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これは記者の完敗だと受け止めました

今日は曇っていても気温は上がり、湿度の高さもあって結構不快な一日となりました。夕方にちょっと買い物に出たら往復の道中で救急車に出会うことに……熱中症でしょうか。

さて、……。

Twitterのタイムライン経由で、以下の記事を読んだ。

読後感を一言で言えば、記事を書いた記者の完敗だろう。

内容は精神科病院で行われている拘束について記者が疑義を唱え、地域で障害者を受け入れるべきと主張しているのに対し、精神科病院協会の会長がきっちり反論しているというもの。

この反論に対する記者の更問いや提案がほぼないこと。それっぽいものはあるがどれも個人の感想・願望・理想の域にとどまっていて、客観性に乏しく実現性もない。

記者の主張する内容自体は確かに間違っていない。あるべき姿を語っている。ただ、その姿は現状とかなり乖離があって、そこに辿りつくには多くのクリアすべき課題があって、さまざまな資源と社会意識の変革が必要なのは間違いない。

そして、この課題に対する解を求める先は、少なくとも精神科病院ではないだろう。今フロントで現状の法律に基づいて対応している人たちが、自らの対応を否定して、あるべき姿に近づける責務まで負っているか? 私はそこまではないものと考えている。

それを考えるべきは、一義的には政府であり、次に現状の変更を要求する側だと考えるのだが、あなたはどうだろうか。

この会長の言葉遣いや態度については問題があるとしても、だからその人の言うこと全てを否定するのは雑だと思う。少なくとも、不必要な拘束であることを根拠を示して立証する、或いはこうすれば拘束が不要になるという技術・技法を示さなければ、単なる批判で終わってしまう。

そうであれば、闇雲に現状を否定することについては謙抑的であるべきだろう。

私は以前、以下の記事を書いた。

犯罪者に知的障害のある割合が一般社会よりも高いこと、福祉に繋がれずに社会に出て行き詰まり、犯罪に手を染める構図について触れたもの。これも今回の精神科医療の問題も、社会の側に受け止める素地がないことに起因していると思っている。

一言で言えば、同根の問題なのである。

戦後の日本は、大量の工業製品を作り出す一方で、人間にも画一性を求めてきた。その画一性からはみ出た者の多くは、自宅から出されないか入院させられるか微罪を繰り返して刑務所に入るかの選択肢しかなかった。これは極論かも知れないが、暴論ではないと考える。

それで経済は大いに発展したが、その影の部分を敢えて見ないようにしてきたのではないか。そして今は日本もそのツケを払うべき時に至っており、どう対処していくかについて、我々も顔を背けてはならない問題だと考えている。

お読み頂き、ありがとうございました。

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