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工学部生による東大本郷キャンパス巡り

急に「キャンパス案内して!」と頼まれることがあるかもしれません。そんな時のために、工学部所属学生版 本郷キャンパスツアーを書いてみました。

あれも気になるな〜って書いてたら、想定より分量が多くなってしまいました…

友達や高校の後輩など、外部の方(海外から来た方も含む)にキャンパスを案内する際に参考になればと思います。英語での説明も想定して、主要な単語には英訳をつけています。
ここに書いてあることはあくまで豆知識なので、ツアーする際には自分の経験や普段の様子を交えて、オリジナルに味付けしてください。
また、ネットの海から拾ってきた情報も多く、出典を確かめられていないものもあるので、誤植があればコメントしていただけると嬉しいです。


コース概要

所要時間は1時間+30分くらいだと思います。

  • 赤門 → 総合図書館 → 安田講堂 → 三四郎池 → 生協や学食(ここまで1時間くらいを想定)

  • → 工学部エリア(工学部2号館→工学部4号館→工学部1号館)→正門

今回考えているキャンパスツアールート

キャンパスマップ(日本語)
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400002228.pdf

キャンパスマップ(English)
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400020145.pdf


東大の歴史

東京大学 → 帝国大学 → 東京帝国大学 → 東京大学
1877年に東京大学(Tokyo University)として設立され、1886年明治時代に帝国大学令によって唯一の学府として帝国大学(Imperial University)になりました。1897年、現在でも旧帝大と言われるように、他にも京都に帝国大学ができたため"東京"とついて、東京帝国大学(Tokyo Imperial University)となりました。帝国大学令改正によって元の東京大学(The University of Tokyo)に戻り、今に至ります。

本郷キャンパスの基本情報
主なキャンパスは3ヶ所に分かれています。駒場キャンパス、本郷キャンパス、柏キャンパスです。
理科1〜3類・文科1〜3類の前期教養課程(College of Arts & Sciences (former))に入学し、学部2年までは駒場キャンパスで過ごします。学部3年生になると学部(Faculty)に進学し、多くの学生が本郷キャンパスに移ります。その後大学院に分かれ(toward Graduate School)、研究室によっては駒場Ⅱキャンパスや柏キャンパスなどに移ることもあります。
今回紹介するのは本郷キャンパスです。東京の中心である文京区に位置し、本郷、弥生、淺野の3つのエリアに分かれています。広さは東京ディズニーランドとほぼ同じくらいです。本郷キャンパスの敷地のほとんどが、もとは大名の江戸屋敷で、このあたり一帯は加賀藩前田家が屋敷を構えていました。

赤門前設置のキャンパスマップ(2022年10月撮影)


赤門 Akamon Gate

江戸時代 加賀屋敷の名残

キャンパス内から見た赤門(2022年10月撮影)

テレビなどでもよく出てくるので、知っている方も多いでしょう。
赤門は東大の正門ではなく、たくさんの門のうちの1つです。また、赤門は通称で「旧加賀屋敷御守殿門(Kyu-Kagayashiki Goshudenmon)」が正式名称です。1828年に、将軍家(Edo Shogunate)のお姫様、溶姫(Princess Yasuhime)が加賀藩前田家の当主(Loard of Kaga Feudal)に嫁ぐ際、姫を迎えるために建てられた門になります。大名が将軍家からお姫様を迎える際には、朱塗りの門を建てる風習がありました。将軍家から三位以上に嫁いだ方を御守殿とお呼びしました。屋根瓦には、大棟に徳川家の三つ葉葵の紋(Three-leaf hollyhock crest of Tokugawa (Mitsuba-aoi))と、軒丸瓦等には前田家の梅鉢の紋(Plum tree & bowl crest, Maeda (Umebachi))を見ることができます。さらに⻤瓦には、東京大学を表す「學(学の旧字体)」のマークが入っています。これは明治以降に取り付けられたものと言われています。

屋根瓦に三葉葵の紋、⻤瓦には大学を表す「學(学の旧字体)」が見える(2019年11月撮影)

赤門は、関東大震災も戦災も免れ、東京大学で最も古い建築物として知られています。現在は、耐震性能の確認のため、2021年2月から閉門され通行できなくなっています。代わりに伊藤国際学術研究センター門が開門されています。

キャンパスの外から見た赤門の様子(2020年4月撮影)
通行可能時の赤門の様子(2021年1月撮影)
夜にはライトアップされる(2018年11月撮影)
構造調査中の赤門(2022年12月撮影)


資料編纂所 Historiographical Institute

史料編纂所(2022年10月撮影)

赤門近くの、赤レンガ造りの建物を2つ紹介します。赤レンガは明治期の洋風建築で多く使われた手法で、同時期の建物は、東京駅、三菱一号館、横浜赤レンガ倉庫などがあります。

赤門の斜め向かいにある史料編纂所(Historiographical Institute)は、古代から明治維新期にいたる前近代日本史関係の史料を調査・収集・整理する研究所です。江戸時代の和学講談所がはじまりで、帝国大学に移管されました。これらの史料は、日本史研究で活用され、身近なところでは、NHKの大河ドラマの時代考証にも用いられています。
1916年には、赤門内から見て左側に、鉄筋煉瓦造り3階建の耐火書庫「赤門書庫」が建てられました。当時の本庁舎とは渡り廊下で結ばれ、とりわけ貴重な史料が保管されていたそうです。震災や戦火を逃れ、現在では伊藤国際学術研究センターに併設されたレストランとして残っています。2011年の改装の際には、特色あるレンガの素材感を生かすよう細心の注意が払われ、内部に新しい躯体を建てて構造的に補強されました。ちなみに、赤門書庫のエントランスポーチと玄関正面の階段は、懐徳門近くに移築されています。
伊藤国際学術研究センター(Ito International Research Center / Ito Hall)は、伊藤雅俊氏(株式会社セブン&アイ・ホールディングス名誉会長)夫妻の寄附で、香山壽夫先生の設計で設立されました。社会と東京大学との関わりを深めグローバルな視野を持ったリーダー育成の国際交流拠点として活用されることを目的としています。

伊藤国際学術研究センター(左手前)と赤門書庫(右奥)(2023年10月撮影)
赤門書庫正面入り口の階段(2023年10月撮影)

赤門内から見て右側にも、レンガ造りの建物があります。コミュニケーションセンターUTCC(The University of Tokyo Official Shop "Communication Center")です。研究成果を活用した商品や、東大公式グッズが売られています。この建物は、東大の施設として建てられた最も古い建物として知られています。1910年に図書館製本所として建設され、雑誌の合本や製本修理などを行っていたと推測されます。関東大震災後は、車庫、倉庫として使われていました。

コミュニケーションセンターUTCC(2023年10月撮影)

情報学環・福武ホール(iii-Fukutake Hall)は、コミュニケーションセンターの隣にあるコンクリート打ちっぱなしの建物です。ベネッセの会長である福武總一郎氏による寄付に基づき、安藤忠雄先生(Prof. Ando Tadao)の設計によって建築され、2008年に竣工しました。コンセプトは「学びと創造の交差路」で、京都にある三十三間堂を参照してプロポーションが決定されました。正面のコンクリート壁は「考える壁」と名付けられています。長さは100m以上ある一方で奥行きはわずか15mであったり、当初の設計では建物内にトイレがなかったり、平坦な屋根から雨天時に滝のように雨が落ちてくるなど、かなり尖った設計になっています。

情報学環・福武ホール(2021年5月撮影)
夜の福武ホールはライトアップされていて綺麗(2021年3月撮影)

福武ホールの隣には、藤棚(wisteria trellis)があります。総合図書館正面広場の石畳や噴水と共に、内田先生の計画によってつくられたものです。

藤棚(2020年8月撮影)
藤の花(2019年4月撮影)
藤棚内部(2019年4月撮影)

藤棚の奥に井戸があり、ここから汲み上げられた水が排水溝を伝って三四郎池へと流れています。この井戸の脇には、紅梅があり、民法典に貢献した梅謙次郎博士(Prof. Ume Kenjiro)を偲ぶために植えられたものです。梅先生は国民法典の起草にあたって中心的役割を果たした方で「民法の父」と呼ばれています。また梅と同時に、以前から教え子たちが植樹していたモッコクが再度植えられました。

紅梅の花(2021年2月撮影)
植樹碑(2023年10月撮影)

その隣にあるガラス張りの建物は、法学政治学系総合教育棟(School of Law Bldg.)です。2004年に槇文彦+槇総合計画事務所の設計で設立された法科大学院の建物になります。法科大学院とは、法曹(弁護士・検察官・裁判官)に必要な知識や能力を培うことを目的とする専門職大学院です。修了すれば司法試験を受験でき、実践的な内容を学びます。開かれた大学、法の透明性などをイメージしてガラス張りになっていると言われています。このおかげで、秋には黄色く色づいた銀杏をガラスが反射し、美しい景色が見られます。

法学政治学系総合教育棟(2019年11月撮影)


