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桂竹丸「ホタル帰る」【落語書き起こし】

 心に深く響くものがありまして、NHKで放送された桂竹丸お師匠さまの「ホタル帰る」を書き起こしてみました。約27分30秒の落語で、文字数はざっくり9800字ほどになりました。
 桂竹丸お師匠さまの「ホタル帰る」は、赤羽礼子、石井宏『ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子』(草思社、2001年)をもとに創作された落語です。



 ただ今は、莫大な拍手をいただきまして、ありがとうございます。もうこんなうれしいことは、生まれて8度目でございます。桂竹丸と申しまして。
 以前、立川談志師匠が自分の独演会にお客様が少なかったとき、「今日来なかった客が後悔するような落語をやってやる!」と言って、見事な高座だったらしいですね。座右の銘となりました。私の落語会、お客様が少なかったときに、「今日、来なかったお客様が後悔するような落語をやってやる!」と高座に上がったら、今日来た客が後悔して帰りましたね。今日はそんなことがないよう、お願いしたいなと思う次第でございます。

 えー、私、出身が九州は南、鹿児島というとこなんでございますが、鹿児島と申しますとね、いまだにヒーローが西郷隆盛でございます。西郷さんですね。上野に参りますと西郷さんの銅像がございまして、あの、あれは薩摩絣ですね。犬はツンちゃんという名前なんですけれども。

 明治31[1898]年、高村光雲、光太郎のおとっつぁんがおつくりになったんでございますが、除幕式がございましたときに、ゆかりの皆さんがみんな集まってくる。もちろん、鹿児島からはですね、未亡人の西郷イトさん、そして、西郷従道さんも列席していらっしゃいました。幕が落とされたときに、「ああ、よく似ているね。うり二つだね」と言ったんでございますが、未亡人のイトさんだけは、
「うんにゃ、うんにゃ。うちん人は、こげな人じゃなか」
「ないごちな、ねえさん。兄さんにそっくりじゃが」
「ないごち、うちん人は、こげな耳は立っちょらんし、足も4本じゃなか。尻尾もなか」
「ねえさん、それは犬じゃ。犬ん隣よ」
「犬ん隣ね。うんにゃ。うちん人は、こげな人じゃなか。こげな顔じゃなか」
「ないごちな、ねえさん。兄さんにそっくりじゃが」
「ないごち、うちん人は、こげな青い顔じゃなか」

 当たり前ですね。銅像ですからね。

 で、西郷さんのあの慈悲深いまなざしは、一体どこを見ているんだろうかということが学会で論議されたことがあったんですよね。やはり尊敬してやまない皇居にいらっしゃる明治天皇、いや、そうじゃなくて、ふるさと、鹿児島の桜島を見ていると、2つに分かれました。正解は、「空を見ている」が正解でございました。
 西郷さんの銅像は日本各地にございましてね、実は、鹿児島市にも鶴丸城の並びでございましょうか、そこに銅像がございます。軍服を着た西郷さんがいらっしゃるんでございます。戦争中だったんですけどね、軍のほうで銅が足りなくなったために、差し出せというお達しがございましたときに、のちに鹿児島市長になられます勝目さんという方がですね、「西郷さんは、かごんまん心です」。「貴様、軍に逆らう気か?」。「やれるもんならやってみなさい」と言って、命を懸けて守ったんですって。昔の方は立派だよねえ。私だったら、一言、「どうぞう」って言いますね。ええ。

 鎌倉時代から薩摩の地は、島津家が統治していらっしゃいました。今、島津家の当主が正裕さんという方でね、お会いしたんですよ、直接。品がありますよね。本人から聞いたんですけども、すごいですね、ルーツが。父方のルーツはね、源頼朝だそうですよ。母方は西郷さんのひ孫なんですって。ということは、皆さん、ねっ、すごいですね。頼朝と西郷さんの血を受け継いでいらっしゃるんですよ。私はお願いしたんですよ。「輸血してください」って。「それはできない」って言われましたけどね。

 まあ、大体、鹿児島とか宮崎とか熊本と申しますとね、われわれ、まあ、なんと言うんですかね、九州人という、まあ、ひとつの連帯意識があるんですよ。東北もそうですよね? 宮城、福島、山形に参りますと、東北人という誇りがありますよね。東北人。じゃあ、どこでもあるかって、そうでもないですね。広島、岡山の方を中国人とは言わないですからね。

