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入社10年目にして仕事がこなくなった

電通にアートディレクター/デザイナーの社員として所属していた頃に、本当に行き詰まってしまったことがあります。この記事では、そのときに自分がやったことと、自分のB面(本職とは別軸として本当に好きなこと)に出会うことで救われた話をわりとダラダラと日記的に書いています。

仕事がこない

入社して10年ほどしたときだった。気づいたら仕事がなくなってしまったことがあった。

もちろん何も仕事をしていなかったわけではない。長期の仕事やレギュラーの案件などで日程は通常運転な感じで埋まっていた。でも、新しい案件や、これぞ!という案件は来ないまま、気づけば半年くらいが経っていた。

当時、所属していた電通社内の企画制作の部署はユニークで、社内や社外からの指名で仕事がくる仕組みだった。つまり会社員ではあるが、社内では個人商店のようなものだ。創造的で有能なメンバーには仕事が集まってくる反面、ジッと待っていても自分の能力を存分に活躍できる仕事が降って来ることは、ほぼない。なので日々自己研鑽をし、仕事で誰かの役に立ち「自分はここにいます!」ということを示さねばならない。自由だけれども厳しい環境の職場だった。

最先端と言える結果を出さねばならない部署にいたのに、大した成果も残せておらず、企画の仕事も多かったために、イメージをつくる仕事であるアートディレクターとしてのアイデンティティも失いかけていた。

…まわりの人は自分とはやりにくいと思っているのだろうか。いや、確かにやりにくいと思われるような心当たりはある。若気の至りで、正しいと思ったことをそのまま率直に伝えすぎて、クライアントとケンカしたりしていた。というか、たまにチームメイトともケンカしていた。もちろん、ケンカはよくない。

このままではまずいと思い、焦った。

社内で営業を始めようと思った。それで、一番最初に選んだのが倉成さんという先輩だった。

倉成さんは電通総研Bチームというリサーチのチームを運営していた人だが、恥ずかしいことに自分はBチームの存在を知らなかった。倉成さんが同じ会社の先輩で「21世紀のぶらぶら社員」というスタンスで仕事をしている人、というくらいしか情報を持っていなかったし、実は入社してからほとんど、これといったやりとりをしていなかった。Bチームを知ったのも事後だった。

そんな状況でよくも突然訪問をしようと思ったものである。

社内営業

自分はデザイナーなので、携わった仕事10年分をA3見開きサイズの作品集にまとめ、Facebookメッセンジャーで「会いたいです」とメッセージした。幸い、倉成さんは快くOKしてくれた。

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そのときに準備した作品集の一部のページ

当日のことはあまり憶えてないが、はっきり憶えているのは自分が友人と進めていた路上の文字探し活動、のらもじ発見プロジェクトを「これは、おもしろいね〜」と言ってくれたことだけだった。それで、その日はそれで終わり、その後しばらく連絡をとることもなかった。もちろん、自分も仕事をすぐにもらえるなど思っていなかった。

町工場と飛び込み交渉

ある日、倉成さんから連絡がきた。

「大学時代からの友人と中小製造業の仕事を盛り上げるための、なにか活動をしたいと考えているので、そのメンバーになってくれ」という話だった。

その友人は由紀精密という製造業の社長さんだったが、どうやらクライアントさんというわけではないようだった。

そこから自分の1年ほどの町工場リサーチが始まった。はじめは予算がついていなかったので、他の業務の合間に、町工場が多数出展する商談イベントに潜り込み、工場の社長さんに話を聞いたり、紹介してもらった工場に見学しにいったり、とにかく体当たりで現場のリサーチを進めていた。電通は、泥臭い調査や作業を全部外注しているように思われることが多いが、実際は自らの意志で手や足をフル稼働して進めている人も多い。

そして、東京都大田区の町工場の商談イベントで、ある動画と出会ったことで、町工場を音楽レーベル化するINDUSTRIAL JPという活動が始まった。(ある動画というのは、ばねをつくる工場の動画でこのミュージックビデオにも使っている