三四郎池 Sanshiro Pond

キャンパスの中心部にある三四郎池(Sanshiro Pond)も、江戸時代の加賀屋敷の名残です。正式名称は「育徳園心字池(Ikutokuen Shin-ji ike)」になります。この池のあたりは育徳園と呼ばれる加賀屋敷の庭園でした。「心」の字をかたどった形状から心字池と呼ばれ、日本各地に同じ名前の池が複数あります。
夏目漱石の小説「三四郎(Sanshiro)」に登場したことから、三四郎池と呼ばれるようになりました。主人公の三四郎(Main character "Sanshiro")がヒロインの美禰子(heroine "Mineko")と初めて出会うのがこの三四郎池です。駒場キャンパスの池は一二郎池(現在は駒場池)、柏キャンパスの池は五六郎池と呼ばれています。

現在でも東京にいるのを忘れてしまうほど自然豊かで高低差の大きい池になります。カメや鯉、カエルなどの生き物のすみかにもなっています。学生がリフレッシュするための散歩スポットとしても有名です。夏は蚊が出るので、自分はあまり近づかないようにしています。雪景色の三四郎池がお気に入りです。

雪が降った時の三四郎池(2022年1月撮影)

加賀屋敷の名残は他にもあります。
総合研究博物館(University Museum)の横、懐徳門(Kaitoku Gate)近くの塀は、江戸時代に加賀藩邸のために作られた石垣です。この近くには、旧前田侯爵邸宅である懐徳館(Kaitokukan)があります。東京大学の迎賓館になります。明治維新後、加賀藩は解体されましたが、前田家は侯爵の位を授かり、この地で暮らしていました。現在の懐徳館は、空襲で焼けてしまった元の懐徳館の面影を反映して1951年に建てられたもので、普段は入ることができません。年に一度、東京大学のホームカミングデーの日に一般公開されます。

懐徳門近くの塀(2023年10月撮影)
懐徳館(2022年10月撮影)

ちなみに、御殿下グラウンド(Gotenshita Ground)は、加賀屋敷の馬場だった場所です。旧富山藩邸の一部が三四郎池の築山に移築され、「山上御殿」と呼ばれて会議所に使われていました。この「御殿」が「御殿下」の名の由来です。その山上御殿の跡に建てられたのが、山上会館(Sanjo Conference Hall)で、前川國男の遺作です。この脇に残る石垣は、江戸初期の石垣で、会館建設時に発掘されたを移築、保存しています。金沢城のものと共通する刻印が残ります。


内田ゴシック Uchida Gothic architecture

関東大震災後のキャンパス復興

1923年に関東大震災があり、キャンパスの多くの建物が壊れてしまいました。その中でも、工学部旧2号館(Faculty of Engineering Bldg.2)は壊れませんでした。そこで、キャンパスの復興にあたり、工学部旧2号館を設計した内田祥三先生(Prof. Uchida  Yoshikazu)が抜擢されました。内田先生は東大卒業で、鉄筋コンクリート構造の研究を行い、以前にも1919年に工学部旧2号館、1922年から大講堂の設計も任されていました。

柱が太く、窓は細く、アーチを持ち、タイル貼りになっています。

タイルをよく見てみてると、それぞれのタイルの色が微妙に異なっていること(subtle differences in the colors of each tile)、縦の引っ掻き傷(vertical scratches)が入っていることがわかります。復興では、学問や研究を止めないために、イチ早くたくさんの建物を建て替えることが求められていました。震災後の物資不足の中では、均一なタイルを大量に用意することができず、色が不揃いになってしまいました。そこで、縦に引っ掻いたような傷をつけることで、壁全体に統一感を持ったデザインとなるよう工夫しています。このようなタイルは「スクラッチ・タイル」(Scratch tiles)と呼ばれています。

柱が太いのは、地震にも耐えられる強度を保つためです。アーチはゴシック様式の影響を受けています。このような形式の建物は「内田ゴシック」と呼ばれています。内田ゴシックは本郷キャンパスで見られる代表的な建築様式です。

工学部4号館のスクラッチ・タイル(2023年10月撮影)
旧工学部2号館のタイル(2023年10月撮影)

理学部化学館も、現存する数少ない関東大震災以前の建物の1つです。1916年に建てられました。

理学部化学館(2023年10月撮影)


総合図書館 General Library

夜の総合図書館(2021年6月撮影)

構内の主要な建物の1つ、総合図書館です。
旧図書館は関東大震災で火災に遭い、75万冊におよぶ膨大な書籍が焼けてしまいました。ジブリ映画「風立ちぬ」でも震災で火事になった図書館から主人公たちが書籍を運び出すシーンが登場します。その後、アメリカのロックフェラーの寄付によって、内田先生の設計で建てられたのが現在の総合図書館です。本棚に本の背表紙が並んだ様子をイメージした外観になっています。正面玄関の列柱の上のレリーフは新海竹蔵が制作したもので、医学部附属病院のレリーフを彫った人でもあります。左からそれぞれ「力・序・義・眞・生・和・慈・玄」を表象しています。

図書館の火災「風立ちぬ」より(ネットより)

東大には、総合図書館、駒場図書館、柏図書館をはじめ、30ほどの図書館があり、950万冊以上の図書を所蔵しています。 総合図書館にも、130万冊を越える蔵書があり、ほとんどは地下の自動書庫(Automatic book storage in basement)に収められています。正面玄関向かって右手にあるガラス張りの部分からは、自動書庫のコンテナが搬送される様子を覗くことができます。

自動書庫の一部分(2023年10月撮影)

正面玄関を入ると大理石造りの大階段にレッドカーペットが敷かれ(Red carpet  & stair at the entrance)、荘厳な内装になっています。自分が初めて入った時はその迫力に圧倒され、何もせずに退館してしまったほどです。大階段周辺にはイタリア産の大理石が使われており、アンモナイトの化石がいくつも入っています。

別館 ライブラリープラザ(General Library Annex Library Plaza)
本館前、広場の地下に別館があります。
2015年にはじまった図書館改修は2020年に完了しました。この計画の背景には、本郷キャンパスは建物増加による敷地不足に悩んでおり、また、総合図書館は研究スペースの確保と能動的学習などの新しい学習形態に対する空間が求められていました。総合図書館本館前の広場の地下を有効利用することで、2つの課題の同時解決を目指したのが別館です。

地下1階がライブラリープラザ、地下2〜4階が自動書庫になっています。
自動書庫の最深部は地下41m、ビル12階ほどの深さがあり、300万冊が収蔵できます。2017年に完成し、ニューマチックケーソン工法によって掘り進められました。
ライブラリープラザは、学生の創造的学習の場として建設された大きな円形のラーニングスペースです。天井には放射状に杉の木が配置され、音響や空調にもこだわった空間になっています。

広場には、現総合図書館本館の建設時にその防火水槽として設置されていた噴水(fountain)があります。
噴水は岸田日出刀がデザインしたもので、五重塔の頂部に当たる九輪(薬師寺などのもの)を参考にした日本風のものになっています。
ライブラリープラザでは、この噴水を天窓にして、地下空間に自然光を導くトップライトになりました。ゆらぎのある水面を通して自然光がキラキラと差し込みます。見学者も、左右二箇所の入口から覗くことができると思います。

図書館前広場の噴水(2020年9月撮影)

図書館前広場にあるレンガ造りのベンチは、旧図書館基礎の跡を表しています。夜にはオレンジ色の光でライトアップされ、美しい姿を見ることができます。

2023年10月撮影
(2021年3月撮影)
 19時ごろの総合図書館(2020年1月撮影)


安田講堂 Yasuda Auditorium

東大紛争の名残

2023年5月撮影

式典に使う大講堂と、天皇がいらっしゃるための休憩所(便殿)として、1925年に完成しました。安田善次郎からの寄付の申し出によって実現した講堂で、正式名称は大講堂(The University Auditorium)、安田氏の名前をとって安田講堂と呼ばれています(“安田” is named after “安田善次郎(Yasuda Zenjiro)”)。1928年から卒業式(Graduation ceremony)の会場として使われています。
卒業式会場は、工部大学校講堂、八角講堂(法科大学講義室)、安田講堂と変遷してきました。1899年以来、卒業式には天皇の臨幸が慣例となっていましたが、1918年をもって大学全体での卒業式は廃止され、臨幸もなくなっていました。天皇の再びの臨幸を願い、便殿(天皇の休息所)を備えた大講堂を造ろうとしたことが、安田講堂建設の動機になっています。

東京帝国大学法科大学講義室(インターメディアテクにて2023年11月撮影)

安田講堂は見ての通り時計塔でもあり、当初は時打装置がついていましたが、うるさいのですぐ鳴らすのは止めたそうです。設計を指導した内田先生は、大震災で焼失・破損した本郷キャンパスを復興したと共に、点在する他のキャンパスに建築を続々と誕生させますが、それぞれの中心建築には時計塔を設けました。現在でも、駒場Ⅰ, Ⅱキャンパス中心に時計塔が位置しています。


普段の講義では利用することがなく、在学生でも入る機会はほとんどありません。イベントや五月祭(May Festival, 本郷キャンパスで開催される学園祭)での公演、卒業式などの式典で使われています。座席数が1学年の在籍学生人数より少ないため、卒業式は理系文系で分かれて行い、それでも安田講堂に入れる人は一部で、残りの人は配信を見ることになっています。

イベントで利用されている様子(2023年5月撮影)
卒業式に集まる学生の様子(2021年3月撮影)
五月祭のステージ(2019年5月撮影)
センター試験に備えて仮設トイレが設置される(2021年1月撮影)