 鹿児島の地形はね、そうですね、ちょっとかわいい形と言えばよろしいんでしょうかね、男の子の赤ちゃんの下半身にそっくりなんでございます。薩摩半島ってあるんです。これ右脚なんですね。大隅半島って、あれ、左脚でございます。で、桜島がポコチンにあたります。だから周りを錦江湾(キンコウワン)と申します。
 この大隅半島の真ん中に鹿屋市というところがございまして、そこで私は生まれたんでございますが。ここは、現在は、航空自衛隊がございますんですが、以前は特攻の基地でございました。

 ちょうどその基地の前に中学校がございまして、学校の先生がですね、「以前、ここはね、特攻隊という兵隊さんたちがね、飛んでいったのよ。みんなね、『天皇陛下万歳』と言って飛んでいったのよ」と言われたときに、私は、なんかね、胸にモヤモヤするものがあったんで、おふくろに聞いたんですね。「だったの?」って。「うん、確かにね、そういう人もいたけどね、ほとんどの方はね、お母さんの名前を言って飛んでいったよ」と言われときに、ああ、なんか、こう、すっきりしたような気持ちがあったのを覚えているんですけれども。

 で、祖父母のとこに参りますとね、庭にこんな大きな穴が開いておりました。
「じいちゃん、あれ、なに?」
「ああ、防空壕よ」
「防空壕って?」
「逃げ込むのよ」
「なんで逃げ込むの?」
「戦争だからよ。戦争って、アメリカの飛行機が撃ってくるから」
「なんで撃ってくんの?」
「まあ、大きくなったら分かるがよ」
 なんて。ま、子どものときから、なにか、その、戦争の薫りというものが、知っている少年時代だったんですが。

 この鹿屋基地には、ある有名な方、名優でございます、西村晃(ニシムラコウ)さんがいらっしゃったんですね。西村晃さんは、この特攻の兵隊さんとして3度飛んで、3度帰ってきたそうです。当時は粗末な飛行機でもあったんでしょうね。1度でも帰ってくると肩身が狭いんですから、それを3度帰ってきたんですから、まあ、どれだけ心労があったかと思いますけれども。鹿屋というところは、これは、海軍でございます。

 そして、この錦江湾を挟んで、薩摩半島には知覧(チラン)というところがあるんですけれどね、いい町なんですよ。以前、知覧城ってございましてね、その麓だからでございましょう、武家屋敷が実に整備されておりましてね。知覧茶というおいしいお茶もございます。また、春になりますと、桜吹雪がきれいに舞うという薩摩の小京都といわれるとこで、ぜひ一度お越しいただきたいと思いますが。また、旧陸軍の飛行場の跡地がある。
 で、現在ですと、特攻平和会館というものが建てられておりまして、ここにはですね、若くして南方に散った1036人の遺影というもの、そのそばにはですね、書きつづりました遺書というものが展示されております。隣にはですね、観音様を祀りました、特攻平和観音堂というものが建立されておりまして。まあ、例年ですと、大型バスでまた修学旅行の学生さんが足を運んでくださるという、年間100万人近い方がお越しになると聞いておりますけれども。鹿児島に来られた方は、一度は足を運んでみたいというスポットでございます。出来ましたのが、昭和62[1987]年でございます。


 ある日の夕暮れ時でございました。観音様のそばにたたずむ一人のおばあさんがおりました。そのおばあさんこそ、「特攻の母」といわれました鳥濱トメさんでございまして。
 トメさんが手を合わせて拝んでおりますと、どこからとなく小さく光るものがすうっと飛んでまいりまして、観音様の肩にとまります。うーん、季節にしてはまだホタルは早いんだけれども。しかし、トメさんは不思議がることなく、深々とおじぎをいたします。

 遡ること45年前、昭和16[1941]年12月8日。日本は、アメリカ、イギリス、オランダ、中国に宣戦布告をいたします。真珠湾攻撃の奇襲、大成功によりまして、連戦、連戦、連勝、連勝となります。あっという間に東南アジアをほぼ占領いたします。当時は、実は、日本は経済封鎖を受けておりましてね、まあ、生活物資の困窮というものが国民にはあったんですが、この勝利は非常に沸いたんでございますけれども。

