タイプ9の「自分のなさ」

「自分」「自我」とは何かについて考えている。


そうしたら「ん?」と思うツイートを見つけたので共有する。


「傷つけてくる人」と「傷付く自分」
「察さない人」と「察してほしい自分」

言っていることが同じなのでは??


「傷つけてくる人」がいる限り、「傷付く自分」が生じる。「察さない人」がいる限り、「察してほしい自分」が存在する。
作用反作用の法則のように、両者は同時に存在するものではないか?というのが私の感想。


ここから「何が違うのか?」を考えてみる。

もしかして、両者が同時に存在しないことがあり得る??

「傷付く人」がいても、「傷つける人」は存在しないことがある?
「察してほしい人」の欲求が汲み取られなくても、「察さない人」が存在しないことがある?

確かに「傷付く自分」がいても、相手は私を傷つけようとして傷つけたとは限らない。私が「察してほしい」と思って叶わなくても、相手は他の視点から私のことを察しようとしたのかもしれない。
だけどそれが「被害を訴える人と私」であると、「被害を訴える人がいる限り、私は加害者である」と思ってしまう。「酷い事してると自覚しなさい」と言われると尚更。


これ、タイプ9の自動反応が関係してるのかな?

タイプ9の「相手の視点と一体化する」というもの。無意識にやっていると思う。

例えば「相手が被害を訴えるなら私は加害者だ」というもの。この善悪の観点は相手側が決めたものなのに、自分は「その視点から見るのが正しい」と思い込んでしまう。それからズレれば「間違いだ」と思って引っ込めてしまう。
こういうのがタイプ9の囚われではないか?と思った。

タイプ9は無意識に衝突を避ける。
これは「争いを避けるために主張をしない」というレベルではなく、「相手と意見のすれ違ったら自分の意見を間違っているとして切り捨てる」というもの。
他人が私をAだと言えば、私はAである。この原則がタイプ9の中にある。「私がどうであるかを最終的に決定するのは周りの意見である」という原則があるため、タイプ9は周りの人の意見のすれ違いを嫌う。周りの人の意見がすれ違えば、自分がどうすれば良いのか分からなくなってしまうからだ。そして自分がどうすれば良いかを明確化するために場を調和させる。


タイプ9の求める他人との一体感、周りが調和している感覚

「あなたが〇〇するなら、私は〇〇されているということ」
「あなたが〇〇されるなら、私は〇〇しているということ」

↑これがタイプ9の持つ『一体となった感覚』

衝突(観点のすれ違い)が存在しない。自分の観点を切り捨て、相手の観点の中に自分を置く。
他のタイプなら「あなたは私を〇〇と見ているようだが、私は自分自身に関して△△だと思っている」という揺らがない「自分」というものを持っているわけだが、タイプ9にはこの“揺らがない自分自身”がない。すぐ揺らぐ。

相手が「私は傷ついた」と言えば、タイプ9は「私は傷つけてしまった」と思う。たとえ傷つけるつもりはなかったとしても「私は人を傷つけるような人だ」という自己認識が生まれる。
相手が「何も察してくれなかった」と言えば、タイプ9は「私は何も察することができなかった」と思う。たとえ相手の気持ちや意図を察するために何かを思い浮かべたとしても、相手が「何も察してくれなかった」と言った時点で自分が今まで考えたものはすべてなかったことになってしまう。


タイプ9の自己認識

タイプ9にとって「自分とはどういう人間か」は周りとの人間関係が反映されている。

「平和な生活を送っている」と思っているタイプ9は周りから良く思われているし、「最悪な人生だ」と思っているタイプ9は周りから悪く思われている。「私はいたって普通の人間だ」と思っているタイプ9は周りに受け入れてもらっているし、「私は変な奴に違いない」と思っているタイプ9は周りから厄介者扱いされているということ。
タイプ9は自己認識にすら周りの人達の認識が反映されているのでタイプを判別するのが難しい。

「周りが大丈夫なら、自分も大丈夫だ」←タイプ9の原則がこれ。
逆に言えば、「周りが大丈夫じゃないなら、自分も大丈夫じゃない」。


タイプ9の私の中では「自己認識は、周りとの関係の反映である」という原則が“当たり前のもの”としてあった。
だから「自分は最悪な奴だ」と自称する人を過剰に心配する。誰かが「自分は最悪な奴だ」と言っているからには、その人にそう思わせた人が存在すると私は解釈するので「誰がそんな酷い事を思わせたんだ」という怒りが生じる。
自己認識が自分の中から生じた解釈であるという可能性が抜け落ちている。おそらくこれは、関係性のタイプ(3/6/9)以外にとっての「当たり前」である。