現在講堂前の広場は芝生で整備(lawn square)されていますが、建てられた当時は御影石で舗装された広い空き地だった(cobblestone square)そうです。ピンコロ敷きと呼ばれ、現在では正門前などに残っています。噂では、東大紛争の時に投石として利用されてしまったために芝生に、集会ができないように植栽が植えられ、バリケードが作れないように近くの建物の机と椅子が固定されたと言われています。現在の講堂入口にある傷跡は、東大紛争時にできたものと言われています。東大紛争とは、1967年ごろ医学部の研修医問題をめぐる紛争が発端となって起きた学生運動(student movement)のことです。

ピンコロ敷(2023年10月撮影)

1976年には、広場の地下に中央食堂(Chūō Refectory)が建設されました。
安田講堂は実は12階建てと同じくらいの高さがある建物になっており、玄関は3階部分にあたります。崖下に生協第二購買部(Univ. CO-OP shop)とローソンがあり、その脇から食堂に入ることができます。購買部では東大グッズが販売されていて、饅頭などのお菓子や文房具を買うことができます。

安田講堂前広場の下に中央食堂がある(2023年10月撮影)

大学生協のメニューが多い中で、赤門ラーメンはここでしか食べられないメニューです。ハラル(Ḥarāl)向けのケバブメニューもあります。2階にはカフェ、パン屋さんなども入っています。SNSで営業時間や週替わりのメニューを確認することができます。
東大生協本郷食堂 ▷ https://twitter.com/hongo_coopd

安田講堂以外にも人の名前がついた建物はいくつかあり、福武ホール、伊藤国際学術研究センター、小柴ホール、武田先端知ビルなどがあります。主に個人の寄付によって建てられた建物に人物の名前がついています。

小柴ホール(Koshiba Hall)は、理学部1号館中央棟にあり、ニュートリノ観測でノーベル賞を受賞された小柴昌俊先生(Prof. Koshiba Masatoshi)の名前がついています(Memorial of Nobel prize for Professor Emeritus, Masatoshi Koshiba)。ホールがある理学部1号館中央棟の天井に空いた穴は、カミオカンデをイメージしているとか。「サイエンスギャラリー」もあり、小柴先生(2002年受賞)と梶田隆章先生(2015年受賞)のノーベル賞記念展示が行われています。ノーベル賞のメダルと賞状があり、特にメダルは貴重なためレプリカとなっています。このレプリカは1人あたり3個までしか作ってはいけないそうで、ここにあるのも大変貴重なものになります。

サイエンスギャラリー(2023年10月撮影)

理学部1号館は、安田講堂の裏手にあり、安田講堂を正面から撮影すると映り込んでしまうビルとしても有名です。できるだけ景観の邪魔にならないよう、ガラス張りになっています。安田講堂を撮影する際には、講堂向かって右手、生垣の間にあるマンホール上から撮影すると、背後の理学部1号館をうまく隠すことができます。

マンホール上から撮影した安田講堂(2022年1月撮影)


正門 Main Gate

外から見た正門(2023年10月撮影)

安田講堂正面に位置するのが正門です。コミュニケーションセンター、理学部化学館、旧工学部2号館と同様に、関東大震災以前の数少ない建築のひとつです。濱尾新総⻑の発案を受けた伊東忠太教授のデザインにより1912年に完成しました。伝統的な冠木門の形式であり、冠木のレリーフ部分は雲間から旭日が昇る姿が刻まれています。
大扉には怒涛の波を表す⻘海波と唐草模様という東洋趣味が組み合わされ、門柱の構造は鉄骨で、厚切りの花崗岩を貼っています。脇の門衛所は、赤門脇にある唐破風の両番所を意識したデザインと言われています。

内側から見た様子(2020年10月撮影)

第二次世界大戦中正門の扉は外して隠されていたため、金属回収の難を逃れ、代わりに木製の扉が取り付けられていました。その後、1950年から1988年まで使用されていましたが、鉄製で重く腐食も進んだことから、1988年以降はアルミ合金製のレプリカに替えられ、オリジナルは駒場キャンパス内に保管されています。
門が大きいのは、天皇の行幸を迎える際に、馬車や儀仗兵などが通られるようにとの伝説が残っています。

正門の隙間から銀杏並木を眺める(2019年12月撮影)
入試前日の様子(2020年2月撮影)

帝大下水のマンホール manhole / maintenance hole

このあたりの地面に注目してみると、マンホールに「帝大」や「東京帝国大学」の文字が書かれているものに気づきます。東京帝国大学より帝大の方が古いものでしょう。
「帝大下水」「東京帝國大學 暗」「東京帝國大學 暗渠」「東京帝國大學 電」などがすぐに見つかるはずです。
ちなみに、日本のマンホール蓋の原形の一つは、東京帝大工科大学教授を務めた中島鋭治博士が、東京市の下水道を設計するときに西欧のマンホールを参考に考案したものと言われています。

上段:銀杏並木、下段:工学部エリア(2023年10月撮影)
東大が入っている側溝も(2023年10月撮影)


銀杏並木 gingko trees

正門から安田講堂までの石畳の道は銀杏並木になっています。この銀杏並木と正門を整備したのが、当時の学長(President)である濱尾新先生(Prof. Hamao Arata, 3rd/8th President)です。「正門を入ったら万人、自ら襟を正すような雰囲気にしたい」との気持ちでキャンパス計画を立てたそうです。街路樹の種類を選定するにあたっては、現農学部(Faculty of Agriculture)で造林・造園を教授していた本多静六が助言したと言われています。日本で並木といえば桜(Cherry blossom)がイメージされますが、学生が花見(Cherry blossom viewing, party)で浮かれないように、との考えで銀杏になった言われています。濱尾先生は、正門から南へ向かう道路(現在は正赤通りと呼ばれる)にもイチョウを植樹しました。
東大の入試合格発表(Entrance exam announcement)で、合格者の受験番号(Examinee's number)が張り出されていたのも、この銀杏並木です。

合格発表を待つ様子(2019年3月撮影)

銀杏並木は春には新緑、秋には黄葉と、四季折々美しい景色が見られ、大学パンフレットの表紙を飾ったこともあります。特に、秋に黄葉した葉が作る黄色い絨毯は圧巻で、外部からも多くの方が写真撮影に訪れます。黄葉は11月ごろからはじまり、12月頭までに見ごろを迎えます。

2022年4月撮影
2021年5月撮影
2021年11月撮影
2021年11月撮影
2023年1月撮影
2022年1月撮影

銀杏は東大を象徴する木となり、キャンパス内の各所に植えられています。東大の現在のマークは、⻘と⻩の2色の銀杏の葉を重ねた模様となっています。上の葉は秋に色づいた銀杏の黄色、下の葉は東京大学のスクールカラー「淡青」となっています。ちなみに、スクールカラーが決まったのは1920年のレガッタと言われています。イギリスのオックスフォード大学に倣い、東京大学と京都大学(当時は東京帝国大学、京都帝国大学)が1920年に最初の対校レガッタを瀬田川で行った際、抽選によって決まった色が「淡青」(ライトブルー)でした。
美しい葉をつける銀杏。一方で、実が落ちてキャンパス内はギンナンの匂いがたちこめます。

銀杏の絨毯(2021年12月撮影)

学生としては、毎日の通学に銀杏臭くないルートを通りたいものです。片道15分ほどの本郷三丁目から工学部エリアまで、銀杏がないルートが存在します。
懐徳門から入って経済学部の建物を右に曲がり、医学部2号館を右手に、育徳堂(弓道場)、文学部3号館、法文1,2号館を抜けるアーチをくぐって、工学部6号館前にまっすぐ抜けるルートがあります。このルートには銀杏がなく、秋でも快適に通学することができます。

懐徳門から工学部までの銀杏回避ルート

文学部3号館、法文1,2号館を抜けるアーチは、関東大震災後のキャンパス復興を担った内田先生の設計になります。

2020年4月撮影
夜にはライトアップされる(2021年3月撮影)

アーチを支える柱はコリント式円柱で、柱頭には装飾が施されています(decorated)。特徴的なカールした造形は、アカンサスの葉を表します。アカンサス・スピノースス(Acanthus spinosus・L)の葉は、力強く、雄大な姿は生命を表すシンボルとして図案化され、古代ギリシャ建築のコリント式円柱の柱頭の飾りに用いられてきました。このアカンサス、実は建築学科の入る工学部1号館前の植栽に植えられており、5月には薄ピンク色の花が見られます。

柱頭の装飾(2022年10月撮影)
工学部1号館前にあるアカンサス(2022年10月撮影)

アーチとアーチの間、ちょうど三四郎池の近くから、東京スカイツリーを臨むことができます。スカイツリーは医学部附属病院あたりから最もよく見ることができます。

早朝の様子(2020年2月撮影)

銀杏並木を採用した、濱尾新先生の銅像が、三四郎池を背にして安田講堂前広場を眺める位置にあります。側の鉄骨の建造物は、三四郎池の水を吸い上げ、学内の道路や庭へまくために1928年に作られたポンプです。

濱尾新像(2023年10月撮影)

本郷キャンパスには約15体の銅像が屋外に立っており、教師の在職25年を記念して建てられたものが多いそうです。
工学部広場と正門の間に立つ古市公威(Prof. Furuichi Koui)は、「日本近代工学の生みの親」と呼ばれた人物です。パリ留学で土木工学を修めた後、内務省土木局に官僚技術者として勤めました。東大工学部の前身である帝国大学工科大学の初代学長を若くして務めました。東京地下鉄道(現在の東京メトロ)の初代社長になるなど 、様々な立場から近代土木工学の成立に尽力したほか、工業規格の設定・メートル法成立・工業教育の制度化においても多くの業績を残しています。