「トメさん。トメさん、どこいや? トメさん、トメさん、どこいや? トメさん」
「あら、町長さん、久しかぶいですね。元気やったですが。おやっとさあです」
「今日はね、用があってきたんだけどね。トメさん、まあ、私、あなたのこの富屋食堂、足を運ぶとね、何か気持ちが落ち着きますが。よう、まあ、トメさん、あなたがね、この知覧に来て食堂を始めると言うたときね、まあ、こげな繁盛するとは思わんかった。そいもこいも、おまんさあが美人で、気さくで、きっぷがよか。その3つがなせる業だが」
「まあ、町長さん。そげな世辞を言うために来られたわけじゃないんでしょ?」
「本題に入らんといかんね。トメさん、あのぅ、上の方に飛行場が造られてね、今、学校が造られているわけよ。そこにね、これから全国の、うん、少年訓練兵の皆さんがね、この知覧にやって来るわけよ」
「町長さん、そげな話、私とどげな関係が?」
「まあ、最後まで聞かんね。まあね、その軍の方から、どこか落ち着けるところはないかちゅって相談を受けましてね。じゃらいね、トメさんげ、富屋食堂がよかちゅうて私が推薦しましたがよ」
「そげなこと急に言われましても、私は食堂の女主人、なんにもできませんがよ」
「いやいや、トメさんなら、普通どおりやってもらったらそれでよかが。大丈夫だから。決まったことですから。まあ頼むでな、頼むで」
「ああ、あらあら、行ってしまわれた。どげんな人たちが来るんだろうか」

 昭和17[1942]年3月になりますと、少年訓練兵の1期生80名がやってまいります。まあ、皆さん、学校と申しましてもね、今のような楽しいものではなくてですね、それは過酷な訓練が待ち受けているという、もうとにかく重い病気にでもならない限りは、しゃばに出られないというようなところへですね、親元を離れた15~16の少年たちが志願してやって来るわけですね。楽しみと申しますとね、食べること、寝ること、たまの休日の外出でございました。知覧という町は、それほど大きな町ではございません。まして遊ぶところもそう多くございませんので、この富屋食堂の存在が知れ渡るのに、そう時間は要しませんでした。

「いいとこ見っけた」
「どこ?」
「そこのおばさんね、なんでもおいしいもの食べさせてくれんだ」
「いいなあ。俺も行ってみてえ」
「じゃあ、一緒に行こうじゃないか」

 休みともなりますと、この富屋食堂にわんさか押しかける。

「なんだね、この子たちは。えぇ? まだ子どもじゃないかね。親元を離れてね、ふびんだがねぇ」
「おばさん、腹減った!」
「俺も!」「俺も!」「俺も!」「俺も!」「俺も!」「俺も!」「俺も!」「俺も!」「俺も!」「俺も!」
「よかよ。おばさんがね、おいしいものこさえてあげるから。順番に並ばんね。あんた、何食べたいの?」
「きつねうどん」
「うん。あんたは何が食べたい?」
「たぬきうどん」
「よかよ。で、あんたは?」
「鍋焼きうどん」
「みんな、うどんだがね。よかよ。おばさん、こさえたるから、ちいと待っちょってね。で、あんたは何が食べたいの?」
「・・・」
「あんたは何が食べたいの?」
「・・・」
「はっきりせんね、この子は。ん~、じゃ、よか。おばさんが、こげな大きなあんころ餅をこさえてあげるがよ」
「おばさん、どうして僕があんころ餅好きだって分かったの?」
「おばさんはね、あんたんたちの顔見れば、お見通し」
「すげえな! 田舎の母ちゃんみてえだ!」

 まあ、トメさんというのはですね、人が弱っておりますとき、困っているときに、何かしてあげたいという性分でございましたんですけれども、まあ、娘はね、お嬢さんは2人いたんでございますけれども、男の子はいなかった。ですから、こう、接していくうちに情が湧きましてね、「我が子のように思えて仕方がなかった」なんてことを、戦後、おっしゃってましたけども。

