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酔って思ったことを連綿と書き残す32「水色の猫」

はしがき。

去年の9月から小説を書き始めた、という言い訳を、まずはしたい。
書きつつも、プロの作品を読んでいる。そして、自分のを読み返す。ああ、酷い。ああ、切ない!
今すぐにでも電ライナーに乗って、2023年9月に戻りたい!
ウラタロスが大好きだ!

小説を書くということは恥をかくことである、と、あの天稟爛漫なD先生もおっしゃっていて、天才のお前がいうな、と思いながら、とはいえ、所詮、私のものは、インターネット上でわあわあ言っただけの素人の代物ですから、やり直せばいいんじゃないですか? と、なったのです。
酔っ払ったついでに。

というわけで、酔ったついでに、これまではメモアプリで横書きで書いていたんだけど、縦書きのものを使いまして、さらに酷く書き直すというプロジェクトを始動しました。

ちなみにD先生は、こうもおっしゃっています。
酒を飲むと、少し空想も豊富になって、うれしい、と。

どちらも「風の便り」という作品の引用ですが、文字を書く人には耳の痛い言葉が、いっぱいだよ。読んで、へし折れろ!

ちなみにこの「水色の猫」は、書きかけの小説「スコーク77」のチャプター1なのですが、当初はプロットがあったけど、もう、もはや、ありません。
とんと、困っている。
そしてこれを後日読んだら、私はまたきっと、落ち込むのでしょうね。
小説は、難しい。
酔って書いたこれが、少しは豊富だと、いいけれど。
つまらないものです。

明日が仕事だなんて、まるで信じられない。

***

「水色の猫」

 もう幾つ寝ると、お正月。

 今日は、そんな日だ。あと数日は、そんな歌にふさわしい日が続く。
 年の暮れ、という。
 世の中の誰もが浮かれる、数日間。ああ、やっと終わるね。もう、終わっちゃうんだ。今年も、早かったね。歳をとると、一年が、早いわ。お年玉、用意しなきゃ。黒豆も、そろそろ水につけないとね。数の子も、塩抜きしましょう。田作りは、空炒りが肝心なのですよ。お重はきちんと、洗いましたか? いい海老が、買えましたね。お酒はとびっきりの、北陸の日本酒。餅米をうんと炊きましょう。餅がよく切れる包丁を、研いでおきましょう。良いお天気なので、座布団も、たくさん干しておきましょう。綻びは、ない? 紅白歌合戦は、木下さんのお家へ観に行きましょう。

 ああ、いやいや。
 随分と昔のことを、思い出してしまった。テレビはね、昔は、そういうものでした。テレビのある家に、行くんだ。チャンネルは、回すんだよ。

 今は、年末は、さして忙しくもないらしい。おせちは作らないらしいし、餅も、いくらでも売っているらしい。昔は、すぐにカビがはえちゃうから、って、硬くなったお餅を片っ端からあられにして食べて、年明けの人間は、皆、ふくふくと、横に育ったような、気がするけれど。
 でも、今も、正月明けはみんな、ズボンに乗った腹肉を、自慢するか。今も昔も、あまり、変わらないのかも知れないね。

 せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ。すずな、すずしろ、春の七草。

 僕の思い出の、年明けの七草粥は、ぬるま湯の温泉のように肥えた僕の腑を癒してくれたけど、今は、どうなのかな? 
 零下の外温、拵えた肉襦袢でも叶わない時分に、一杯じゃなんだか物足りないからと、バクバク、と食べて、誰かしらにピシャリと叱られて、一週間前の贅沢を、あれは夢見事だった、と、名残惜しいものにしたものだけど。よく思えば、僕の家は麦飯で、七草粥は、白米だった。あれはあれで、今思えば贅沢だったのだ。
 今は、七草の名前は、年配しか知らないんだってさ。僕が子供の頃は、呪文のように唱えていたのにね。
 せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ。すずな、すずしろ、春の七草。
 春の七草、までが、呪文だった。

 にしても、もう幾つ寝ると、本当に、お正月。本当に、もうすぐ、来年だ。21世紀が四半世紀を過ぎるまで、あと1年と数日。なんて未来に、来てしまったんだろう。ああ、僕はまた、余計なことを思い出した。

 この歌の著作権、いつまで続いてると思う?

