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小説:雨太郎の話【12233文字】

【久美子】
 
 それは、小さな人だった。
 
 子供、という意味ではない。ファンタジー映画に出てくるような小人のようなものでもない。その人は、普通の人間に見えるのだけれど、ただ、大きさが二十センチほどしかないのだ。

 その日は朝から肌寒かった。

 梅雨。外は霧吹きをしたような細かい雨。両手をこすり合わせながら、終わりを知らせていた乾燥機から洗濯物を取り出す。しわにならないように、乾燥を終えてからも定期的にまわってくれるから洗濯物はふんわりしていて温かい。抱えて思わず顔を埋める。新しく買った柔軟剤はいい香りがする。この前まで使っていたものは、少し香りが強すぎた。ほのかに香るくらいがちょうどいい。私の服ならまだしも、夫の大輔の服まで香水のように匂ったら、仕事場でまわりの人に嫌な思いをさせてしまう。

 細かい雨が降り続く、窓の外、バイクの音が行き過ぎ、ふと顔を上げる。夕刊が届いたのかもしれない。たたみ終えた洗濯物を片付けながら、新聞を取りに外へ出る。

 玄関を開けると、ひんやりと湿った空気が気持ちよくて思わず深呼吸をした。雑多な都会ではなく、でも便利。いわゆるニュータウンと呼ばれる住宅地にマイホームを建てたのは三年前だ。物理的にも精神的にも適度な距離のある近所付き合いで、住んでいてストレスは少ない。なにより、小さくても日当たりの良い庭があるところが私は一番気に入っている。

 季節折々の花や植木を愛でるのは、私の数少ない趣味の一つだ。しゃがみこんで土をいじる、穏やかで静かな時間。玄関の軒先から眺める花々は、手をかけただけ美しさで応えてくれる。植物は正直で好ましい。

 今は紫陽花が花盛り。紫陽花の、花弁に見える部分は実は額らしいけれど、ねりきり細工のような繊細な額の集まりは、やはり花のように見えてかわいらしい。水彩絵の具を混ぜる途中のような色のグラデーションもきれいだ。一枚一枚、まったく同じ色はないように思える。薄い水色、薄い紫。青みがかった紫。

 紫陽花を眺めながら、新聞を取りに軒先から出る。霧吹きの雨が髪を濡らす。

門に設置されている郵便受けの一歩手前、一瞬目を疑う。

 紫陽花の下に、何か、いる。

 目を凝らしじっと見つめる。その輪郭がわかった瞬間、あっと小さく声を上げ驚いた。

 門の横。薄紫の紫陽花の下。黒く湿った土の上。私の庭に、人がいる。

 それは、小さな人だった。
 二十センチくらいの小さな人。おそらく男性で、若そうだ。全身をじっとりと雨に濡らし、うつむいて膝を抱えて座っている。茫然と立ち尽くす私を、ゆっくりと見上げる。目が合って私はたじろぐ。瞳の色が薄い。

 私の髪も服も、霧吹きの雨を吸い込んで重く湿っていく。髪から伝い落ちる雨が首に流れて冷たい。紫陽花の葉にたまった雨が小さい人の頭に伝い落ちる。私を見上げる色の薄い瞳。か細く濡れそぼつ小さな人。

 一度息を吐き気持ちを落ち着かせてから、思い切って声をかけた。

「さ、寒くないですか」

 寒いです

 その返事は、普通の人間の声に聞こえた。

 私は、その小さな人を家の中に案内した。見知らぬ男性を家に招き入れることなど今まで一度もやったことはないけれど、例えば警察に通報したり、庭から追い出したり、見て見ぬふりをして放置したりしたら、すぐにでも死んでしまいそうなほど、その人はか弱く見えた。