古市公威像(2023年10月撮影)
法文エリアから工学部エリアに抜ける(2020年11月撮影)


工学部エリア

工学部1号館と工学部前広場の大銀杏(2021年12月撮影)

工学部は、1886年の帝国大学になった頃に工部大学校(Engineering College)が統合され、帝国大学工科大学として設立されました。国立科学博物館の展示を見ていると、工部大学校がよく登場します。1919年に工学部となりました。

工学部の歴史(学部ガイダンス資料より)

工学部は現在16の学科があり、本郷キャンパスと淺野キャンパスに合わせて14号館まで建物があります。所属人数は約6,000人と、学内で一番大きな学部です。

学部2年のAセメスター(秋学期, Autumn semester)から学科の授業が始まり、3年生では多くの学科で演習や実験が実施されます。学部4年生(4th year undergraduate student)から研究室に配属され、卒業後は約80%の学生が2年間の修士課程(2 year master's program)に進みます。その後は、70%の学生が就職し、15%ほどの学生が3年間の博士課程(3 year Ph.D program)に進みます。就職先は、製造業が最も多く、次いで情報通信業、金融・保険業、省庁、研究機関などで、文系就職でコンサルを選ぶ人もいます。


工学部1号館 Faculty of Engineering Bldg.1

工学部1号館(2023年10月撮影)

工学部1号館は、関東大震災で破損した工科大学本館の跡地に1935年に建てられました。建築学科(Architecture)、社会基盤学科(Civil Engineering)の教室および研究室があります。1995年には香山壽夫建築研究所によって、増築および外観を留めたまま内部改造が行われ、その後は国の登録文化財にも指定されています。

工部大学校統合後の1888年に、本郷キャンパスの工科大学本館を建設、虎ノ門の旧延岡藩邸にあった工部大学校校舎を移転しました。設計は工科大学教授の辰野金吾先生でした。辰野先生の代表作には、日本銀行本店、東京駅などがあります。
J.コンドル先生は、総合大学としての東大が本郷に開学したその最初期にキャンパス計画を立てた人物になります。法文2学部校舎、鹿鳴館、ニコライ堂、岩崎邸などを設計しました。辰野先生はコンドル先生の教え子1期生です。工学部広場に銅像が立っており、台座は邪鬼に支えられています。銅像後ろの銀杏はこのエリアでは最も遅く、年末まで黄色い葉をつけます。

コンドル像(2023年10月撮影)

工学部1号館の増築は、旧建物の一部を残して新しい建物が覆いかぶさるように建てられているのが特徴で、中庭だった部分に製図室が作られ、建物内部から旧建物の外観を見ることができます。表から見ると内田ゴシックですが、建物裏手はガラス張りになっています。2023年には1号館の15号講義室が改装され、KAJIMA HALLが開設されました。安田講堂と同じような扇型の座席配置が特徴の講義室です。

旧建物の外壁(2023年10月撮影)
製図室(2023年10月撮影)
KAJIMA HALL(2023年10月撮影)

1号館裏、5号館との間の道には桜が植えられ、春にはきれいな花を見ることができます。

大学院修了式の日の桜(2020年3月撮影)

1号館内に入ってすぐの場所に展示されているのは、かつての1号館背面にあった玄関ポーチの装飾です。先端のファニアル(頂華飾り)が松ぼっくりのような形状で、その周りにクロケット(挙葉飾り)と呼ばれるアカンサスを模した装飾が四方に広がっています。この装飾は三角の切り妻壁の頂点に設置され、このような玄関ポーチはキャンパス内にいくつか残っています。内田ゴシックの「犬小屋」の愛称で親しまれ、J.コンドル設計の旧法文校舎が起源と言われています。
内田ゴシックの節で紹介したアカンサスは、現在1号館前の植栽にあり、塚本靖先生がヨーロッパ留学でギリシャから持ち帰ったものとのことです。

工学部エリアから法文1号館を臨む(左) 1号館の展示(右)(2023年撮影)


工学部2号館

工学部2号館(2023年10月撮影)

機械系(Mechanical Engineering, Mechano Informatics)、電気系(Electrical Engineering and Information Systems)が利用しています。下層に講義室、上層階に研究室が入っています。1号館と同様に、旧館の上部に新館のビルが乗っかったような形をしています。
旧2号館は、内田先生設計の鉄筋コンクリート4階建てで、関東大震災時に被害がありませんでした。1924年に建てられた後、岸田省吾(Prof. Kishida Shogo)+岸田建築設計事務所によって2000年に南側が改修、2005年に北側が取り壊され新しく高層階の建造物に建て替えられました。新2号館は12階建てで、上層の研究室からは隅田川の花火も見えるらしいと聞いたことがあります。

12階からの眺め(2023年10月撮影)


新館の旧2号館に重なる部分には、それぞれ建物の外側に2組の巨大なV字柱が設けられ、ビル自体の垂直荷重と、地震などによる水平方向の力の両方を緩和する役割を果たしています。

V字柱(2023年10月撮影)

旧中庭部分には、アカデミックバレーとフォラムと呼ばれるスペースがあり、新2号館と旧2号館が水平ブレースと呼ばれる補強材で繋がれている様子が見られます。坂の途中に建っているため、エントランスが1階と2階にあります。サブウェイがあるフォラムは2階です。

旧館と新館をつなぐアカデミックバレー・フォラムの様子(2023年10月撮影)
2号館案内図(2023年10月撮影)

旧2号館部分には、古い面影を残すパーツが多く現存します。
旧2号館正面入り口左手に設置されていたかつての銘板には、造兵学科の文字があります。屋内階段の手すりは、旧2号館外側の塀に見られる意匠になっています。
国産最初期のスチールサッシュは、現在ではアルミサッシュに取り替えられていますが、両開き窓と横軸回転欄窓が組み合わさった形状は、他の建物でも多く見られます。
アカデミックバレーに面した壁面には、旧2号館を切断した際の基礎パーツが見られ、フォラム横の新旧館の隙間は雨樋が通っています。

旧銘板、現銘板、旧2号館正面入り口(2023年11月撮影)
屋内階段の手すりと塀(2023年11月撮影)
スチールサッシュと工学部4号館の窓(2023年11月撮影)
旧2号館切断面と隙間


工学部4号館

工学部4号館(2020年4月撮影)
工学部4号館(2023年4月撮影)

マテリアル工学科(Materials Engineering)と、システム創成学科(Systems Innovation)が入っています。
工学部4号館は、現存する工学部の建物の中でも最も古い1927年に建てられた外観を残しています。内田先生の設計によるものです。2015年に耐震補強・改装工事が行われました。

上から見ると漢字の「日」の形をしており、自分がどの辺上にいるか迷ってしまうことがあるので注意です。中庭が2つに分かれており、殺風景ながら以前にはBBQなどが行われていたそうです。3階に講義室、2階に図書館と学生室、1階に学生実験室、地下1階に共通機器室があります。1階正面玄関入って左手に展示室があり、研究にまつわる実験サンプルが常設されています。地下1階の一角に、お菓子の自販機、シャワー室があります。女子トイレは2階にはないので注意です。

4号館のお菓子の自販機とシャワー室(2023年10月撮影)
マテリアル展示室(2023年10月撮影)

五月祭では「たたら製鉄(Tatara iron making)」を実施しています。日本に古来から伝わる、砂鉄と木炭を用いた製鉄方法で、ジブリ映画「もののけ姫(Princess Mononoke)」に登場することでも有名です。マテリアル工学科では伝統的に、学生有志が自ら「たたら炉(tatara furnace)」を組み、操業して、鉄を作る様子を演示しています。たたら製鉄で得られた鉄は、玉鋼と呼ばれ、日本刀に用いられています。

五月祭でのたたら製鉄の様子(2023年5月撮影)
マテリアル展示室より(2023年10月撮影)
研究紹介ポスター展示の様子(2023年5月撮影)


工学部8号館

工学部8号館(2019年12月撮影)

1965年に建てられました。工学部の本部があり、地下には工作機械がたくさん置いてある工房がありました(現在は5号館地下に移転)。高専からの編入試験の試験会場としても使われます。2007年にエントランスが改築され、現在では平日にキッチンカーが来ます。キッチンカーはネオ屋台村の「東大本郷キャンパス村」と称して、構内の他の場所にも計5ヶ所に来ています。

キッチンカー(2023年10月撮影)


工学部6号館

工学部6号館(2022年12月撮影)

元の建物は内田先生設計で1940年に完成しました。物理工学科(Applied Physics)、計数工学科(Mathematical Engineering and Information Physics)が利用しています。
1975年に、工学部1号館と同じく香山壽夫助先生の設計で改修・増築されました。香山先生が最初に保存・改修を手掛けた建物になります。当時の東京大学には建築の保存という意識がなく、本郷キャンパス自体を捨てて移転すべきといった意見すらあったそうです。工学部の教室不足が問題になった1970年代半ばともなると、古い建物をいとも簡単に壊すのはおかしいという気持ちが少しずつ浸透し、増築で対応することになったそうです。コールテン鋼とガラスブロックからなるアティックフロア(屋根階)が増築された部分で、ヨーロッパの建物に倣い自然なプロポーションになっています。

