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掌編小説:彼女に笑顔を【2257文字】

「今日のビアガーデンって19時でいいんですよね?」

「ああ、そうだよ」

 派遣社員の涼子ちゃんが隣のデスクの上司にお茶を運んで来た。上司は、優しいイケメンで、仕事もできる、うらやましい限りの男だ。

「小室さんも来ますよね?」

 涼子ちゃんは僕にも声をかける。今日のビアガーデンは複数人で集まる会で、僕も誘われている。

「うん、行くよ」

 大して酒も強くないし、イケメンでもないけれど、涼子ちゃんはいい子だし、同僚と飲みに行くのは楽しい。仕事後の、熱帯夜のビアガーデンはきっと気持ちが良いだろう。

「ねえ、涼子ちゃん、あの……亜由美さんは来るの?」

「え、亜由美ですか? 誘いましたけど、どうかな。ワチャワチャした飲み会苦手だから、わかんないです。無理強いはしたくないし」

「そ、そうだよね」

「なんでですか?」

「いや、その、亜由美さんって飲み会とか来ないから、ゆっくり話したことないな、と思って」

 しどろもどろになってしまう僕を、涼子ちゃんがニヤニヤした顔で見てくる。

「何?」

「へえ、そういうことですか」

 涼子ちゃんが、僕と、少し離れたデスクにいる亜由美さんを交互に見ながら頷いている。つられて僕も視線をやると、亜由美さんの真面目な横顔が見えた。

 亜由美さんは涼子ちゃんと同じ派遣社員で、仕事中に手を抜いているところを見たことがない。データ入力の仕事をしているのだが、休憩時間以外に彼女が休んでいるところを見たことがない。

 長い黒髪を後ろで束ねて、画面を見つめ、ひたすら数字を入力する横顔。きりっとした目元。薄い化粧。きれいな指。書類を渡しに行っても「はい」とはっきりした返事をするだけで、愛想もない。隙がないのだ。

 僕がそんな彼女に惹かれているのは事実。何が彼女をあそこまで集中させるのか。なぜ愛想がないのか。完璧に見える彼女の隙を探してみたい。そんな変な衝動に駆られるのだ。


 19時を過ぎても熱気のこもるオフィス街、ビアガーデンは混んでいた。日中の憂さ晴らしなのか、皆が陽気にビールを飲んでいる。乾杯の1杯だけ飲んだビールをウーロン茶にかえて、僕は蒸し暑い夜空を見上げた。案の定、来なかった亜由美さんは、もう家だろうか。



 今年もへばりつくように残暑が厳しい。こうも暑いとやる気も出ないと思いつつ、いつもの会社、いつものデスク、いつもの仕事。こなしていれば時間は経つ。やる気のない日だってあるさ。そう言い聞かせ、とりあえず目の前の仕事を片付けていく。

 亜由美さんを見ると、今日も変わらず淡々と真面目に画面を見つめて仕事をしている。

 そんな日の午後、涼子ちゃんが僕のデスクにサササっと忍者を思わせるすり足で静かに駆けてきた。

「小室さん」

 小声で話しかけてくる。

「なに?」

「週末のバーベキュー、亜由美も来ますって」

「え!」

 僕は仕事中なのにずいぶんと大きな声が出てしまった。しー! と涼子ちゃんに注意される。慌てて僕は口に手をやり、声を落とす。

「本当?」

「はい。誘ってみたら、たまには行ってみようかなって」

「おお……ありがとう」

「当日、ちゃんと喋れるかは、小室さん次第ですからね!」

「あぁ、わかってるよ」

「あと、せっかく亜由美が珍しく参加するんですから、亜由美の嫌がるような事したら、私が許しませんからね」

 涼子ちゃんは冗談めかせて、でも存外本気のこもった声で言う。

「わかってるよ」

 俄然やる気が出てきた。今日の仕事はさっさと終わらせて、バーベキューで活躍できる男に見えるように、にわか勉強をしておこう。キャンプで火を起こせる男は格好いいとか、アウトドアで手際よく料理ができる男は格好いいとか、よく聞くではないか。

 何より、一瞬でも彼女を笑わせられたら、一番嬉しい。僕は彼女の屈強そうな城壁を崩してみたい。



 バーベキュー当日。良く晴れて、風は少し秋めいていて、とても気持ちが良い。

 同僚たちが20人ほど集まった河原のバーベキュー場に、亜由美さんもいる。髪はいつものように後ろで束ねて、カーキ色のTシャツにデニムのパンツ。動きやすそうでカジュアルな服装は似合っていたし、とても好感が持てた。

 にわか勉強の僕は残念ながら活躍の場は全くなく、というのも、バーベキュー場は何もかもが揃っていて、素人でも簡単に手ぶらで楽しめるような施設なのだ。それでも手際よく肉や野菜を焼いている同僚もいて、こういうマメな男はモテるんだよな、と思いつつ、僕は手持無沙汰でウーロン茶を飲みながら川を眺めていた。

 僕の脇腹を誰かが指でつんつんしてくるから、何? と振り返ると、涼子ちゃんが「ん、ん」と言って、目で合図してきた。涼子ちゃんの視線の先には、僕と同じように手持無沙汰で川を眺めている亜由美さんがいた。僕は頷くことで涼子ちゃんに感謝を伝え、歩き出そうとすると、「ちょっと」と涼子ちゃんに腕を掴まれて止められた。「え?」振り向くと、半分くらい入っているウーロン茶の2ℓペットボトルを押し付けられた。冷たくて気持ち良い。

「よく見て、コップ、空でしょ」

 言われて目をこらすと、確かに亜由美さんの持っている透明のプラスチックコップは空だ。涼子ちゃんの気遣いに感謝だ。

 僕は亜由美さんに似合う男になれるのだろうか。空のコップを手に、どこか遠くを眺める亜由美さんの視線の先に何があるのか知りたい。郷愁に置いて行かれているような亜由美さんの横顔。笑顔にできるだろうか。

 僕は今度こそ「ありがとう」と涼子ちゃんに声をかけ、足場の悪い河原の石を踏みしめ、亜由美さんに近づいた。

 川は少し傾き始めた早秋の光を反射し、美しく輝いていた。

《おわり》

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