 私は濡れてしまった服を急いで着替え、小さな人にはハンドタオルを貸した。その人にはバスタオルほどの大きさだった。髪や体を拭く仕草は人間と変わらない。さすがにサイズに合いそうな服はなかったので、服が早く乾くようにエアコンを入れることにした。熱い紅茶を淹れ、私は迷った末に、シュガーポットに注いで出した。紅茶を一口飲み、ほぉと一息ついているその人は、普通の爽やかな青年に見えた。ありがとうございます。とても寒かったので助かりました、と礼儀正しく話す、小さな人。

 床に敷かれたラグマットに、二人で並んで座った。茶色い起毛素材の、分厚いラグマット。今年の梅雨は気温が低いというので、しまわずにおいた。朝、粘着テープで掃除をしたのに、もうほこりが落ちている。

「うちの庭で何をしていたんですか?」

 普通なら不法侵入である。でも、この小さな青年には、人に危害を加えそうな怖さは、まったくなかった。

 自分でもよくわからない、ご迷惑をおかけして、こんなに親切にしていただいて、本当に申し訳ありません。
 すまなさそうに話す青年は、とても小さいこと以外まったく普通で、爽やかで、穏やかだ。乾いてきた髪は茶色がかっていて柔らかそうだ。

 二十センチほどしかない体は、何か病気のようなものなのだろうか。初対面で聞くのも不躾なことだと思ったので、気になったけれど、聞かないことにした。

「とりあえず、外は寒いので少し休んでいたらいいわ。九時過ぎには主人が帰ってくるから。」

 自分でも驚くほどすんなりと、この青年を受け入れていた。礼儀正しいし、危険人物には見えない。なぜ庭にいたのかわからないのは記憶喪失のようなものなのか、それなら思い出せるまでいればいい。そんな気持ちになっていた。二十センチの人間に会ったのは初めてだったので、少し気分が高揚しているのかもしれない。愉快なような気さえした。

 夫が帰宅するまでの数時間、他人が家にいるいのは不思議な感覚だった。テレビを見たり、紅茶をおかわりしたり、他愛ないおしゃべりをして過ごした。初対面の緊張はあまりなく、ましてや相手が現実的ではないほど体が小さいことなど、すっかり無関係になってしまうほど、日常的でのんびりした時間だった。いつも、たったひとりで過ごす時間に他人がいる。それは新鮮で、有意義な時間であった。

 夫が帰ってきた。玄関で鞄を受け取る。

「どうしたの、何かいいことがあった?」

 やはり気分が高揚していたらしく、顔にでていたようだ。

「今日、新しいお友達ができて。夕食をごちそうしているところなの。あなたにも早く紹介したくて。」

「お友達が来ているのか。何か土産物を買ってくればよかったね。」

 こういう夫の気遣いが私を安心させる。大切にされるのは幸せなことだと思う。夫が脱いだ革靴に、さっとブラシをかけてシューツリーを入れる。毎日の日課でも、夫は「いつもありがとう」と一声かけてくれる。

 リビングのドアを開けて、小さな青年を紹介したときの夫の表情は想像以上に驚愕していた。冷静で淡々としている夫だけれど、私の新しい友達が二十センチしかない青年だとは思っていなかったのだろう。でも、その態度が失礼にあたると夫が気づかないはずもなく、すぐに冷静さを取り戻して、にこやかに挨拶をしてくれた。私は、夫も小さな青年と仲良くなってくれたら嬉しい、と思いながら、夕飯の皿をテーブルに並べた。


 小さな青年は、その日から我が家の居候になった。体が小さい、ということを除けば、まったく普通の青年だった。私たち夫婦のプライベートには深入りしないし、それでいてとても親しみのある優しい青年だった。青年は自分の名前を忘れてしまっていたので、私は名前をつけることにした。

「雨太郎、というのはどう?」

 雨の日に出会ったから。安直すぎる?と聞くと青年は、風情があってすてきな名前ですね、と気に入ってくれた。


 翌日さっそく、雨太郎の生活用品を買いに街へ出た。ショッピングモールのおもちゃ売り場ならあるだろうかと予想していくと、食器や洋服、洗面道具、テーブルとイスのセットなど、人形用の生活用品が想像以上にたくさんあって驚いた。種類も豊富で何でも揃いそうだ。鼻歌交じりに商品をゆっくり選ぶ。自分の機嫌のよさに笑えてくる。洋服はどうしても女の子の人形向けが多い。それでも、普段着のようなものとパジャマに使えそうな服も選んだ。