6号館上部の増築部分(2023年10月撮影)

6号館裏手のエレベーターが古く、ガタゴト鳴って怖いことが自分の中で有名です。調べてみると、「日立ビルエースP」と思われます。内装ボタンは□ボタン、非常ボタンの横の枠には「ビルエース」の文字が入り、内装インジケータは切り抜き文字です。開閉表記が略字のため初期型と推察されます。制御はDB-K(リレー式交流帰還速度制御)とのこと、1972年から1978年ごろ販売されていたようです。改築の時に設置されたものと思われます。

6号館エレベーターの乗場と内装ボタン(2023年10月撮影)


工学部列品 Reppin-kan

2023年10月撮影

関東震災前の1923年に竣工しました。本郷では明治以来の伝統となっていたゴシック的な意匠を地震に強いコンクリート造で継承すると共に、スクラッチ・タイルが貼られ、階数を三階で止め、建物の中心には光庭をとっています。震災後の建築群に共通する要素を多くもっています。震災前の段階で、内田祥三の本郷キャンパスの建築に対するデザインがほぼ固まっていたことを示しています。
もともとは工学部のミュージアムとして使われる予定で、かつては伊東忠太や関野貞など著名な建築家が収集した中国や朝鮮での調査資料が陳列されていました。現在は工学部の事務棟として使われ、工学部広報室や研究科長室が入っています。東大紛争で学生が立て篭もり、燃えたことでも有名です。


工学部11号館

工学部11号館(2023年10月撮影)

第二次世界大戦後、工学部7号館が1957年、工学部5号館が1961年、8号館が1963年、そして11号館が1969年に建てられました。
戦後の復興期は、建設された建物の多くが鉄筋コンクリート打放しの柱梁構造を直接露出する近代建築の手法が用いられました。工学部7,5,8号館がこの時期にあたります。コンクリート打放しの壁面は時間が経過すると傷みやすく、現在では補修が必要となっているものも少なくないそうです。工学部5号館と8号館は、耐震補強の外付けブレースが印象的になっています。工学部7号館は1990年ごろ改修、2009年に耐震補強が竣工しました。

レンガ外壁の上にブレースが設置されている8号館外壁(2023年10月撮影)
工学部5号館(2023年10月撮影)

復興期を脱して余裕の出てきた社会状況を背景に、キャンパスの建築事業に学内外の建築家が直接関与するようになった最初の例が11号館になります。
設計は工学部教授の吉武泰水先生です。9階建てで、外壁には茶褐色のタイルを貼っています。戦後建造された建物の多くがコンクリート打放しであったのに対し、この時期から、内田先生設計の建築群との調和を積極的に考慮した建築が登場しました。その後の工学部6号館改修(1975年)に続きます。

11号館1階には、以前は工学部の広報スペースTloungeと呼ばれていたものがあったようです。現在は、HASEKO KUMA HALLになっています。長谷工コーポレーションの寄付により、既存の講堂とラウンジが全面的にリノベーションされ、2020年に開設されました。ラウンジには、工学部の学科・専攻の展示が「知恵の巣箱 -nest of wisdom」として木箱に収められ、設置されています。講堂にはTloungeから引き継がれた「工科大学」の額が飾られています。

五月祭のラウンジ(2023年5月撮影)


工学部14号館

工学部14号館(2023年10月撮影)

1995年に香山壽夫先生の設計で建てられました。現在は、主に都市工学科(Urban Engineering)、精密工学科(Precision Engineering)が利用しています。

ガラスブロック
香山壽夫先生は、1975年の工学部6号館増築を皮切りに、学内の多くの建物に関わっています。
その中でも、1975年の工学部6号館増築、1983年の総合研究博物館、1984年の経済学部赤門総合研究棟増築、1995年の工学部1号館増改築、1995年の工学部14号館などに見られる共通点があります。
特徴的なのは、ガラスブロックを使用した外装です。工学部6号館増築において、「コロナ」を使用してフロアを増築しました。「コロナ」は、黒川哲郎氏と日本電気硝子とが1970年ごろ作ったガラスブロックで、四角に丸のパターンと、ガラス板の間に空気層を持ちます。設計主旨について香山先生は、組積造の建物と材質を対比させつつ壁が半透明になったものとしてガラスブロックを使用した、と述べられているようです。また、1950年以降、通常の板ガラスを用いると窓際は明るくなるが奥が暗くなり、また冷暖房費が嵩むため、光の拡散性と断熱性を有するガラスブロックが採用されるようになっていた時代背景もあるかもしれません。

ガラスブロックの外装(2023年10月撮影)
14号館のガラスブロック「コロナ」(2023年10月撮影)

デザイナーズチェア
14号館1階のラウンジには、ちょっと変わった椅子が置いてあります。これは「Chair_one(チェア ワン)」と呼ばれる椅子で、ドイツのデザイナーKonstantin Grcic(コンスタンチン・グルチッチ)が、2003年に発表した積み重ね可能なスタッキングチェアです。
有名な建築家やデザイナーがデザインした椅子(デザイナーズチェア)は他にもあり、工学部2号館サブウェイ前の椅子は、デンマークのデザイナーVerner Panton(ヴァーナー・パントン)によって1968年にデザインされた「Panton Chair(パントン チェア)」が使われています。世界初プラスチック一体成型の椅子です。
工学部1号館15号講義室前には、スイスの建築家Mario Botta(マリオ・ボッタ)によって1982年にデザインされた「SECONDA(セコンダ)」 が設置されています。建築物のインテリアのためにデザインしたもので、建築幾何学の典型的な形からインスピレーションを得たとされ、イタリアンデザインのアイコンとして、製造元Alias社の代表的な製品になっています。
工学部エリアには思った以上にいろんなこだわりの椅子が置かれているようです。皆さんも探してみてはいかがでしょうか。もし見つけたら教えてください。

Chair_one(2021年11月撮影) Panton Chair・SECONDA(2023年10月撮影)


工学部3号館

工学部3号館(2023年10月撮影)

上層階は化学生命工学科(Chemistry & Biotechnology)の研究室があります。
1939年に建てられた内田先生設計の旧建物は劣化が激しく、2010年に解体されました。新築に際して、発掘調査が行われ、酒徳利などが出土しています。この地点は、三四郎池から不忍池に流れ出る川谷とその周囲に加賀藩家臣の長屋があった場所でした。多量に出土している酒徳利は、国元からやってきた単身赴任の家臣が利用していたもののようです。
現在の建物は2013年に建てられ、内田先生設計の旧3号館の面影を残すため、外装にスクラッチタイルが採用されています。復元スクラッチタイルをよく見てみると、形状や、7色の色むら、風格、重み、手作り感、ボリューム感などの再現が工夫されているのがわかります。1939年にタイルを製造した日本陶業が復元タイルも製造しました。
2号館と繋がっており、建物内にはローソンストア100があります。吹き抜けが五角形になっており、五角形の空が見えます。

外装タイルの比較(2023年10月撮影)

アニメ聖地
工学部3号館は、アニメ『恋する小惑星』でも登場しました。アニメと言えば、Z会のCM新海誠監督『クロスロード』でも東京大学のようなキャンパスが登場します。このキャンパスをよく見てみると、安田講堂裏手が崖になっておらず、キャンパス内の高低差が反映されていないことがわかります。

恋する小惑星より
「クロスロード」より


工学部7号館

工学部7号館(2023年10月撮影)

航空宇宙工学科(Aeronautics and Astronautics)が入っている建物です。

田中舘愛橘先生(Prof. Tanakadate Aikitsu)が1918年に東京帝大附属の航空研究所(現在の先端研究所の発端)をつくり、工学部造船学科内に航空の講座を設けました。田中館先生地磁気や地震の研究者でしたが、日本初の有人飛行や、日本初の風洞設置などにも関わっています。講座は1920年に航空学科へと発展しました。この時期の卒業生の1人が、ジブリ映画「風立ちぬ」の主人公、ゼロ戦の設計・開発で有名な堀越二郎です。

航空学科で学ぶ堀越二郎(「風立ちぬ」より)

終戦直後1945年には、航空研究がGHQにより禁止され、当時の航空学科も廃止されました。サンフランシスコ講和条約の締結により航空研究の禁止が解かれ、再度航空学科として再開を果たし、1957年に7号館が竣工しました。

その後、宇宙工学の急速な展開に対応して、1962年には宇宙工学のコースが開設されました。工学部広場には、東大宇宙開発ゆかりの品2つが展示されています。

学内の宇宙開発では、第二工学部(現在の生産技術研究所)の糸川英夫が1954年にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics)研究班を東大生研内に立ち上げ、ロケットの研究を始めました。当初は、将来の輸送機として航空機に代わる超音速・超高層を飛べる飛翔体を作ろうとしていたそうです。1955年にペンシルロケットの水平発射実験が実施されました。
この実験の成功を皮切りに、1964年には東京大学に宇宙航空研究所(現JAXAの前身)が設立され、1970年に固体燃料を用いたL-4Sロケットによって、日本初の人工衛星「おおすみ」を軌道に送りました。名称は打ち上げ基地のある鹿児島県の大隅半島に由来しています。 日本は旧ソ連、アメリカ、フランスに次いで世界で4番目の衛星自力打ち上げ国になりました。大学の研究所が学術研究の一環として、非軍事目的での人工衛星開発に成功するのは、世界でも珍しい例でした。
東京大学宇宙航空研究所は、その後東大から離れ、文部省直轄の宇宙科学研究所となり、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の一部となっています。現在も東大と繋がりがあり、JAXA相模原キャンパスには、航空宇宙系、電気系、材料系の研究室があり、大学院生が研究を行っています。