 一方、戦況はと申しますと、アメリカが反撃を開始いたします。各地におきまして、連敗、撤退、連敗、撤退。2年たったときには、もう壊滅的状態に陥っておりました。まあ、皆さんね、日本っていう国は、いい国ですよ。ええ。しかし、そのぅ、大きな国ではない。例えばですね、戦争が始まって日本が造った飛行機の数は、6万5000機だったそうですね。一方、アメリカは30万機。まあ、艦隊もそれに比例したでしょうから、物量が違うんですよね。
 そのとき、上層部が出した結論が特攻隊でございました。

「トメさん! トメさん、どこいや? トメさん、トメさん! どこね? トメさん、トメさん!」
「はいはいはい、奥ですよ。ああ、町長さん、久しかぶいですが。おやっとさあです」
「トメさん、ん? 白髪が増えたね」
「そういう町長さんも髪の毛がなくなって、おあいこじゃないね。年を取ったもんじゃ」
「トメさん、富屋食堂はたいそう繁盛しているそうじゃないか」
「いや、繁盛はしちょらんですがね、賑やかですがよ。休みともなりますと、2階の座敷で、まあ夜遅くまで遊んでいらっしゃいますがね。まー、訓練は厳しいだろうにねえ、愚痴ひとつこぼすことなくですよ。ええ。『あ、おばさん、こげな話聞いて』、『おばさん、あれが食べたい』。ですから、私はね、せめておいしいものだけでも作ってあげたいと、そう思ってやっているところなんですよ」
「軍のほうでも評判だよ。富屋食堂に行けば、おいしいものが食べさせてもらえるちゅうて。でも、トメさん、軍のほうから配給があるけども、それだけじゃあ足らんでしょ?」
「ですよぅ。まあ、軍のほうからね、米やうどん粉の配給はあるんですが、ええ、足りませんでね」
「うーん、どうやって工面してるわけね?」
「ええ。奥のほうで工面してますが」
「奥のほうで? トメさん、前に比べたら広くなったような気がするがね」
「広くなったりせんですが。以前、ここにですよ、たんすが3つほどありました。そん中に、まあ、若いとき、こさえた着物があったんですがね、そのうち、その着物が食べ物に変わり、タンスが食料に代わりですが」
「・・・トメさん、すまんかったね。町長が頼んだばかりにねぇ。あんたに苦労をかけたが。知らんかったがよぅ」
「いやいや、そげなこと言わんでください。私はですよ、好きでやってることですから。子どもたちが喜ぶ顔を見れば、それだけで十分ですがよ。ええ。で、ましてやこんな時代ですから、着物を着てさることもなかですから、かえってスッキリしてよかですよ。好きでやってることですから。町長さん、そげなこと言わんでください。ええ。何か用件があって今日は来られたんでしょ?」
「うん・・・。トメさん、特攻隊って知っちょういや?」
「は?」
「特攻隊って知っちょういや?」
「はい。新聞か何かで見ましたが。なんか、その、飛行機がアメリカの艦隊に体当たりするっちゅうて、あれですか?」
「うん。いや、実はねぇ、今、あの飛行場の横に兵舎が造られていてね、これから全国の、まあ、特攻隊の兵隊さんたちがこの知覧にやって来る。まあ、トメさんには今までね、少年訓練兵の面倒を見てもらったんだけどね、これからはね、その特攻隊の兵隊さんたちを見てもら・・・」
「とっ・・・」
「いやいやいや、もう決まったことで、軍の機密事項だから黙ってて。んー、またあんたにはね、迷惑を掛けるやね。まあ、そげなことなんで、頼むが」
「はあ・・・。特攻隊? 特攻隊・・・」
 まだそのとき、トメは特攻隊の重みを知る由もございませんでした。

 昭和20[1945]年3月28日、知覧の町は桜がきれいに舞っておりました。
 富屋食堂に飛行服姿の青年将校が一人、やってまいります。3年前まで知覧に駐屯しておりました、小林少尉、その人でございまして。もうそのころのあどけなさは全く残っておりません。

