画を立ててから、サンタクロースがやって来るのを待つ如く、柴又に行く日を心待ちにしていました…。

 余談: 今回の学習はまず東京(江戸)の歴史を包括的に振り返るところから始まった。江戸城無血開城後に、旧幕臣の抵抗があり、江戸で焼き討ちや銃撃戦が起きていたという史実を知り驚いた。今も周辺地域にはその時の銃痕が残っているそう。

簡単に「男はつらいよ」の紹介

 最初にドラマ版が作られ、次に映画シリーズとして「男はつらいよ」が始まりました。同一の俳優が演じた最も長い映画シリーズとしてギネス世界記録に認定されるほど、長く愛されている作品です。主人公は渥美清さん演じる車寅次郎で、生まれも育ちも葛飾柴又。テキ屋を営みながら全国を旅しています。妹のさくらや叔父叔母の暮らす柴又に帰っては、騒動を起こし、ヒロインにフラれてまた旅立っていくというストーリーです。

寅さん像(帝釈天参道沿い)

 映画を見るまでは、寅さん(寅次郎)はジェントルマンで穏やかな人物だと思っていたので、一作目の際どい発言をする寅さんを見て驚きました。一方で、寅さんが今も愛されている理由がわかった気がします。実際に寅さんのような人が身近にいたら大変なこともあるかも知れないけど、毎日が凄く楽しそうだなと思います。

 自分はファンと言っても映画が50本近くあるうち、まだ半分も見ていません。これから先どのように寅さんが歩みを進めていくのか楽しみにしつつ、一足早く柴又を訪れました。後篇(本篇)に続きます。

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