 ふとおもちゃ売り場の隣のコーナーへ行くと、赤ちゃん用品売り場だった。棚全体がパステルカラーに染まっていて、それ自体が幸福の象徴のようであった。かわいらしいガーゼ素材の握り人形やぶつけても痛くない柔らかいガラガラ、よだれかけ、哺乳瓶、その先にはおむつコーナー、その先には離乳食のコーナー、その先にはベビーカー…。

 胸のあたりが一瞬ぎゅっと苦しくなる。目の前にパステルカラーの幸福が広がっている。完全に保護されることを当たり前としている存在。押しつけがましいほどのかわいらしさに圧倒され、思わず数歩後ずさりすると、商品を選んでいた夫婦にぶつかりそうになった。すみません、と頭を下げて速足に立ち去る。仲良さそうに腕をからめながら商品を選んでいた女性のバッグに、淡いピンクのマタニティマークがぶらさがっていた。急いで会計を済ませ店から出る。もう鼻歌は出てこなかった。


 朝目を覚ますと、私は体を起こす前に体温計をくわえる。基礎体温を測るためだ。枕元に置いてある婦人体温計。二十七歳で結婚してから毎朝、もう七年続けている習慣だ。旅行にも持って行った。どこにいても、毎朝欠かさず。

 私たち夫婦には子供がいない。結婚して二年目に様々な検査を受けた。その結果、身体的に異常がないため、積極的な不妊治療の対象ではないと言われた。私の排卵機能、ホルモンバランス、何も問題ないらしい。じゃ、どうして妊娠しないんですか?という私の質問に医師は、妊娠は非常にデリケートなことです。些細なストレスでも妊娠しにくくなることはあります。気長に待つことも大事ですよ。とにこやかに言った。その言葉を信じて、もう何年も待っている。



 今日も雨。今日は婦人科の受診の日なので、昼食をとったらすぐに支度をし、一時には家を出た。積極的な不妊治療はしていないけれど、定期的に診察を受け、基礎体温の状態やホルモンの状態を診てもらっている。今日は内診のある日なので、長めのスカートを選んだ。外へ出ると、空気全体に含まれた細かい雨が体を覆う。バス停まで歩く間に、パンプスのつま先が濡れて指先が冷えた。今年の梅雨は雨が多い。

 雨太郎は私がこの間買ってあげた服を着て、玄関で見送ってくれた。服はどれもちょうど良いサイズで、どれも良く似合った。ファッションショーのように歩いたりくるっと回ったりしながら服を楽しんでいる雨太郎を見て、久しぶりに誰かに必要とされている実感がした。

 バスと電車で合わせて四十分ほどのところにある不妊治療専門の婦人科。淡い水色に統一された待合室はいつも混んでいて、静かに空気が張りつめている。BGMに小さく流れているクラシック音楽と裏腹に、みんなピリピリしていると言ってもいい。ここにいる人たちはみんな、赤ちゃんができないことで悩んでいる。でも、共通の悩みを持っている者同士の親しみのようなものは一切感じられない。みんながみんな、誰かの抜け駆けを恐れているのだ。私より先に幸せを手に入れるのは誰なの。一抜けた、と宣言できるのは誰なの。もう置いてきぼりは嫌。そういった、ある種の敵意のようなものが張りつめて、ピリピリしている。ここに集まっている人たちは、仲間ではなくライバルなのだ。

 不妊治療を受けているカップルの数は四十六万人を越えて、どんどん増え続けているらしい。四十六万人がピリピリしている世界。体外受精など高度な治療では、注射などの痛い処置もあるし、百万円以上のお金がかかるらしい。それでも、妊娠の保証はない。何も考えず、全く悩まずに簡単に妊娠する人もたくさんいる世界で、気持ちが荒むのもわからないでもない。科学の力でどうにか妊娠したい人たち。