人工衛星「おおすみ」(2023年10月撮影)
ペンシルロケット(2023年10月撮影)


工学部13号館

工学部13号館(2023年10月撮影)

弥生門から入ってすぐ右手にあるのが、工学部13号館です。東京帝国大学工学部の実験室として建てられ、現在も主に電気系の実験室として使われています。13号館は関東大震災後1930年に竣工され、頑丈で、窓が少ないのが特徴です。特に、大型の高電圧電源装置があり、五月祭では電気系の展示として「高電圧雷実験」が実施されています。
13号館の弥生門側にある小さな小屋は、「台貫所(daikan-jo)」と呼ばれ、巨大な重量計になっています。小屋の前の地面に敷かれた大きな鉄板に乗った物の重さを測り、小屋内部の目盛りで数字が確認できます。15 tまで測定可能です。構内工事で出た鉄くずなどをトラックごと重量測定し、売却しているそうです。1936年頃建てられたものと考えられています。

台貫所(2023年10月撮影)


船型試験水槽 Experimental Tank

船型試験水槽(2023年10月撮影)

工学部エリアの端、2007年に作られた西方門(Nishikata Gate)近くにある建物です。この付近には船舶実験用の施設がいくつか建っています。
船舶実験用水槽は、模型船を水槽中に浮かべてその運動状態や、運動にともなう力の計測を行う設備で、試験水槽(Experimental Tank)と呼ばれます。※ 船舶研究は生産研で主に行われていたようで、不正確な内容が含まれる可能性が高いです。

船型試験水槽(Experimental Tank)は、現存する船型(せんけい)試験水槽としては日本で最も古い水槽で、1937年に竣工したTowing Tankです。長さが80m、横幅3.5m、深さが2.5mあります。船型試験水槽とは、船が水から受ける力や、その際に生じる流れ、航行する船がつくりだす波などを、水をはったプールで模型を使って調べるための実験装置です。東大の水槽は、船周辺の波形をミクロに計測するため、他の水槽に先駆けて計測用台車を改良しました。
世界中の船舶に影響を与えた船首形状の開発をはじめ、数々の先進的な研究成果を生み出しており、船舶工学における流体力学の確立・発展に加えて、船舶の燃費・速力向上に役割を果たす様々な造船技術開発に多大な貢献をしてきました。現在も教育、研究設備として稼働中です
建物前には、工部大学校出身で、日本の造船工学の始祖と言われる三好晋六郎先生(Prof. Miyoshi Shinrokurou)の像があります。英国留学から帰国後、新設の工科大学造船学科教授になりました。像が持つ本はManual of naval architectureです。

三好晋六郎像(2023年10月撮影)

また、東大総長も務めた平賀譲先生(Prof. Hiraga Yuzuru)は、「軍艦総⻑」と呼ばれ、東京帝国大学第二工学部(現・生産技術研究所)を設置しました。旧2号館のサブウェイ近くに掲げられた「妙高」は平賀譲造船少将がその基本計画を担当したもので、平賀先生の代表作の一つです。

旧2号館に展示された青写真(2023年11月撮影)

船型試験水槽の裏手には1981年に設置された「キャビテーションタンネル(Cavitation Tunnel)」、横手には「船舶運動性能試験水槽(Seakeeping Tank; Ship Model Basin)」があります。

キャビテーションタンネルは、船のスクリューに使われるプロペラに関する実験装置です。プロペラを水中で回転させると、プロペラの翼のごく近くで圧力が急変し、泡が発生したり消滅したりする現象を「キャビテーション」と言います。これが発生しないための条件を実験しています。

キャビテーションタンネル(2023年10月撮影)

船舶運動性能試験水槽は、荒波などで船体が揺れ、横復原力に大きい変化を与えた時、船が転覆しない工夫等を調べる「動揺実験水槽」であったと思われます。動揺実験水槽は1919年ごろの建設と言われていますが、この記述は本郷キャンパスの水槽を指しているかは不明です。
近年は「動揺水槽」と呼ばれ、工学部ものづくり部門で利用されています。加工機械が設置され、3D プリンタや金属積層造形による試作、学生の課外活動スペース、ベンチャー企業が試作を行う「ベンチャー工房」として活用されています。

船舶運動性能試験水槽(2023年10月撮影)


この建物上部から、言問通りを横切って弥生キャンパスへと続く歩道橋「陸橋(Overhead Bridge)」が渡されています。通りおよび陸橋のことを、一部の学生の間で「ドーバー海峡」と呼んでいます。

この周辺には木製の電柱があります。

木製電柱(2023年10月撮影)

関連して、工部大学校で機械と造船を教えていたC.ウェストの銅像が工学部広場に立っています。台座には製図器具、製鉄所、造船所、エンジンのモチーフが描かれています。

C.ウェスト像(2023年10月撮影)

船型試験水槽の裏手には、工学部ものづくり部門が管理する建物の1つである「ものづくり実験工房(Monozukuri Lab.)」があります。東京大学工学部丁友会所属サークルで、NHK学生ロボコン強豪のチーム「RoboTech」が日々活動しています。元々工学部旧2号館の中庭にあった物置小屋から、2号館建て替えに伴い、活動場所を移転したと言われています。

ものづくり実験工房(2019年1月撮影)


淺野キャンパス

高度経済成長期、工学部は、学生定員の増加や、科学技術の発展にともなう学科増設で、施設の拡大が必要になりました。工学部の建物は、本郷地区の裏手にある淺野地区にも広がり、工学部関係の学科、大型計算機センター、そして大型の実験施設が続々と建設されました。

武田先端知ビル(Takeda Frontier Science Hall)
2003年にタケダ理研工業(現アドバンテスト)の創業者である武田郁夫氏の寄付により、岸田省吾先生によって設立されました。東大で個人名を正式名称に含める初の建物です。地下には、超微細加工リソグラフィー・ナノ計測拠点として、武田先端知スーパークリーンルームと呼ばれる工学部共通のクリーンルームがあります。
クリーンルームは空気中の微粒子が少ない部屋で、ここには山手線内で最も清浄度の高いクラス1のクリーンルームがあり、主に半導体の研究で利用されています。ダウンフロー型と呼ばれる方式で、部屋内の高い清浄度が保たれています。天井全面にフィルターが設置され、清浄な空気がブース内に送り込まれます。送られてきた空気は網状になった床から下へ吸いこまれる仕組みのため、地下1〜3階吹き抜けの構造になっています。
また、「弥生時代」の名称の由来となった壺形土器が発見された向ヶ丘弥生町の一角に位置しています。

工学部9号館(Faculty of Engineering Bldg.9)
1966年竣工、2003年に耐震工事が行われました。
地下にある東京大学微細構造解析プラットフォームには、世界最大級の電子顕微鏡センターがあり、多種多様な電子顕微鏡があります。例えば「原子分解能磁場フリー電子顕微鏡」など世界最先端、世界でここにしかない装置です。日本全国の大学、公的研究機関、企業等の研究者が最新の解析技術を利用しに訪れています。
9号館近くにある超高圧電子顕微鏡室には、超高圧電子顕微鏡のほかに、1942年にできた東京帝国大学第1号機の電子顕微鏡(TU-No1型TEM)もひっそりと置かれています。免震および電磁波を防ぐ工夫があり、近くを通る千代田線の終電後に実験をしていた話もあるようです。

工学部9号館(2021年10月撮影)
超高圧電子顕微鏡とTU-No1型TEM(右手)(2021年10月撮影)


道路標識

工学部エリアを歩いていると目に入るのが「段差有り」の看板です。東大構内にはスピード抑制のためのハンプがあり、その注意喚起の標識が立てられています。いくつかある看板もそれぞれ表記が違うようです。
本部環境課交通管理チームによると、構内道路は龍岡門からまっすぐ伸びたバス通りを除き、全て私道に該当するため、交通法上道路標識を設置することができません。そのため、似たような注意喚起の看板を設置しているそうです。特注品のために他では見たことがないような道路標識になっているわけです。
私道であったために、以前は運転の練習場として利用されてしまうことも多かったようで、規制が設けられたようです。

工学部エリアにあるハンプ凸注意喚起の看板(2022年8月撮影)

研究のための実験も行われており、2020年ごろから四足歩行ロボット「Spot」認識用のマーカーが電話ボックスに貼ってあったり、目の付いた自動運転車が走っている姿を見かけたこともあります。

電話ボックスに貼られたマーカー(2023年10月撮影)

街灯
また、街灯もおしゃれなデザインになっています。
法文エリアとの中間にある街灯は、一度は撤去されたものの、1994年には石畳と共に、資料に基づいて戦前のデザインを復元した街灯が整備されました。総合図書館などに見られる玄関ポーチ街灯と似たデザインになっています。また、旧車道部分は御影石で舗装されています。

列品館横の街頭(2021年5月撮影)と図書館玄関ポーチ街灯(2023年10月撮影)