 と、こないだ、誰かが言っていたんだ。もう幾つ寝ると、お正月。さあ、この著作権、いつまででしょう?

 そういうことを言い出す人は大概、ものすごく、厭な人間だ。くだらないことでもったいぶって、しょうもないことで、己が博識である、智識人である、ただそれだけのことを披露したがる。くだらない。本当は、自分だって、しょうもない人間のくせに。聞いたら君は、私立高校の教師だというじゃないか。何をくそ。君は今、ただの、酔っ払いじゃないか。マヨネーズで和えたツナサラダに、マヨネーズをかけているじゃないか。ナンセンスだ。ツナに謝れ、味覚莫迦め。大体、童謡にそんなもの、あるものか。

 僕は、その時、セブンスターの煙を胸いっぱいに蓄えながら、内心でそう忿懣としたものだけど、答えを聞いて、驚いた。
 作詞をした人がとても長生きをしたので、著作権が消えるまで、あと16年もあるのだそうだ。作曲者はとっくに音楽室で、ドビュッシーと並んで、そっと微笑んでいるのに!

 今は、その問いに、僕はまるでイライラとしない。僕は、次の年末には、誰かに同じ質問をしてやろうかしらん、とほくそ笑んでいる。あの歌の著作権、あと15年も残ってるんだってさ。なんて、厭なやつだろう。

 にしても、寒い。北風が、花粉を孕んでいる。もう、だめだ。あいつらは、いけない。

 花粉は、だめだ。だめだ。だめだ! この時期から、どうしたって、僕はだめなのだ。僕は、花粉にめっぽう弱い。あいつらのせいで、僕は余計に、だめな人間に成り下がる。一年の半分、僕はだめな人間になる。僕の鼻腔を、あいつらはただ、突っついて、へばりついて、矢鱈に弄ぼうとするんだ。僕はあいつらにずっと遊ばれて、洟をみっともなく垂らして、ヘエックショイ、と、唾液を吐き散らかす。頭がぼうっとして、より、だめな人間になる。半年間もだ。ええい、なんとも腹立たしい。
 花粉は、あいつらは、そうだ。遊び人だ。ただの幼子だ。暇なのだ。退屈しているんだ。元気なんだ。きっと、そうに違いない。人間を苛めて遊ぶのが、彼らの唯一の道楽なんだ、と、僕は断言する。

 でも、暇だからと言って、やっていいことと、悪いことがあるだろう?

 僕は花粉に、そう言いたい。三島由紀夫のように、粉骨砕身、抗議したい。ああ、その名前を出したらファンの人に怒られそうだから、匿名にしよう。先ほどの三島云々のくだりは、ご放念ください。僕は、Y・Mのように、断々乎、抗議したいんだ。
 でも実際、僕は無能だ。
 花粉のために切腹するほどの度胸も、強い意志も持たない。僕は、ただ、花粉をバキュームカーのように吸い込むだけ吸い込む。ダラダラと洟を垂らして、メソメソと泣くのが、僕だ。僕やY・Mの代わりに異議申し立てを行う正義者の名は、アレグラ、というらしい。冬になるとコマーシャルで、アイドルがヒーローになって現れる。アレグラ、アレグラ、と叫ぶ。お忙しいでしょう。大変でしょう。お疲れのことでしょう。ご苦労様です。
 でも僕は、鼻をずるずるさせながら、ヒーローの待つドラッグストアの花粉症のコーナーをただ、眺めるだけだ。小銭を稼ぐ能力が、まるでない。僕は、貧乏だ。貧乏な僕は、ヒーロー戦士たるアレグラを買うお金があるなら、率先して煙草を買う。一貫して、セブンスターだ。僕は、ヒーローを買わない。セブンスターを択ぶ。よって、ぐずぐず、と、グシュグシュ、と、春が終わるまで、道楽者に遊ばれる弱者になる。ドラッグストアで、なけなしの千円札を数枚握り、アレグラをじっと見つめては、結局レジカウンターでセブンスターを4箱買う惨めさは、本当にいけない。冬は、いけない。花粉症は、いけない。己がもっと、いけない。だめなのだ。だめな人間だ。マヨラーを、笑えない。どんどん、ポケットの中が洟に塗れた塵紙だらけになって、寒くてポケットに容易に手を突っ込むと、ただただ、陰鬱な気持ちにさせられる。べちょりと洟が指について、僕は、あらゆることを後悔するのだ。

