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父、血迷う。演歌歌手になる。

思いついたら即実行。
父に「ためらい」という言葉はない。

ある日、父が「お父さんは歌手になろうかなぁ」と言い出した。
なろうかなぁ=なる……である。

母は、「どうぞ」と知らんぷり。
子どもたちも知らんぷり。

言い出したときにはすでに始まっているに違いない。
止めても無駄である。

ある時など、父は、フラッと立ち寄った電気屋で店員にお勧めされるがまま冷蔵庫を買ったらしく、母に言えず、黙っていた。電気屋が配送に来て玄関チャイムを押した瞬間に白状した。「あ、冷蔵庫、買ってしまった」と。
うちには何故か大きな冷蔵庫が二台並んで置かれた。


水面下でおこなれていた父の歌手になろうかなぁは、ある日、急浮上する。

あっという間にレコーディングのため東京へ行き、とある犬のシンボルのレコード会社から出来上がったカセットテープやCDが送られてきた。

名のある作曲家、曽根〇〇の作品であったため、やはり早くから準備されていたことが見て取れた。

陽気な父に、その歌を何度も聴かされて感想を求められたが、賞賛も酷評もできず、
「まぁ、いいんじゃないかなぁ」とのらりくらりと私はマヌケな答えを繰り返した。

冷静な家族のもと、父は愛車を宣伝カーに改造した。
ただでさて、改造車であったというのに、さらにド派手な色に塗り直し、歌のタイトルを書き、車上に大きなスピーカーを2つ付けて大音量で街をひた走るというのだ。
その車に乗るのは死ぬほど恥ずかしかったが、遅刻したときにその車で学校に送っていってもらうと、先生は絶対に怒らなかった。
この親子に何を言っても無駄だと思ったのだろうか。
不憫な子供だと思われていたかもしれない。

そして、ある日、父は私にカセットやCDを差し出し、「これを売ってきてほしい」と言い出した。
「冗談じゃないっ!」
と、つっぱねると、
「サイン色紙も付けてやる」といい、私へのバックマージンを提示してきた。

商談成立。

「売ってきてあげる!」と私は学校の先生や友だちの親に売りつけた。
田舎ならでは……である。
売れた。売れた。
マッチ売りの少女よりも売れた。
調子に乗ってブロマイドまで売りつけた。
小遣い稼ぎにはちょうどよかった。

その後、加速した父は二枚目、三枚目と次々とリリースし、自宅や近辺でカラオケ用映像の撮影まで行った。(……が数年後、見事に失速する。)

その中の一曲の作曲は、実は私である。
父に「ちょっと、この歌詞に曲つけてみてくれや」と言われ、作った曲だ。
が、発売された時は違う人の名前になっていた。
「おいっ!」である。
母も、「微々たる印税であれ、せめて娘にしておけば……」と本音をもらした。


売れない歌手ではあったが、刑務所の慰問歌手として訪ね歩くようにもなった。父が「網走刑務所へ行ってくる」と言ったときには、「もう帰ってこないでいい」と母は言い切った。


身内の結婚式では必ず父の座○市ショーが行われ、売れない歌のCDメドレーが流される。
メインを食ってしまう勢いで、全力で行われるのだ。
新郎新婦よりも立派な照明とスモーク。
斬られ役はいるわ、町娘のヅラを被ったおじさん(参照:松の実と愛人さんに登場)が「市っつぁ~ん」と赤フンの父の足にすがりつくわで、旅芸人一座のごとく繰り広げられる。
人生最良の日に、眉間にシワを寄せる高砂席の新郎新婦を何度見たことだろう。


今でもたまにカラオケ屋さんで目にする、父が出演するMV。
片棒を担いだ情けない青春の日々が蘇る。
私が売ったのかもしれぬCDやカセットがメルカリに激安で上がっている。

父は、本気で売れる歌手になれる気でいたのだろうか。
ある日、ライブ特集を観ていた私に、
「こいつ、わしより歌うまいか?」と聞いてきたことがある。ヤンキー・スタジアムで歌うビリー・ジョエルをライバル視していたと知った時には、愕然とした。


ことの発端はなんだろうと考えた。

父は若かりし頃、あの石原プロに役者になりたいと熱い想いを綴った手紙と写真とカセットテープを送っていた。

丁寧な返事が来たらしい。

「大変に素晴らしい才能をお持ちだと思います。ぜひ その才能を他で活かして頑張ってください」と。

見事に他で……活かしている。

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