その後、ひとりで20社以上町工場を訪問して協力してくれる工場を探したので公開までさらに1年以上かかった。

でも、当時あまりにもんもんと悩んでいた自分が、この企画を進めることでどんなにか救われたかと思うと計り知れない。とにかくこの音楽レーベルの準備をすることは、当時の自分のアイデンティティの全てだった。

自分のB面

町工場の企画が始まった当初、自分が「電通Bチーム」のメンバーだとは思っていなかった。というか、メンバーなのかどうかをあまり気にもしていなかった。

しかし、自分が心血注いで進めていたINDUSTRIAL JPは、同じく電通Bチームで、クラブカルチャーシーンのリサーチ担当である木村さん( B面は、DJ Moodman 名義で音楽シーンで活躍している)がいなければ、かたちにもならず、B面を持つメンバーが集まったからこそできる活動だったと思う。「INDUSTRIAL JP」という名前をくれたのも木村さんだった。

Bチームとは…
A面( = 本業 )以外に、個人的なB面( = 私的活動、すごい趣味、すごい前職、など )を持ったメンバーが在籍する特殊リサーチチーム。月に最低1度はリサーチ発表会があり、それぞれがB面を生かして集めてきた最新事例を2つほど発表し合う。

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Bチームの担当ジャンルリスト

ちなみに、自分の担当は「メディアアート」なのだが、これは文化庁メディア芸術祭というコンテストで、何度か入賞しているからという単純な理由だ。そして、INDUSTRIAL JPも自分のB面のひとつになった。

電通の社内には、おもしろい人たちが本当にたくさんいる。それを凝縮したような場所が「電通Bチーム」だった。(自分は町工場の流れで所属できたけど、自分ははじめからBチームに所属できるほどおもしろい人だという自覚はない)

それまで自分の経験していた電通の魅力を凝集したような場所で、いろいろな才能がまざって、発酵するぬか床のような、培養槽のようなところだ。倉成さんの発明した「Bチーム」という形態はすごいと思う。

ラブコール

あのとき、社内営業をしていなかったら…自分の人生は幾分か違ったものになっていたのは明白であった。他の企業にそのような場所、集まりがあるのかどうかわからないけど、「社内で営業をしてみる」ということは思いのほか有効なのかもしれない。(いや、もはやみんな当たり前のようにやっているのかもしれないが…)

実際、入社1〜3年目くらいの時期も、憧れの先輩デザイナーに「一緒に仕事をさせてください…!」などという直談判をしたことはあった。そして「う〜ん、ムリかな」とか「や、うーん…厳しい」などと断られていた。

けれど、それなりに歳をとった今になって思い返すと、そのように後輩から言われてイヤな気持ちになる先輩はいないんじゃないかとも思う。(もちろん営業メールがバンバンくるみたいなのは迷惑だと思うが…)

仕事の状況や立場でそれが叶わないことはほとんどだと思うけど、社内営業というラブコールは、5年とか10年とか経っても受け手にとっていい意味で記憶の片隅には残っていて、いつかめぐりあわせたときに必ずいい効果を生むんじゃないかと思う。もしかしたら、ふと思い出して飲みの席にでも呼んでくれるかもしれない。

幸運にも、いま社内に、憧れていたり、尊敬できる先輩がいる人は、ぜひ社内営業という名のラブコールをおすすめしたいなと思う。

いまの自分

いま、自分は電通を退社して、大学に所属しながら個人でデザインの仕事をさせてもらっているけれど、相変わらず自分がうまくハマる仕事に出会いたいことは変わらない。

最近の仕事の一部

そういうとき、やっぱり「B面」というフラグはすごく大事かなと思う。

自分のB面の見つけ方、B面のある人とのよい出会い方を、これまでBチーム在籍した70人のメンバーそれぞれが教えてくれる本と、電通Bチームから生まれたプロジェクトを最後に紹介して、このダラダラとした長文を終わります。ここまで、お付き合い頂きありがとうございました。

Bチームの本

Bチームから生まれたプロジェクト





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