「おばさん! おばさんいますか? おばさん! おばさんいますか?」
「はいはい。えぇ・・・、だいけ?」
「おばさん、小林です」
「あら! 小林さんね。まあ立派になられて。おばさん、分からんかった。まあ、小林さん! まあ、田舎のお父さんお母さん方も喜んでいらっしゃるでしょうね。大人になられてねぇ。今日はいけんしゃったとな?」
「明日、ここを去るもんですから。おばさんに一言、礼が言いたくて、やってまいりました」
「まあ、あなたはね、昔から堅い人でした。義理堅い人でした。ああ、あなたですよ。あんころ餅は好きでしたがね。私は、今、あんころ餅こさえるから、いっぺこっぺせんね、あんた。ああ、懐かしかね。まあゆっくり」
「・・・、あんころ餅は好物なんですが、喉を通らんです」
「・・・、戦争に行きなさるのね。どちら方面に?」
「それは・・・、聞かんでください」
「聞かん・・・、特攻・・・、特攻隊・・・」

 今まで我が子のようにかわいがっておりました小林少尉が、明日、死んでいくと。

「はあ・・・、ああ・・・、ん・・・」
 トメは、ぐっと涙をこらえます。

「おばさん。おばさんは、本当に俺たちによくしてくれました。まるで我が子のようにかわいがってくれました。そのよき思い出を持って旅立てるわれわれは、幸せであります。おばさん、ありがとう。おばさん、俺たちの分まで、長生きしてくださいね。長生きしてくださいね・・・。おばさん、ありがとうございました。行ってまいります!」

「ああ、ないごてあげなよか子が、けしまなならんとね。ないごて・・・。はぁ・・・。何かしてやれんかね。何かして・・・。(ポンと膝を叩く)。じゃあ、親御さんに手紙を書こう。いつ我が子が、けしんだか知たんとあまりにもむごい。あまりにも悲しい。手紙を書こう・・・」

 そのときの手紙が現在も残っておりまして、トメは大変に、まあ動揺もしていたんでしょう。文字と文章、乱れておりますけれども、その書き写したものがございますので、読ませていただきます。

「小林少尉殿のお父様。急の便りにびっくりなさいますことと思いつつ、一筆お知らせしてあげたかったのです。小林殿は以前、世話をしてあげた私を母のように優しくしてくださいました。昨日、突然やってまいりまして、『おばさん、小林です。久しぶりにお目にかかれて、うれしいことはありません』と言葉かけられました。『今度はどちらへ?』とお尋ねすると、『聞かないでくれ』とのこと。何を差し上げても一口も召し上がりません。勧めても、『おばさん、欲しい物、食べたい物、少しも心から起こらないよ』と申されるので、はっと思いました。特攻隊の隊長として行かれます。今日は3月29日、少し風が吹いております。今日の夕方にはたたれます。あの勇ましい姿をお父様に一目見せてあげたかったです。私から一筆お便りを差し上げますと申したら、『急に驚かせたくない。長く日がたってから知らせてくれ』とのことでした。そのようにしないのはすまないことと思いますが、父上様には早くお知らせしておきます。毎日、毎日、新聞を見ていてください。何よりお元気で、長く長く生きて、日本の勝つ日をお待ちください。それこそ、小林少尉の魂こそ残っておられるのです。私もそのつもりで元気でおります。読みにくいペン字、許してください。ただ急いでお知らせまで。小林少尉のお父様へ。トメより」

 トメは連日、家族に手紙を書きます。戦争はというと、もう壊滅的な状態に陥っておりました。2か月の間に、何百という尊い命が南方に消えていきました。トメの胸は張り裂けんばかりでございましたが、ぐっとこらえます。

 昭和20[1945]年6月5日、富屋食堂は兵隊たちで大変に賑わっておりました。明日、出撃を控えた宮川軍曹のはなむけにと、せっせとトメは手料理をこさえておりました。すると、空襲警報が鳴ります。

 ウー! ウー!