 まわりの空気をなるべく気にしないように文庫本に集中していると番号を呼ばれたので、医師のいる部屋へ入った。色の黒い痩せた男の医師。私に「気長に待て」と言った医師だ。基礎体温の表を見せ、体調に変わりはないことを知らせる。医師は体温表を眺めながら何かカルテに書き込んでいる。

「基礎体温は問題なさそうですね。今日は内診をしますので、あちらの診察室でお支度をしてください。」

 婦人科はだいたい、話をする部屋と、内心などの診察をする診察室に分かれている。私は診察室へ移動し、スカートの中で下着をおろす。診察台は何度乗っても慣れない。スカートをたくしあげ、足を大きく開いた状態で挙上させられる。べとべとしたゼリーのような潤滑剤を塗られ、冷たい器具が触れる。カーテンで仕切られ、自分の下半身側は見えない。大きく広げられ掲げられた私の両足。

「はい、力抜いてくださいね。リラックスして、ゆっくり深呼吸して…」

 こんな恰好でリラックスできる人なんているのだろうか。私は壁紙の、小さな水玉のような模様を睨みつけながら、ただ深呼吸を繰り返した。

「子宮の中もきれいですよ。あぁちょうど排卵の時期ですね。」

 診察台の真横にある小さなモニターにざらざらした白黒の映像が映されている。エコーで調べている私の体内だ。

「ここが卵巣ですね、腫れもないし、きれいですね」

 説明されても、素人から見ればただの白黒映像で、何が何かわからない。私の、普段は見えないところまでどんどん踏み込んで、モニターに表示されていく。目に見えるものと、見えないもの。

 診察を終えると診察台がゆっくり動いて、掲げられていた両足がようやく下がってくる。診察台から降り、ティッシュで潤滑剤を拭き取る。下着をつけて、スカートをなおすと自然とため息が出た。この瞬間の、このみじめさは何事だろう。

 話をする部屋に戻ると医師は、卵子の発育が良さそうなので、今夜あたり夫婦の時間をもてば、妊娠の確立は高いですよ、と嬉しそうに話した。私は曖昧な返事を返して、部屋を出た。私は、この優しく穏やかな医師に、まだ言えてないことが一つある。

 ピリピリ張り詰めた病院を出て、一人バスを待つ。診察をしたからか、下腹部が少し痛い。足の指先が冷たい。雨はまだしっとりと降り続き、私の体を覆い隠す。バスはなかなか来なくて、バス停には誰もいなくて、この世界には雨に包まれた私たった一人しかいないのかもしれない、と錯覚した。



 帰ると雨太郎は玄関まで出迎えてくれて、おかえりなさい、と微笑んでくれた。私が買ってあげた服を着ている。胸がふっと温かくなる。家で誰かが待っていてくれるというのはこんなに良いものだったのか。診察の緊張も、冷えた指先も、バス停の寂しさも、少しずつほどけていく。

「ただいま。雨で寒かったわ。お茶にしましょう。」

 私はお湯を沸かし、私のティーカップと雨太郎のシュガーポットを温めた。



 夕食を終えて、シャワーを済ませた後、夫はパソコンに向かって仕事を始めた。どうしても今日中にやらなければいけない仕事がある、という。私は昼間、医師に言われたことをずっと考えていた。

「ねぇ、今日婦人科の受診の日だったの」

「そう、お疲れさまだったね」

 夫はパソコンから目を離さない。

「それで、体調は問題なくて、病気とかもないみたい」

「そう、よかった」

「それで」

 言いかけたとき、夫はようやく私を見て、優しく言った。

「久美子、ごめん、病院の話、明日でもいいかな。明日ならゆっくり聞けるんだけど」

 一瞬言葉につまった。でも、私の迷いは本当に、一瞬のこと。

 夫は決して、私にいじわるを言ったりしない。冷たくすることもない。いつも優しいし、穏やかで、取り乱したりしない。そのことで私は、感情を乱しているのは自分だけだと思い知る。

