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5/10. 母の日に考えた“家族”と“想像する”こと。

こんばんは。ぼりこです。ふと思い立ってばんばんキーボードたたき始めました。深夜1時です。

「母の日」

さっそくですが、先日、「母の日」ありましたよね。皆さんはなにか特別なことありましたか。私の母は、その母と義母に毎年お花を贈るのが恒例になっていて、いいなあ、私も稼げるようになったらなんかしたいな~なんて漠然と考えていました。

でも当日、Instagramにどんどん流れてくる「お母さんいつもありがとう。大好き!」みたいなストーリーの投稿には少し違和感がありました。昔の写真なり最近の写真なり、仲良く親子で映った写真をアップしてる。

でも、世の中には、お母さんがいないひと、お母さんと仲が悪いひと、虐待されていて縁を切りたいと思っているひと。などなど。そういうひとたちがこれみたらどう思うんやろ? そういうひとに、「理想の家族像」を“見せる”ことは一種の暴力になりえるんじゃないかなあって。そんなこと考えていたら日付を超えて「母の日」は終了したので、私はなにも投稿しませんでした。

見せたいものを見せるのがSNSだし、見ることを選んでいるのは私なので、文句言う筋合いはないしそのつもりも毛頭ない。先に言っておきます。

思惑

まず、私の場合は基本親とはSNSでつながっていないし、インスタをやっていない親だっています。もし、投稿しているひとたちのお母さんがそのストーリーを見ないとしたら、彼らの目的は少なくとも母に感謝を伝えることじゃない。そこには、親と仲がいいじぶん、愛されているじぶん、こういう日を大切にしているじぶんを見せることに目的がシフトしている気がします。(お母さんが見ている場合もあると思います。)

私も承認欲求強いし、褒められたら嬉しいし、その気持ち、わかる。

おとうさんの似顔絵

もう10年以上前かなあ、わたしが保育園に通っていたときに「お父さんの似顔絵描こう!」っていうのがあって。たぶん、描いたあとはしばらく園内に展示して、「父の日」に本人にプレゼント。みたいな。

わたしが当時仲良かった男の子、詳しいことは知らないけど、お父さんいなかったんです。私の父が私を迎えに来たときは、走ってとびつきにいっていたし、私の父は彼を可愛がっていました。だから、当時の私なりに(彼は似顔絵どうするんだろうなあ、先生はどうしなさいっていうんだろうな…)って様子うかがってたし、そのことで彼が傷ついたりしないかなって。

たしか、結局彼はおじいちゃんの似顔絵を描くことにしてました。どういう思いだったのか、今でもわからないけれど、当時の彼の気持ちを考えると少しつらい気持ちになります。しばらく会ってないけど、元気かな。

想像力という強力なパワーを使うこと

保育園の時はもっていなかったけど、いまではスマホ1台でなにもかも発信できます。
SNSって時に残虐で思惑じみているし、私も無意識に、その暴力に加担していることも少なくないです。

自分がなにかを発信することで、誰にも傷ついてほしくない。じゃあ、そのためになにができるか。
やっぱり、「こういうひともいるかもなあ」って一瞬でも考えるか、考えないかの差は天と地ほどあると思うし、そこでなにか言動をセーブすることができるかもしれないよね。逆に、何かかけられることばがあるかもしれない。
別になにも目新しいことは言ってないけど、3日考えた私の結論はこれ。

あとは、ある先生と友だちとさっき話していてなるほどって思ったのは「母の日」って文化的な意味を越えて資本と結びついているからちょっときもちわるい。「母の日」じゃなくても「お母さんありがとう!」って言えたらいいし、直接言われたらお母さんもやっぱり嬉しいんじゃないかな。

「みんなにお父さんとお母さんがひとりずついて、家族は仲良し」のような “前提”に一度立ち返る努力をすること自分と違う境遇に置かれているひとを知ろうとすること、頭をつかって想像すること。そういう小さな歩みを止めたくないな、と思った「母の日」でした。

お付き合いありがとうございました。


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