公衆電話
電話ボックスは、1991年からのモデル「C-BOX」です。工学部エリアには3箇所にあります。公衆電話機は、ユニバーサルデザインに対応した2005年のデジタル公衆電話機DMC-8Aが設置されています。

公衆電話(2023年10月撮影)


本郷補完計画

補完されたパーツ(2023年11月撮影)

キャンパス内各所にある割れ目を埋める白いパーツは、2023年の東京大学制作展EXTRA2023 「VOIDAGE」、東京大学制作展2023「學藝運動」にて展示されていた作品です。

作品紹介①『本郷補完計画』
本郷キャンパスの表層には、風雨により削られた舗装や剥離した壁面など、積年の痕跡が数多く存在する。意識しないと見えてこない埋もれた痕跡を収集する。

東京大学制作展2023「學藝運動」より
東京大学制作展2023「學藝運動」での展示(2023年11月撮影)
本郷補完マップ

構内各所に設置されており、徐々に溶け込んでいっているようです。


飲食店

構内には、ローソン、サブウェイ、ドトール、スタバ、松本楼などが入っています。

ローソンは、安田講堂横と龍岡門近くにあり、24時間営業で研究者のお供になっています。
工学部3号館には100円ローソンが入っており、自分は秋頃になるとはじまる焼き芋を楽しみにしています。夕方になると割り引かれるので、そのくらいの時間に毎日通っていた時期もありました。

毎日買った焼き芋(2019年11月撮影)

工学部2号館にあるサブウェイは、コロナ禍で閉店しそうになりましたが、SNSなどで惜しむ声が多く聞かれたからか、再会の目処が立ち、現在でも営業しています。

サブウェイ閉店、営業継続のお知らせ(2022年1, 2月撮影)


工学部広場

工学部広場(2023年10月撮影)

工学部1号館、6号館、11号館、列品館に囲まれた広場には、大きな銀杏の木「大銀杏」があり、シンボルになっています。五月祭ではステージが立ち、建築学科のパビリオンが建設されることでも知られます。

チェス・ベンチ
創立130年を機に、2007年に「知のプロムナード(Promenade of Wisdom)」が整備されました。"学生や教職員はもとより来訪者をも含め、人々が東京大学における知的活動の足跡や、「今」について知ることができるようなモニュメントを設置していく" というコンセプトです。
工学部新2号館でも登場した岸田省吾先生が関わっており、工学部広場は「近代知の道」に組み込まれています。大銀杏や彫像群のほか、戦前までの構内整備で設置された丸石縁石や大判石、加賀藩邸時代の「蛇塚(おばけ灯籠)」などをそのまま残したほか、ガラスケースに収めた大学の研究遺物や、学内コンペで選ばれた「チェス・ベンチ」(当時建築学専攻修士2年 大野友資)を置いています。
チェス・ベンチは、ひとつずつ異なる素材を用いて、座面や側面の仕上げもザラザラやツルツルを織り混ぜ、形はシンプルな直方体になっています。2021年五月祭での建築学科パビリオンでは、このチェス・ベンチに似た基礎を用いていました。現在も工学部広場に紛れているかも…?

チェス・ベンチ(2023年10月撮影)

蛇塚(お化け灯籠)
前田家の時代に不義をはたらいた奥女中を「蛇いっぱいの部屋の中に閉じ込めて折檻し、処刑した」場所と伝わっています。大正初期から「本郷通り寄り北隅」→「旧工学部本館中庭」→「現位置(1号館新営に伴って)」と移動したのですが、この塚を移動するものに「必ず不幸がある」という伝説があるらしいです。

蛇塚(2023年10月撮影)

工学部エリア建築の概要

情報が分散してしまったので、流れを整理しておきたいと思います。
工部大学校が移転してきてから、内田祥三先生による内田ゴシックが完成、関東大震災以後多くが建てられました。戦後の高度経済成長期は、学生増加などの影響で急速に密集して建物が建ちました。その後、これ以上新しい建物を建てるのが難しい中で、香山壽夫先生や岸田省吾先生が中心となってキャンパス計画が立てられ、増改築が進み、これまでの歴史ある建物を残して引き継いでいく建築が増えました。
そうやって考えてみると、普段何気なく見ている建物も、同時期に建てられたものは印象が似ているなとか、こんなディテールが共通していたのか、といった新しい発見がありました。

工学部エリア建築の概要(筆者作)


樹木

本郷キャンパス全体が緑豊かな環境です。
とにかく大きな木がたくさん生えているため、雨上がりには、雨が上がっているにも関わらず枝葉から滴る水滴で、傘をささないと濡れてしまうほどです。また、風が強い日の後にはたくさんの枝が落ちています。
キャンパス四季折々の植物をいくつか紹介します。

本郷キャンパスの草花
工学部広場の大銀杏(2022年12月撮影)

ケヤキ

本郷キャンパスでもっとも数多い木はケヤキで、クスノキとイチョウがそれにつぎます。とくに育徳園の総合図書館側に沿う通り、それに工学部や経済学部以南の関東大震災後に建築された建物の周囲にはケヤキが多く植えられています。生長の速いケヤキは、その重厚な建物を凌駕しずっしりと葉を繁らせ、蝉などの鳴き声が響き合う夏は林間にいるような気分になります。
木には、一年中葉が繁っている常緑樹、一定期間は落葉して過ごす落葉樹があり、落葉樹には、寒冷期に落葉する夏緑樹と乾燥期に落葉する雨緑樹があります。ケヤキは夏緑樹です。

三四郎池西側のケヤキ並木(2022年12月)
工学部エリアのケヤキ並木(2023年4月撮影)
雪景色のケヤキ並木(2022年1月撮影)

ケヤキがすっかり落葉した冬でも、常緑樹のクスノキの樹冠には青々とした葉が繁ります。本郷キャンパスではクスノキは意識的に植樹されたらしく、安田講堂前の広場に左右対をなして植えられています。クスノキも生長の速いことで有名で、古来から建築や彫刻に重用されてきました。以前は総合図書館前の広場にもクスノキが対になって植えられていたようです。

サクラと金木犀

春にはサクラ、秋には金木犀が咲きます。並木は銀杏とケヤキが多いですが、ポツリポツリと植えられた桜が春にはピンク色の綺麗な花を咲かせます。工学部エリアには、工学部広場11号館側のオオカンザクラが2月ごろに開花し、13号館前にオオシマザクラ、工学部広場6号館側にシダレザクラ、古市先生像の隣と工学部1号館裏の桜並木にソメイヨシノが咲きます。ちょうど卒業式の3月終わり頃が見頃です。また、4月ごろには赤門の隣の立派な八重桜が咲きます。
花蜜を吸いにスズメやメジロ、ワカケホンセイインコなどの鳥も見られます。11月ごろにスズメのヒナを見たこともあり、たくさんの鳥が集まってきています。その他にも多くの生き物が住んでおり、カバー写真は、2020年10月に安田講堂前のベンチで出会った猫です。

工学部エリアのサクラ(1号館裏、11号館隣、工学部広場6号館側)
スズメのヒナ(2021年11月撮影)

イチョウからギンナンが落ちる少し前の時期、金木犀の香りが漂います。工学部エリアでは工学部広場に立派な木が植っており、他にも赤門脇、理学部裏手など、キャンパス内にもいくつかあります。普段は目につかないですが、秋になると急に存在感が出るのが面白い木です。

工学部広場の金木犀(2022年9月撮影)

オオバモクゲンジ

夏に黄色い花をつけ、秋には紙風船のように膨らんだ果実が落ちてきます。ちょうどギンナンを避けて移動していると、懐徳門近くと経済学部角のポストの上に見つけることができます。寒さには弱く日本では関東以西でまれに見かける種類とのことです。経済学部のポスト周辺には、柿の木やモクレンの木もあり、特にモクレンは3月ごろにきれいな白い花を見ることができます。

オオバモクゲンジの果実(2022年9月撮影)

サツマイモ

三浦しをんの小説「愛なき世界」は、東大本郷キャンパスにある植物学の研究室が舞台になっています。懐徳門入ってすぐの理学部2号館にある、理学系研究科生物科学専攻発生進化研究室(塚谷研)がモデルになっているそうです。物語の中で、安田講堂前に植えたにサツマイモを掘るシーンが出てきますが、フィクションか、はたまた実際にあった話なのかは不明です。
たしかに安田講堂前は日当たりがよく、私が観測した中では、安田講堂前の広場に生えているタンポポが、キャンパス内で最も早く開花します。

「きみたちに掘ってもらうのは、そこ」
諸岡が指したさきを見て、木村たちは驚きに叫んだ。
「えええっ!?」
1925年に完成したY田講堂は、T大のシンボル的な建物だ。壁面は赤いレンガでできており、正面から見ると中央に四角い塔が威風堂々とそびえている。しかし、裏側には半円のドームがあり、建物全体を横から見ると、貴婦人の立ち姿のようなのだった。塔は、背筋をのばして優雅に佇む貴婦人の上半身。ドーム部分が、ウエストから大きく膨らんだドレスのスカートだ。
Y田講堂のまえは、ちょっとした芝生の広場になっている。芝生のまわりを、よく手入れされたツツジの植え込みが取り囲んでいた。諸岡が指したのは、その植え込みの一角だった。
「たしかに……」
川井がかすれた声で言った。「たしかに、サツマイモの葉っぱっぽいものがあるなとはずっと思っていました。でも、Y田講堂の真ん前ですよ!?」
「大学側に許可取ったんですか?」
と、岩間も胡乱な目で諸岡を見る。
「ここが一番、本郷キャンパスで日当たりがいいので」
諸岡は、微妙に返事になっていないことを飄然と述べた。
一同は持参した軍手を装着し、移植ゴテと買い物カゴをそれぞれ持って、件の植え込みへと向かった。Y田講堂のエントランスからは一番遠い、広場の角にあたる植え込みだ。芝生を縁取るようにゆるくカーブした植え込みスペースには、サツマイモが二列、整然と植えられていた。