引力

タイプ9的な「すべてが一体となった世界」において存在する引力。これはガッツセンター的な観点だと言える。

  • 作用反作用の法則

  • 慣性の法則

こんな感じの自然の法則に沿った見方をしているのがタイプ9だと言える。

本来人は意志を持っているわけだが、タイプ9はその意志を自然の一部として見なす。それが他者を許す姿勢へと繋がる……いや、許す以前の問題として、そもそもタイプ9はそれを「何か生じさせた」として捉えない。生じている何か(様態)に対して自分がどう動くかという問題であり、それを生じさせる人の気持ち(ハート)や考え(ヘッド)には意識は向かない。
タイプ9の世界観は「すべて自然現象である」という純粋なガッツセンターだと言える。

ここから「流れに身を任せればよい」になる。その「流れ」を人の何らかの意図(善意や悪意)によって生じたものとして捉えず……。
純粋にガッツセンターである状態なので、善意や悪意を認識できず、ただ「意」としての認識になる。(なぜなら善悪を感じるのはハートセンターで善悪を定義するのはヘッドセンターなので。)
タイプ9の問題点として「人の善意も悪意も汲み取れない」というものがあるが、これはタイプ9の世界に善も悪も存在しないからだ。善も悪も存在せず、ただ「一体となる」か「すれ違う」か。

それ故に「選べない」。何が最善かが分からない。優先順位をつけられない。
タイプ9にとって「すべてが等しく重要」であるのだ。これは「重要なものは何もない」と同じ位置に存在する。
つまり「すべてが重要だし、何も重要でない」となる。この「全てあるし、何もない」がタイプ9の世界観なのだ。


タイプ9を色で表すなら透明だと言える。
透明なので全てが透き通る。(=周りの影響を受ける)

「無」は「何も良い所がない」し「何も悪い所がない」である。

なんとも言えない。

タイプ9の性格を一言で言い表すなら「なんとも言えない」だと思う。
良くも悪くもない。ハッキリしない。なんかあるようで、ない。
ぼんやりというか不明瞭というか……。


タイプ9は「自然現象と一体」である。「引力と一体」である。
これに囚われているのがタイプ9であり、おそらく「タイプ9の本質的な部分は何か」に関して内面の自己認識に焦点を置けば一定しない。その一定しなささがタイプ9の周りと一体となる性質である。

自分の内面に何かを見出す時、その発生源はどこか。言い換えれば、絶対的か相対的か。
「自分はこんな気持ちや考えを抱いている」が外から引っ張られたものであるなら関係性のタイプ、更にそれが「他人の在り方」や「引力」により生じた結果ならガッツセンターのタイプ9だと言える。


つまり「自分」の感覚とは

本題に戻るが、「自分」を定めるのは「どの観点を最優先するか」や「自分なりにどの方向性に持って行くか」であると考えている。

例に挙げた文で言うと、「走らない」を選ぶか「歩こう」を選ぶか、「人が傷つけてくる」を選ぶか「自分が傷付く」を選ぶか、「人が察さない」を選ぶか「自分が察してほしい」を選ぶかが“その人自身”を形成する。
そして「その観点に着目する人は〜」として、その人自身の理解が始まる。

その感覚が無く、「どっちでもいい」「どれを選んでも変わらない」「同じことだ」になるのがタイプ9だ。
だから人物像を掴めない。周りに合わせて適当に選んでいるので、自分なりの何かがないという所がタイプ9の「性格が謎」と言われる原因だと思う。何か選択した時、特にそれを選ぶ理由はない。つまり探求したら見つかるはずの「自分」がなく、これは自分自身や周りの人にとっての「どういう人か分からない」になる。

自己感覚が世界と一体化しているので、外に起こす影響が変わらないのなら自分がどういった認識の仕方をしていても変わらないのだ。だから自分なりの視点について問われても「どうでもいい」、周りの観点に合わせることができるという性質を持つ。

「何も変わらないのだから、どれを選んでも構わない。とにかく意見のすれ違いは起こしたくない。」がタイプ9であり、「自分自身を持つ」とはそれとは逆の「どれか一つの観点を自分なりのものだと見なす」だと考えた。








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