「そうよね、忙しいものね。ごめんなさい。じゃ先に寝るね。無理しないでね。」

 私が、言葉にできることとできないこと。夫の目に、見える気持ちと見えない気持ち。出てきてくれない言葉はどこへ行くのだろう。私のどこにたまっていくのだろう。私は一人寝室に行き、壁を見つめる。手は無意識に下腹部を撫でる。健康に発育できた私の卵子。生まれてくる機会を失った私の卵子。手をお腹にあてたまま、冷たいシーツに横たわった。

 パソコンに向かう夫。寝室に一人ぼっちの私。雨太郎はきっと、リビングの片隅に作った彼専用の小さなベッドで寝息を立てているのだろう。



 庭いじりと、もうひとつ、私には趣味がある。それはカービングだ。カービングという言葉は「彫刻」を意味するそうだが、私がやっているのは、野菜や果物に草花などのモチーフを彫るタイカービングだ。タイの伝統文化で、かつて王様にお料理を楽しんでいただくために宮中の子女たちが飾り付けたのが始まりらしい。スイカやメロンなどの表面をカービングナイフで彫り、バラやリボンのような飾りを作っていく。細かい作業で、専門的な技術というより集中力と根気が必要で、彫っているときは無心になれる。そこが気に入っているのかもしれない。

 そもそも、はじめはカービングなど興味はなかった。習い事自体、やりたかったわけではない。でも、仕事をしていないで日中家に一人でいる私に、夫が習い事を勧めてくれたのだ。一日一人で家にいることを寂しい気がする、と相談したのは私だった。仕事を持とうと思ったわけではない。でも、習い事をしたかったわけでもなかった。

 でも、私が日中やりたかったことはきっと習い事だったんだ、と自分でも思えるような気がして、以前に雑誌で見てきれいだと思っていたカービングの教室を探した。今では、趣味の一つになって、私の一人の時間を埋めてくれている。



「春香さん、お教室辞めるらしいわよ」

 カービング教室の斜め前に座る婦人が隣の婦人に話しかけていた。

「え、なんで?春香さんのカービングとってもきれいなのに」

「つわりで、フルーツの匂いがダメになったんですって」

「え!春香さん妊娠したの!」

「ちょっと声が大きいわよ」

 たしなめられていたが一度聞こえた言葉は教室中の皆に知れ渡り、こそこそ噂を始めた。私も思わずフルーツを持つ手をとめた。その婦人たちの会話はある種の衝撃を私に与えた。なぜなら、その妊娠したという春香さんが、いつも旦那さんの愚痴ばかり言っていたからだ。「大事にしてもらえない」「女として見られていない」春香さんのこぼす愚痴に、夫婦にはいろいろ悩みがあるものだな、と思っていたのに、これだ。

「春香さんって、いっつもご主人のこと悪く言ってたのにね」

「ほんとね、あれだけ愚痴っておいて、ヤルことはヤってたのね」

「いやだ、下品な言い方しないでよ」

 笑いながらこそこそ話す婦人に共感していた。あれだけ「愛されていない」と愚痴をこぼしていたのに、ヤルことはヤっていたのだ。

 本当に、女はみんな嘘つきだ。



 雨太郎はどうやらピアノの音が好きなようだ。

 病院もカービング教室もなく、梅雨で雨ばかり続いて庭仕事もできない。私はカップケーキを焼いて、クラシック音楽を聴きながら雨太郎と紅茶を飲んでいた。雨太郎は、もともとの自分の名前や家族のことなど全く思い出せないままだけれど、ピアノの音は聞き覚えがあるようだ。ピアノ曲が流れるたびに、この楽器はピアノですよね、と聞いてくる。私はCDの中からピアノ曲の多いものを選んでかける。