 ああ、何故、僕は、この汚れた塵紙を、ポケットに突っ込んでしまったのだろう? 何故、アレグラを買わなかった? アレグラを一箱、セブンスターを一箱、余ったお金で、カップ焼きそばを一箱。ドラッグストアに入る直前まで、そう決めていたじゃないか。

 アレグラを、煙草にすり替えてしまった自分。ヒーローをみすみす逃した自分。カップ焼きそばも、食べたかった。明太子バター味だなんて、魅力的なカップ焼きそばが、88円で売っていたのに!
 なんて、愚かな。
 なんて、汚い。

 それにしても、世の中の人は、鼻をかんだティッシュを、外出先で、一体どうしているんだろう?

 誰だって、自分の汚物を触りたくはないものだ。僕だって、人だ。僕にもまだ、人であるという矜持が少しは残ってはいる。洟は、触ると、とても厭な気持ちにさせられる。しょんべんの方が、まだマシだ。
 世の中には枯葉の数と等しいぐらいの人がいて、枯葉の数よりは、花粉症の患者は少ないのかも知れない。でも、決して、少なくはないだろう? 僕は日本しか知らないけど、みんな、ぐずぐず、クシャンクシャンと、しているじゃないか。偶に、電車の中で、往来で、箱型のティッシュを取り出している人がいるだろう? あれ、大体、鼻セレブなのは、何故だろう? 見栄だろうか。同情を買いたいのだろうか。それともやっぱり、鼻に優しいんだろうか?
 ともあれ、彼らは、その塵紙の後始末を、いったいどうしているのだろう? 僕は、それが、とても気になっている。
 塵箱を抱えて歩く人は、さすがの僕も、見たことがない。僕は、それが、どうしようもなく、知りたくてたまらないんだ。彼らの鼻をかんだ塵紙は、どこへしまわれているんだろう? 
 やっぱり、ポケットかな? 

 ポケット、だよね?

 ああ、花粉症。
 くしゃみもまた、避けられない案件だ。
 可愛い女子のくしゃみは、どうしてか、愛されるものだ。

 ごく稀に、朝のお天気アナウンサーが、中継中に、クシュン、とするだろう。
 そして、頬を赤らめて、照れ臭げに悶えて、必ずこう言う。「今日は、花粉が、たくさん飛んでいます!」

 ああ、可愛い。

 とても、可愛い。びっくりするぐらい、愛らしい。全力で、許せてしまう。僕は、許す。というか、もっと、くしゃみしてくれ! と、敵である花粉を、応援する。1チャンネルが、僕のお気に入りだ。

 でも僕が、いくらくしゃみをして、身悶えたって、僕は、誰からも愛されない。
 何故なら僕は、70代のハゲヅラだからだ。可愛くないからだ。骨と皮だ。くしゃくしゃで、みずぼらしいのだ。

 僕がくしゃみを連発すると、周りから、汚い、と言外の言葉をかけられる。顔を背けられて、とんでもない未知のウイルスに遭遇してしまった時のような絶望の表情が、僕の半径1メートル内に渡って伝播する。空気を、厭悪する。ああ、もういい加減、こんなくだらない話はやめよう。僕は、みずぼらしい、年寄りだ。禿頭だ。1チャンネルのお天気アナウンサーのように、決して、愛されることはない。同じ成分の洟が垂れていようと、いなかろうと、関係ない。世の中は、見た目が全てだ。僕が1チャンネルのお天気キャスターになる日は、未来永劫有り得ない。もし、僕が出られる可能性のあるテレビ番組があるとしたら、あれだ。マツコと、関西弁の若い奴が、やってるやつ。あれの、お天気キャスターだ。いくらでも、くしゃみをしてやろう。そうだ、あの番組にY・Mが出ていたら、きっとレギュラー入り確定だったろう。惜しい人を亡くした。

