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食べたいものが思いつかないのは不健康だと思うようになった経緯

今日は朝から気温が低め。午後には雨が降りました。天気予報通りです。その正確さに呆れてしまいましたが、更に予報通りに冷え込んできたので、帰宅時には体を縮こませて帰宅しました。

さて、……。

私は妻とほぼ毎週のように1週間分の食料を買い出しに行っている。このことは、ちょっと長い読者ならご存知だと思う。でも、この買い出しを行う前には、当然のことながら1週間分のメニューを考えなければならない。

多分あなたもそうではないかと思うのだけど、1週間分のメニューを考えるのは結構な手間。率直に修行、いや苦行と言っても過言ではない。

自分が食べたいものを思い付くままにあげていけばよいのでは? と考える方もおられるだろう。それを否定はしない。でも、いざ1週間分7パターンを思い付けと言われると、結構厳しいというのが実態。

カレー、シチュー、ハヤシライス……だと似たような調理法のものばかりになってしまう。さりとて回鍋肉、八宝菜、餃子……だと中華料理ばかりになってしまう。

調理法・料理の系統に加え、食材も魚・肉のバランスを取り、更に野菜も忘れないよう留意するとなるとハードルが跳ね上がる。

似たような調理法や系統のものを続けない、更に食材のバランスを取って、一品だと寂しいので副菜も考えるという課題に答えるのは、思い付くままだけでは難しい。チョチョイのチョイとはいかないのである。

取りあえずエイヤーで私が素案を書き、妻が修正・追記しても全部は埋まらないことは多々ある。思案投げ首の私たちの前を通りかかった娘に聞いても、既に出ているものかポテトサラダやしらす干し等の副菜が多くて、なかなか決まり切らない。

やむなく「後は売り場の品を見て決めるか」ということになる。それで「何とかなる場合」と「何とかする場合」があり、それでしのいでいるのが実情。普段売っていない角煮用の豚肉がたまたまあったりすると、助かってしまう。

なお、食べたいものを思いつくことってすごく大事だと思っている。その理由は生きる力に直結するから。

私がそう思う根拠は、(鬼平犯科帳の著者である)池波正太郎さんの銀座日記[全]を読んだことにある。新潮文庫が手元にあるが、この最後の一文を読んで欲しい。

ベッドに入り、いま、いちばん食べたいものを考える。考えてもおもい浮かばない。

出典:池波正太郎の銀座日記[全]

庶民的な食通だった池波正太郎さんのこの本は、そのままグルメ本としても使えた。実際、私はこの本を読んでいくつかの店に行き、確かにうまいと思った。だからこそ、食と映画をこよなく愛したこの人の最後の一文は、ずーっと心に残った。

食べたいものを考えられるうちは健康である。そう思って、毎週の買い出しに出掛けている。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。