 梅雨が明けた。気温が低く長い梅雨だった。日差しを待ちわびていたように、きらめく木々。突如、世界が活気に満ちる。庭の草花は葉をしゃきっとさせ、土は栄養をたっぷり貯え、虫たちは忙しなく働き歩いている。私は庭にしゃがみ、力強く根を張る雑草を抜く。一本一本指でつまみ、引っこ抜く。表面の草だけちぎれてはいけない。根が残っていれば、またすぐ伸びてしまう。草の根本をつまみ、丁寧に引っこ抜く。夏の庭は暑い。日焼け予防でかぶっている庭仕事用の帽子は、首まで覆えるようになっているが、それでも後頭部から首に日差しを感じる。手の甲はシミが目立つから、今年は庭用の軍手を買い替えようか。紫外線をカットできるものが、きっと売っているだろう。

 雑草はどんどん生えてくる。私はそれを熱心に引き抜く。背中が暑い。肌寒い梅雨に倦んでいたはずなのに、しっとりと世界を包む冷たい雨が恋しく感じる。季節が去るといつも思う。もう後戻りはできないと。過ぎ去った季節が懐かしく恋しく感じ、もう二度と取り戻せない気持ちになる。二度と再びやってこない季節。取り戻せない時間。

 昨夜は珍しく夫が早めに寝室に来た。立て込んでいた仕事が片付きそうだ、と喜んでいた。久しぶりに早寝ができる、と早々にベッドに入る。同じ寝室の別々のベッド。

 目の前の雑草をひたすら抜きながら昨夜の自分を思い出す。

「おつかれさま、最近忙しかったものね。ゆっくり眠れるといいわ。」

 掛布を顎まで引っ張りあげながら、何気ない調子で言う。

 温かい労いの言葉ならいくつでも出てくる。でも、言いたかったことはそれじゃない。夫に伝えたいことは、労いでも感謝でもない。普段の寝不足のためか、夫はすぐに穏やかな寝息を立て始めた。私は掛布を握りしめ顔まで覆い、自分の勇気のなさを呪う。まただ。今夜もだ。寝息の聞こえるその距離を、私は越えられない。こんなに近いのに、こんなに遠い。毎晩毎晩私はひとりぼっちだ。そしてその現実から逃れるために、毎朝体温計をくわえ、毎月婦人科に通う。診察してくれる医師にも相談できない。ほかの子供のいない女性たちと同じなんだと、自分で錯覚するために私は目をそらし続ける。私も子供が「できない」のだと思い込みたくて、病院にまで通っている。

 でも、私たち夫婦に子供がいない理由は、婦人科に行って解決するものじゃない。

 私たち夫婦に、性交渉がないからだ。

 


 気が付くと雑草はおおかた抜き終わっていた。立ち上がり腰を伸ばすと、立ちくらみがした。



 家に入り、手を洗う。雨太郎は今日もピアノの練習をしている。

 トイレに行くと、生理になっていた。不順もなく毎月毎月定期的にしっかり訪れるもの。わかっているのに、下着を下して出血を確認する瞬間、絶望的な気持ちになる。私の生理は一体何のためにあるのだろう。腹痛や頭痛を引き起こし、たちくらみを引き起こし、血と生理用品を消費し、何の生産性もない。毎月毎月、ただの無駄。





 雨太郎が熱心にピアノを練習するので、私は本物のピアノを聴かせてあげたくなった。結婚する前は、夫の趣味に付き合って何度かピアノリサイタルやオーケストラの演奏を聴きに行ったこともあった。結婚してからは、オーケストラどころか、一緒に外出する機会も減った。夫婦というのは、一緒に暮らしているのに、一緒に過ごす時間が短いものだ。毎週末一緒に出掛けられる恋人同士より、毎晩同じ家に帰ってこられる結婚生活を、私は自分で選んだのだ。

 来週の、週末の夜、都内でやっているピアノリサイタルのチケットが取れた。世界的に有名なピアニスト、という感じではないが、そこそこ名の知れた日本人ピアニストのチケットが取れて、私は喜んで夫と雨太郎に提案した。