 トメと兵士たちは、防空壕に逃げ込みます。敵の爆撃機が通り過ぎるのをじっと耐えるという、鹿屋のじいちゃんばあちゃんに聞いたことがございましたが、「いけんやったって。おとろしかったがよ。生きた心地がせんかったがよ」なんて言っておりましたですが。

 敵の爆撃機が通り過ぎるのを確認いたしますと、トメと兵士たちは表に出てまいります。その日は、星一つない真っ暗。まして、灯火管制がひかれておりますから、真っ暗。小川のせせらぎの音を頼りにトメと兵士たちが歩いておりますと、どこからとなく小さく光るものが、すうっと前を横切ります。一人の兵士が、

「ホタルだ。あっ、ホタルだ」。

 場が和みます。

 辺りを見ると、川の辺りで無数のゲンジボタルが静かに飛び回っておりました。すると、宮川軍曹が、
「おばさん、俺ね、なんの心残りもないんだけどさぁ、ハハハ! ああ、明日死んだらさぁ、おばさんのところに帰ってきたいなぁ」
 と言うと、川の辺りで飛んでおりましたゲンジボタルが、すっと宮川軍曹の前にとまります。
「おばさん、俺、明日、ホタルになって帰ってくるからさ。富屋食堂に来たホタル、それ、俺だからね。追っ払ったりなんかしないでよね」
「追っ払ったりなんかするもんか」
「おばさん、待っちょっでね。必ず帰っきっでね。待っちょっでね」

 翌日も富屋食堂は、大変に兵士たちは賑わっておりました。死んだ兵士がホタルになって帰ってくるなんてことは信用はしておりませんでしたけれども、そのとき、言葉を失った自分たちにかけてくれた宮川軍曹の優しさだと思うと、余計に悲しみが込み上げてまいりました。
 すると、富屋食堂に一匹のホタルがすうっと入ってまいります。柱のはりのところにとまりまして、ほのかな明かりをともします。

「あっ、みや、みや、みや・・・宮川軍曹が、ホタルになって帰ってきたんだ! みや、宮川軍曹がホタルになって帰ってきたんだ!」。

 何事かとトメは兵士たちを見ますと、全員、決して人前で涙を見せることのない兵士たちが立ち上がりまして、敬礼をしておりました。

 それから5日、続きます。最後となりましたのが、6月11日。特攻の最後でございました。まもなくいたしまして8月に、広島、長崎に原爆が投下されまして、8月15日、終戦を迎えます。玉音放送で天皇陛下の声が雑音で聞こえづらかったんでございますけれども、日本が戦争に負けた、終わったということだけは分かりました。

「終わったの? 負けたの? ・・・ああ、しっかりせないかん。・・・じゃあ、あの子たちは、死ぬことなかったじゃないですか。こんなふうに終わる戦争だったら、あん子たちは、死ぬことなかったじゃないですかぁ・・・。あの子たち・・・、誰か教えてください・・・」

 昭和62[1987]年2月、特攻平和会館がオープンいたします。トメは足腰がだいぶ弱っておりましたので、車椅子の列席でございました。その顔は、幾分穏やかであったと申します。

「長かったですがよ・・・。やっとここまで来ました・・・。おばさん、皆さんのおかげで、長生きさせてもらいました。もう少ししたら、そっちへ行きますがよ。もうちっとばっかい待っちょってください。
 小林さん、小林さん、あんとき、たもれんかったあんころ餅、おばさん、こさえるからね。今度はたもってね。よか? 
 宮川さん、あんた、うちの次女の礼子にですよ、別れ際に、あんなに高価な万年筆をくださいましたね。礼子は今もね、形見として大事に取っておりますがよ。宮川さん、うちの礼子は、宮川さんが好きでしたがよ。宮川さんがね、生きててくれたらね、宮川さんが生きててさえくれたらね・・・。
 私はね、皆さんに謝らないかん。『皆さんのお母さんになりたい』って言うたでしょ? 言うたでしょ?・・・なれんかったねぇ。本当のお母さんだったら、飛ばせはせん。行かせはせんかったと思う。おばさん、許してねぇ・・・。これからどんな時代になろうともですよ、皆さんのことは、決して忘れませんがよ。決して、・・・、決して忘れませんがよ・・・」

 トメの見たホタルというのは、兵士の仮の姿だったのか、それとも幻だったのか。トメの祈りが終わりますと、ひときわ、ほのかな明かりをともしまして、暗闇にすうっと飛んでまいりました。

 ある人はこう言います。戦争というのは、年寄りが決めて大人が命令をして若者が飛んでいくという。

 今から75年前なんですが、夢を見ることすらできなかった青年たちがいたことを、われわれは忘れてはならないと思う。いや、忘れてはならない。

 鳥濱トメ物語「ホタルの母」でした。


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