「愛なき世界(上)」中公文庫 p.178

理学部生物学科が入る理学部2号館前には、変わった植物が植えられています。例えば、緑のバラ(Viridiflora)。コウシンバラ(Rosa chinensis)の突然変異体です。コウシンバラは、一般にバラと認識されているものの祖先となった種類の1つで、園芸品種の季節咲き性は、このコウシンバラから由来しています。緑の花を咲かせるこの突然変異体は、19世紀から記録のある古い種類です。ムクゲパイプバナ(Aristolochia westlandii Hemsl.)も咲きます。中国原産のウマノスズクサ属植物です。ここのものは小石川植物園から分家の株だそうです。この奇妙な形のものは、がくの変形したもので、花弁は退化してありません。
連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデル、牧野富太郎が所属していた植物学教室もここにありました。

コウシンバラ(2022年2月撮影)
ムクゲパイプバナ(2022年4月撮影)

環境整備チーム

この広大なキャンパスの環境は、2006年ごろから施設部保全課環境保全チームスタッフ「環境整備チーム」が、「ゴミ清掃のプロフェッショナル」になることを合言葉に、日々落ち葉などの清掃をしてくださっています。たくさんの自然に囲まれながらも快適なキャンパスライフを送ることができています。

清掃の様子(2020年7月撮影)


参考資料

記事にあたって、以下のWebページ等を参考にしました。また今回、東京大学文書館を知ることになりました。文書館は、歴史的に重要な大学の法人文書を保存する機能と、広く東京大学関係の資料を保存する機能を併せ持つ組織とのことです。この記事は正式な文献をあたったわけではないので、文書館が発表している記事等を参照してください。誤植等あったらすみません。
調べているうちに楽しくなってきてしまって、分量が多くなってしまいましたが、キャンパスについて少し詳しくなれて嬉しく思います。

https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/sites/default/files/2021-09/100-architecturalculturalobjectsmap_jpn_2021.pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/zogakusi/604/0/604_KJ00001778119/_pdf

https://www.pjcenter.t.u-tokyo.ac.jp/Docs/2021%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A%E9%83%A8%E9%96%80%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf

https://www.kanzaki.com/works/2016/pub/image-annotator?manifest=https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/iiif/111577/manifest#p5

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/22640/files/sk017006001.pdf

https://www.t.u-tokyo.ac.jp/hubfs/ttime/ttimepdf/200802vol23.pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/seisankenkyu/65/5/65_597/_pdf

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111G0000009-2022-21-020.pdf

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shisetu/011/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2009/03/24/1247398_1.pdf

https://www.tsuchiura1-h.ibk.ed.jp/wysiwyg/file/download/17/975

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/en/overview/pdf/Bldg1-west-1998.pdf


番外編 キャンパス周辺

上記で力尽きたので軽く書いておきます。気が向いたら加筆または新たな記事を書くかもしれないです。

食事
工学部からだと、もり川(定食屋)が近くて気軽に入れるし、有名かなと思います。ルオーも歴史があるけどちょっと軽食かもしれないです。ちょっとおしゃれなご飯屋さんは、にし乃(ラーメン)、ファイヤハウス(ハンバーガー)とかが有名な気がします。自分はねむ瑠のラーメンが好きです。根津方面だと、和幸(定食)、ラッキー(カレー)、車屋(居酒屋)などでしょうか…

周辺駅
本郷キャンパスは、東大前、根津、湯島、本郷三丁目に四方を囲まれています。本郷三丁目は丸の内線と大江戸線があり、違う駅になっているので注意です。

秋葉原へは、徒歩、または自転車、またはバス(茶51)で15分くらいです。
秋葉原にはアニメストアや、電子部品街があります。アニメイトとか、千石電商や秋月電子、ラジオデパートとか(今もやってる?)があり、工学部の電気・機械系学生御用達です。
上野へは池之端門から出て不忍池を回って徒歩で20分くらい。
上野は美術館や博物館、居酒屋(チェーンなら鳥貴族、チバちゃんとか、大統領とか)、カラオケなどがあります。特に学生の場合、国立の美術館博物館は、キャンパスメンバーズのおかげで学生証を見せると常設展が無料で見られます。

駒場・柏キャンパスへの行き方
駒場東大前への行き方は次の2通りがあります。2番目の方が駒場Ⅱキャンパスに行くときは便利かもしれません。

  1. 東大前→(南北線)→溜池山王→(銀座線)→渋谷→(井の頭線)→駒場東大前

  2. 根津→(千代田線)→代々木上原→(徒歩)→駒場東大前

柏キャンパスへは、安田講堂近くからシャトルバスが出ています。


駒場Ⅱキャンパス(駒場リサーチキャンパス)

工学部の一部の研究室は、本郷キャンパスの他に駒場Ⅱキャンパスおよび柏キャンパスにもあります。学部1,2年生が通う駒場キャンパスは「駒場Ⅰキャンパス」と呼ばれ、駒場東大駅近くの違う敷地になります。
駒場Ⅱキャンパスには生産技術研究所(通称: 生産研、生研)先端科学技術研究センター(通称: 先端研)が正門入って左右にあり、学部生は少なく、大学院生が多く所属しているのが特徴です。
ちなみに、駒場キャンパスには元々、現在の農学部(東京農林学校)があり、本郷キャンパス隣の弥生キャンパス(第一高等学校)と敷地を交換して移転してきました。本郷三丁目方面の土地がなかなか買えなかったためと言われています。

13号館(2023年4月撮影)
An棟からの眺め(2023年1月撮影)

13号館は、岸田日出刀が設計したもので、安田講堂などと同様に時計台が設置されています。航空研究所の本館でした。ここにもスクラッチタイルが用いられており、大谷石と質感が似ているといって重宝され、フランクロイド・ライトが設計した帝国ホテルの外壁に使われたスクラッチ煉瓦の影響で、流行りだったとも言われています。正面にはヒマラヤスギが植えられています。敷地を番地のように区切って、その番地の数字を建物の番号にしたため、1号館ではなく13号館になったようです。

生産技術研究所
1937年の日中戦争に伴い、社会における工学部卒業生の需要が高まったことから工学部の定員を増加させました。その流れを受け、1942年に当時の総長 平賀譲先生の元で設置されたのが第二工学部になります。
工学部の拡張として陸海軍が出資、検見川運動場建設途中だったことから千葉市内に建設されました(後の千葉実験所、現在は柏キャンパスに移転)。
1949年に生産技術研究所が発足、1962年には六本木(現・新国立美術館場所)へ移転し、2001年に現在の駒場Ⅱキャンパスに移転しました。

1950年代には、糸川英夫先生を中心として日本のロケット研究発祥の地となり、1964年には東京大学宇宙航空研究所が創設され、現在のJAXA宇宙科学研究所に引き継がれています。また、溶鉱炉が建設され、27年間にわたって繰り返し操業されました。
1960年代には、金属加工技術の基礎研究が行われ、現在も高速圧縮実験機がS棟に展示されています。自動車や交通渋滞のメカニズム研究が実施され、国立代々木競技場の構造設計に携わった坪井善勝教授も所属していました。
1990年代には、原広司先生が伝統的集落踏査に基づき、生産研の建物を設計しました。原先生は京都駅の設計でも有名で、生産研も吹き抜けや、200 mぶち抜きで続く廊下などが、京都駅の面影を見せています。いつかこの長い廊下をスクーターで走るのが夢です.

高速圧縮実験機(S棟展示室にて2022年11月撮影)
駒場Ⅱキャンパスでお気に入りの標識(2022年7月撮影)
生産研側(2022年11月撮影)

先端科学技術研究センター
1921年に先端研の発端である東京大学航空研究所が設置されました。関東大震災後、1930年に駒場農学校(農学部の前身)の大きな農場があった駒場に移転ました。1964年には生研からロケットや宇宙科学分野が合流したことで、東京大学に附置された全国国立大学共同利用研究所「宇宙航空研究所(宇航研)」として生まれ変わりました。そこから1981年に文部省直轄の宇宙科学研究所となり、相模原と駒場に分かれることになりました。駒場の方は、7年期限の工学部附属境界領域研究施設(境界研)となり、その後1987年に先端科学技術研究センター「先端研」が発足しました。「学際性」「流動性」「国際性」「公開性」の4つをモットーにしています。

現在も1号館には、東大航空研究所が駒場地区に移転された際、最初に建設された木製風洞(通称:3m風洞、1930年実験開始)があります。長距離飛行世界記録を作った航研長距離機や国産旅客機YS-11等の設計に関わった、日本の航空史を語る上で極めて重要な風洞です。
https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/about/experimental_index.html

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