 夕食を食べる箸をとめ、夫は驚いた顔をした。

「久しぶりに生のピアノか、楽しみだ」

 喜んだあとにチラっと雨太郎を見て、連れていくのか?と小声で聞いてきた。

「当たり前じゃない。雨太郎のために行くようなものなのよ」

 夫が心配そうな顔をしているのが不満だった。確かにあんなに体が小さかったら、雑踏に紛れて踏まれたりしてしまうかもしれない。迷子になったら大変だ。雨太郎が初めて我が家に来た時の、雨に濡れたか細い姿が脳裏に浮かぶ。でも、それより喜ばせてあげたい、という気持ちのほうが大きい。夫も同じ気持ちだと思っていた。

「わかった。でも、このまま連れていくわけにはいかないだろ。何か対策を考えよう。」

 私は頷いた。

 雨太郎は少し緊張した顔で、とても楽しみだと言ってくれた。何を着ていけばいいですかね、と心配している。そういえば、雨太郎に正装を買ってあげていない。私は当日までに雨太郎の服を選びに行く楽しみができた。思案顔の夫は気にしないことにして、私は食べ終えた食器をシンクに下げた。



「それで、当日どうやって連れていくんだ?」

 翌日夕飯の席で、夫はそっと私に聞いてきた。枝豆をつまみながら、ビールを飲んでいる。グラスの下、コースターに結露でできた丸い跡。

「ちょうど良い籠を見つけたの。これで、首から下げていくわ。」

 私は、適度な籠に紐をくくりつけ、首から下げられるようにしたのだ。その中に雨太郎に入ってもらうと決めたのだ。

「え…でも、落ちたら危ないだろ?」

「大丈夫よ、何回も練習したもの。」

「鞄の中にでも入っていてもらったらどうだ?」

「だめよ。隠す必要なんてないんだから。」

「いや、安全第一って言いたいんだよ。」

 夫は心配そうに言っているが、私だって心配じゃないわけじゃない。雨太郎と外出するのは初めてだ。でも、雨太郎を隠したり、こそこそ連れていくのはやめよう、と私は強く思っていた。恥ずかしいことなんて何もない。雨太郎は、体は小さいけれど、優しい普通の青年なのだ。そのために、雨太郎と協力しながら、何度も何度も予行練習をしたのだ。 

 ピアノの練習をしている雨太郎をちらっと見ながら、夫はまたビールのグラスを傾ける。夫の皿から、私も枝豆をつまんだ。少し塩が強く、しょっぱかった。





 リサイタルの当日、雨太郎は私がデパートのおもちゃ売り場で見つけたスーツを着て、緊張した様子だった。夫もおしゃれをしていて、私は久しぶりの夫との外出に少し照れくさいようなときめきを感じた。会場は冷房が強そうだから、私はノースリーブのワンピースに、カーディガンを持った。練習通り、籠の装着はばっちりだ。

 予想していた通り、いやそれ以上に、雨太郎の入った籠は人々に注目された。驚いたように見つめる人。慌てたように目をそらす人。見てはいけないものを見た、という表情だ。気にしない。気にしない。私は自分に言い聞かせる。雨太郎が気にしていない様子なので、私も気にしない、と言い聞かせる。

 会場の入口、チケットを渡す人に一瞬ぎょっとした顔をされた。そんな驚いた顔をして、失礼じゃない。接客態度がなっていないわ。文句を言いたいところを堪える。

「三人分です。」

 私はチケットを三枚渡す。人数分お金を払っているのだもの。いいじゃない。受付の女性が少し困った様子でまごついている。

「三人分です。」

 改めて伝え、チケットを渡すが、その女性は受け取ろうか躊躇している様子で、ちらちらと夫のほうを見ている。私の後ろの列が溜まってきてしまう。

「どうかされましたか」

 その女性よりは立場が上であろう感じの男性がやってきた。女性はその男性を「主任」と呼び、受付から少し離れ何か相談している。主任と呼ばれたその人は、髪をオールバックに撫でつけていて清潔感がある。二人は何事か相談している。雨太郎が小さいから、子供料金と迷っているのだろうか。何でもいいから早くしてほしい。入る前にトラブルになったら、雨太郎が嫌な思いをするじゃない。