 ああ、鼻が、痒い。

 そう、ぐしゃぐしゃな想像を、妄想を、毛の乏しい頭にぎゅうぎゅうと詰め込んで、ポケットに汚物をいっぱいに詰め込んで、未使用のティッシュも使い果たし、鼻から垂れた洟を、ネチネチした使用済み塵紙をポケットから取り出して拭くべきか、逡巡し、いや、もう一刻の猶予もない、と、えいや、と取り出して、洟を洟で拭い、涙目で、元旦間近の昼空の下、ぼんやり放心している。
 それが、今の僕だ。
 目の前には、小さなコインロッカーがある。僕は、コインロッカーの前に立っている。

 現状は、こうだ。

 ごとんごとんごとん。
 頭上は、やかましい。15両編成が、代わりばんこに鉄橋を叩いて演奏している。

 ざあざあ。
 背後では、アスファルトを擦り剥いてゆく自動車が、戦争映画の弾丸のように飛び交っている。ランボーなら、余裕で戦える交通量だ。新宿なら、どうか。

 ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。
 風上には、青信号を待つ老女たち。特筆することは何もない。よく喋る。

「3、2、1」
 これは風下の、証明写真機の独り言。

 ぷー。
 これは、僕のオナラではない。
 どこか遠くの、クラクションのオナラだ。僕よりも、品がある。

 僕は、どうしたものか、と思案していたのだ。

 膨らみ切った、小汚い、赤茶のボストンバッグ。
 それを傍に下ろして、目の前のコインロッカーをじっと睨んでいたのだ。荷物を、預けたいのだ。
 セブンスターがどうにも吸いたいけれど、目の前に、「駅構内喫煙禁止」という真っ赤な張り紙が、等間隔で威嚇して、僕を殺している。
 張り紙は、雨水にさらされて、ボロボロだ。なんだか、親近感しかない。

 多分、コインロッカーを前に、僕は3分ぐらい、そうしていたんじゃないかしら。でも、コインロッカーに思い悩んでいるようで、そうでもない。先述のように、七草粥や著作権やアレグラについて、考えていた。
 呑気なようだけど、そうでもない。時間は切迫していたのだけど、僕は、いらぬことばかりを思い出して、現実逃避をして、そしてこうして、北風に吹かれているんだ。いらぬことは、何故、どうでもいい時に、走馬灯のように思い出せるのだろうね。必要な記憶はどんどんと、すっぽ抜けていくのに。
 おかげで、20分も歩いたはずの僕の躰は、もうとっくに雪だるまの体温だ。
 超、寒い。
 きっと今の、僕ののっぺり鼻は、真っ赤なお鼻のトナカイさんだ。クリスマスは過ぎたけど、そういえば、トナカイも、洟を垂らすんだろうか?

 トナカイは、花粉症だろうか?

 コインロッカーで思い悩んでいたのは、コインロッカーが、決して一つも空いてなかった、というわけじゃなかったんだ。
 ただ、空いていたのが、一番上の左の箱だけだったんだ。ここで、僕の身長を公表しよう。ナインティナインの岡村と一緒だ。

 これは駅に失礼だが、都内の、鄙びた駅のコインロッカーが盛況なのは、どうしてだ。なんというか、理不尽だ。
 なんで、そうなるの。
 もしかして、年末だからかしら?
 なんだって、誰が、何の用で、この、ヂスイズ住宅地のコインロッカーを、こうもたくさん使うのだろう?

