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心を覗かれた気がする

本が好きだ。

読書はもちろん好きだけど、本を買うことも、部屋に飾ることも、手に持つことも好き。本屋さんや図書館みたいな、本のある空間にいることが好き。大人になったら、大きな本棚で部屋の壁を覆って、たくさんの本たちに囲まれて暮らしたいなと思っている。物質として好きなのだ。

愛読書がある。人に言わせると、わたしの愛読書観は少し「狂っている」そうだ。わたしは、とびきりいいと思った本は、何度も読む癖がある。すべてのお気に入りをそうやって読むわけじゃない。二年に一度くらい、穏やかな気持ちで読みたい本だってある。数か月に一回くらいは読みたい本もある。ただ、狂ったように読む「愛読書」は、時によっては毎日開いてしまう。一日に三回とか読んでしまうこともある。わたしはその読みすぎてくたっとなった本たちを、頬ずりしたくなるほど愛おしいと感じる。自分の身体の一部みたいになっている。本はすごい、ただの紙の束じゃない。

そんな、わたしの一部みたいになっている本を、友人に貸した。(今書いている時点で彼女はまだわたしの隣で読んでいる)

その本は、とても短いけれど、多分もう百回くらいは読んだ。新しい年の初めや、誕生日のような「新鮮な空気を吸い込むような気持ち」になりたいときはもちろん、悲しみや苦しみに包まれているときに、いつも開く。そっと寄り添ってくれるような気がする。そのうち、息がしやすくなって、わたしはいつもの生活に戻っていく。

買うことさえ躊躇するほど特別だったその本を、人の手に渡したことはなかった。とてつもなく好きなその本を、どれだけ好きか、どんなにわたしを救ってくれたか、どんなふうに心に響くのか ——— 誰かに無理に伝える必要を感じなかった。ただただ、わたしがいいなと思えれば、それでよかった。

ところが、今隣にいる彼女には、なんとなく貸してみたいなあと思った。彼女は笑っているけれど、随分長いこと、傷ついている。この本の魅力をわかってほしいとか、きっとためになるとか、癒されるとか、そんなことはちっとも思わない。でも、ほんの少しでも肩の力が抜けて、深く呼吸ができるようになるとしたら、それはとてもいいことだなあと思って、「よかったら」と勧めてみた。完全にエゴだ。

さて、いざその本を彼女に手渡したら、急に気恥ずかしくなってきた。今わたしは、読んでいる彼女をまっすぐに見られない。まるで心の中を覗かれているような気分。普段、知らず知らずのうちに、小説の中のフレーズを口にしている気がする。わたしの思考や話す言葉には、少しずつ、あの本の欠片が混じっている。だから今、こんなにもドキドキしてしまう。

いつか、ものすごく大切な誰かに、わたしは心を覗いてほしいと思うかしら。「別に見てほしくない、何も知らなくていいわ」という態度をとりながら、ほんのちょっぴり、口では表せないわたしの欠片を拾って、いいねって言ってほしいと、思うかしら。

ーー

彼女は本を気に入ってくれたらしく、一晩貸してねと部屋へ持ち帰った。気に入ってくれてよかったと息をついた、すぐ後にまた、なんだか落ち着かない気分になった。本が傍にないと、わたしの一部がどこかへ行ってしまったような感覚をおぼえる。人にこの本を貸したのは初めてだったから、知らなかった。それがおかしくて、一人で笑った。

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