 ふと、そこへ夫が近づいていき、声をかけた。きっと夫は、入れないはずがないだろ、と訴えてくれているに違いない。

 夫と主任と呼ばれた男性がしばらく話していたのち、私たちは会場に入ることができた。戻ってきた夫に「何だったの」と聞くと「受付の女性が新人で、何か勘違いがあったようだよ。気にすることはない。」と言った。会場に入る前に、受付の女性を睨みつけたい気持ちをぐっと我慢した。



 会場は別世界だった。

 入った途端、思わず足を止め、見渡してしまう。ベージュ色の絨毯、間接照明のような柔らかいライト、臙脂色のイスは余裕を持って配置されている。振り向くと、覆いかぶさるように三階席まであり、音を効果的に響かせる独特の作りになっている。音楽ホールの会場は、現実離れした気分になる。現実離れしていて、上品な気分。会場内にいる人たちも期待に目を輝かせ、そわそわしている。その期待と緊張が周囲に伝染し、ますます現実離れした気分になっていく。さっきまでの蒸し暑い都会の喧騒が遠くに追いやられていくのがわかる。特別な空間へ迷い込んだみたい。

 チケットで席を確認して座る。椅子は上質な肌触りで、適度な柔らかさだ。

 ほかの観客たちも皆席を見つけて座っていく。ざわざわした会場が少しずつ静かになり、皆の期待がますます膨らむ。静まっていく会場。誰かの咳払い。

 ライトがゆっくりと暗くなり、ステージの上のピアノだけが照らされて浮かび上がった。一人の男性が一礼してからピアノに向かう。指を鍵盤に乗せた、その瞬間、まわりのお客さんたちの姿が視界から消えた。一瞬にして、私とピアノの世界になった。最初の一音目で、その人の弾く音のイメージがわかった。輪郭のくっきりした主張の強い美しさだ。そのあと、流れるように音がつながって、大きな旋律へ広がっていく。感情的な音を出す人だ。情緒的な旋律が私を旅へいざなう。草原を抜け、海を渡り、空を駆け抜けるように、私はピアノとともに旅をしていく。音楽は耳から聴くだけでなく、全身で感じるものだと思い出した。都会の真ん中にいると思えない。来る途中にじろじろ見られたことも、受付の人の対応に傷ついたことも、どうでもいいと思える。雨太郎のことになると少々むきになってしまう私も、反省するところはあったのだ。気持ちが寛大になっていく。あぁ、心が解き放たれる。



 休憩を挟んだ2時間半はあっという間だった。夫も久しぶりの生演奏に感動していたし、雨太郎はうっすらと涙を浮かべて見えた。3人とも、しっかりと満足していることがお互いに伝わって、顔を見合わせて、照れたように微笑んだ。

 余韻に包まれたまま帰宅し、私たちは各々のベッドに入る。きっと、夫も雨太郎も、満たされた感動の中で眠りにつくのだろうと思い、安らかな気持ちになる。目をそむけたくなる現実も、今なら少し認められる気がした。少し風変りな三人だけど、こういう家族の形があってもいいはずだ。私は、穏やかな気持ちで眠りについた。



【大輔】

 久美子と久しぶりの外出は楽しかった。ピアノも素晴らしくて、最近ずっと悩んでいたことも吹き飛ぶようだった。懸念したこともたくさんあったが、このままでもいいのだろう、と思えるようになった。どんな家族にも多少の問題や心配はあるものだ。それぞれの家族にそれぞれの歴史があって、その家族の個性になっていくものだ。だから、我が家の家族は少し変わっているが、あまり気にしないことにしよう。

 
 僕たち夫婦のもう一人の家族。
 梅雨のはじめに庭にいたという、久美子が我が子のように溺愛している、薄汚れてくったりとした布製の人形、雨太郎。



《おわり》





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