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お寺で落語「孝行糖」 法話原稿

2019年 落語会 法話原稿 「孝行糖」

本日はようこそお参りくださいました。
先ほど師匠に演じていただきましたのは「孝行糖」というお話でございます。
与太郎が主人公の、いわゆる「与太話」です。

与太郎は落語でよく出てくるキャラクターで、能天気で失敗ばかりする「愚か者」のことです。
今回は先ほどお話しがありました通り、以前寺報に寄稿していただいた海老澤さんの障害者自立支援ホームのお話から、正徳寺でも「与太郎話」をしてほしいとのリクエストがあり実現しました。

与太郎は失敗ばかりする愚か者ということですが。
仏法でも、愚か者で有名なお話があります。

お釈迦様の弟子のなかの十六羅漢のひとり「シュリハンドク」の物語です。

お釈迦様のお弟子さんで有名な兄弟がおりました。
お兄さんはとても頭が良くて評判でしたが、弟は物覚えが悪くて有名でした。
たまに自分の名前さえ出てこない始末です。しょうがないので、自分の名前を書いた看板を背負って歩いていたそうです。
当時のお坊さんは、雨の季節にお釈迦さまのお話を覚えて、それ以外は全国を歩いてまわってお釈迦さまの教えを色々な人に伝えて人助けをしておりました。
しかし、弟のシュリハンドクは何年経っても、どうしてもお釈迦さまのお話をひとつも覚えられません。
兄のマハーハンドクはだいぶ気に病んで、弟のためにもお坊さんをやめて実家に帰ってはどうかと提案しました。
弟のシュリハンドクは、お坊さんとしてもまったく役に立たない自分に絶望して、尊敬する兄の言葉に従って、もうお坊さんを辞めようと思いますとお釈迦さまに告げに行きました。

するとお釈迦さまは、「自分の愚かさを知るものは、愚か者ではない。真の知恵者である。」と実家に帰ることを留めました。

そこでお釈迦さまはシュリハンドクにお前の得意なことは何かと尋ねると、彼は「掃除が好きです」と答えました。
ならば、いま皆が修行をしているこのお寺を掃除しなさい。
けれどただ掃除するのではなくて、「垢を払わん、塵を払わん」と唱えながら掃除をしなさいと告げました。
自分にもできることがあることを喜んだシュリハンドクは、一生懸命掃除をしました。
掃除をしながら、あれなんて言うんだっけ?とわからなくなるとお釈迦さまのもとに行って、なんていうんでしたっけ?
垢を払わん、チリを払わん
あぁ、ありがとうございます。
垢を払わん、チリを払わん、と
垢ってのは、名前は赤いのに、色は黒いのはなんでだろうねぇ。
赤は黒い、赤は黒い
あれ、なんだっけ?
お釈迦さまーっ

という具合で、一生懸命修行していました。
端から端まで掃除が終わると、お釈迦さまに「掃除が終わりました」と告げに行きますが。
最初に始めたところが、もう汚れているぞ。と言われると
そうだそうだ。
垢を払わん、チリを払わん
と掃除を続けます。

何度も何度も掃除を終えても、終わってない、終わっていないと言われてだんだん腹が立ってきました。
イライラしながら掃除をしていると、近所の子供たちが掃除が終わったところで遊んでいます。せっかく綺麗にしたのが、だいなしになってしまいました。
「コラー!」と大きな声を出して怒ったら、自分の大きな声に驚いてしまいました。

自分は、何をやっているんだろう。
お釈迦さまから自分でもできる修行を教えてもらって、とても喜んでいたのに。
いつまでも終わらないし、思わぬことでだいなしになるし。
そういえばむかし、お釈迦さまが確かこうおっしゃってたなぁ。
「怒ることはとても心を汚す」と。
こうしてシュリハンドクは、本当に汚れているところがどこかということに気がついたのです。

掃除は一度したら終わりではありません。
使えば汚れることがわかっているので、掃除をするのです。
また、思いもよらない突飛な出来事で汚れることもあります。
私たちの心の垢やチリも、生きていれば疲れたり、嫌になったり、うらやましくなったりとどんどん汚れていきます。
一度きれいにしたら終わりというものではありません。
また、とつぜん嫌なことを言われたり、人に邪険にされたりと突飛なことで怒りや恨みが湧いてくることがあります。
常に、垢をはらい、チリを払い続けることが大事だと気がついたシュリハンドクは、その後も喜んで掃除を続け、ついには悟りをひらき、お釈迦さまの代表的なお弟子の一人として十六羅漢に数え上げられるようになりました。

彼は、他の多くの仏弟子からとても好かれていました。
彼は、人と同じことをするのは難しかったかもしれません。
しかし、できない悲しさを知っていました。
また、できないからと言って馬鹿にするのではなく、一緒に悩んだり手伝ったりすることができました。

孝行糖の与太郎も愚か者ですが、親を大事にし仕事は丁寧でした。
そのことで、周りの人から好かれて奉行所からの褒美につながったのだと思います。

私たちは、常々できることやその能力があること、価値があることを求めています。
社会に出て、より成功しようとするならばそれは正しいことでしょう。

しかし、振り返ってみて家庭や友人の間ではどうでしょうか。
お金を稼いでくるから家庭に居場所があるのでしょうか。
役に立つから友達になるのでしょうか。
もしかしたらそういう人間関係もあるかもしれませんが、とても悲しい関係ですよね。

大事なお父さんは、例え病気になったり、年老いて引退してお金を稼いでこなくなっても、大事なお父さんではないでしょうか。
また、例え遅刻ばっかりして迷惑かけられても、一緒にいて楽しいのが友達なのではないでしょうか。

愚か者や障害者とは、現在私たちが作っている社会に合わせるのが難しい人のことをそう呼んでいます。
しかし、その社会を作っているのは私たちなのです。
できるできない、能力があるないといった価値観を押し付けているのは、私たちなのです。
もちろん、私たち自身もその価値観にがんじがらめになっています。

しかし、できないから価値のない人間なのでしょうか。
私たちが要求することができないだけで、人としての尊さは何も変わることがありません。
私たちもいずれ年をとり、病気になり、怪我をしてできないことが増えていきます。
できない者を排除する世の中ではなく、お互い助けあえる。
そんな世の中の方が、暮らしやすいのではないでしょうか。

最後に、ひとつ与太話を。
みんなに好かれたシュリハンドクは、亡くなる時もたいそう皆に悼まれたようです。
すると、彼のお墓の周りから、生前の彼そっくりな植物が生えてきました。
食べるととても美味しいのですが、シュリハンドクそっくりなので食べると物覚えが悪くなると冗談を言われるようになりました。
その植物の名前は、ミョウガです。彼が名前を書いた看板を背負った形にそっくりな植物です。名を担うと書いてミョウガ。今度食べたときには、今日のお話を思い出していただければ幸いです。ありがとうございました。

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