 これからコインロッカーを使おうとしているお前が言うな、とは、言うな。僕のことは、聞かないでくれ。

 なんにせよ、ひ弱でチビの僕には、一番上のコインロッカーの箱に荷物を預けなくてはならない、という、ただただ辛い現実が、眼前にあったんだ。大いなる、悩みだよ。小さなコインロッカーが、僕にはまるで、グランドキャニオンの岩のようだ。
 手は、勿論届くよ。
 でも、この重たいボストンバッグを、自分の背丈よりも頭ひとつ分高い箱の中に、うまく収められるのだろうか。どこかで引っかかって、にっちもさっちもいかなくなりやしないだろうか。或いは、持ち上げきれなくて、頭の上にバッグを落としやしないか。持ち上げた途端、ギックリ腰に、なりやしないか。入ったところで、取り出す時に、やっぱり僕の頭上に、バッグが落ちてくるんじゃないだろうか。
 でも、悩んでる時間も、あまりないはずだ。
 だって僕は、これから仕事に行くんだから。偉いでしょう?
 夕方4時、出勤。
 居酒屋で、お皿やボウルを拭いたり洗ったり、サワーを作ったりしなくちゃならない。今日じゃなくて、明日が僕の仕事納め。昨日は、忙しかったなあ。仕事を納めたサラリーマンたちがゾロゾロとやってきて、一気にドカンとサワーばかりを頼んで、ふらふらになって帰った、と思ったら、片付ける間もなく、もう酔っ払ってる団体が入ってきて、みんなして、サワーだ。ジョッキは、ずっと洗いっぱなし。お皿も、洗いっぱなし。昨日は、一服する暇もまるでなかった。

 ああ、今日も明日も、忙しいんだろうなあ。
 サラリーマンがきちゃうし、明日なんて、常連客がこぞって集まって、座敷じゃなくて、カウンターが忘年会だろう。
 でも、あの人らは、みんなボトルキープの焼酎で、氷も勝手に持っていってくれるし、伝票だって自分で書いちゃうぐらいだから、明日は、まだマシかも知れない。
 一服ぐらいは、できるかな。
 だから、今日が、正念場だ。

 コインロッカーを、屹と見上げる。
 よし、仕事に行こう。

 僕は、ようやく、意を決した。仕方ない。困ったら、向かいのお巡りさんを呼ぼう。
 手を伸ばして、コインロッカーの一番上の左の箱。その、黄ばんで薄汚れた白い取っ手を、渋々、掴んだ。渋々、だ。泣きたい。花粉で、もう泣いてるけど、泣きたい。やっぱり、やりたくない。入れたくない。やっぱり、大変だ。

 その時、極軽量の正方形の扉に、何かが軽く、ぶつかったような気がした。
 まるで、入ってるのは分かってますけど、といった按配で、トイレのドアを、小さくノックされた時のような。男女兼用だと、大概それは、女子のノックだ。

「?」

 気のせいかな? 僕はそっと、開けようと思った。
 いや、中にはきっと何もないし、勿論、用を足してる人も、いないに決まってる。でも、何か、気配がする。
 静電気、だろうか? それとも何か、もう、別の荷物が入ってて、ぎゅうぎゅう、パンパンに詰められていて、それがちょっと、飛び出したのだろうか? だとしたら、困る。そっと、開け、ようとした。でも、その努力は、叶わなかった。
 いきなり内側から、ばん! と扉が開いて、何かが、僕めがけて、いっぱい降ってきたからだ。
 まるで箱から解き放たれた、白い鳩のように。

「う、うわあああぁあああ?!」

 取っ手を握った僕の右手は、あっけなく振り払われた。全視界が、水色になった。なけなしの薄い頭皮を、骸骨じみた両肩を、次々と蹴られた。だけどそれは、まるでお母さんにハタキでパタパタと扱かれたみたいな、可愛らしい蹴りだった。
 ミャア、ミヤア、と、聞き知った鳴き声が、僕の福耳を次々と通過する。パタパタ、パタ、パタ。
 バッタン!
 僕は、自分の足に躓いて、ボストンバッグの上に尻餅をついていた。勢い余って、地面に尾骶骨をぶつける。
 脳天まで突き上げるような、厭な痺れ。
 僕は、ぎゃあ、とお尻を押さえた。痛い! やっぱりコインロッカーをあきらめて、セブンスターを吸えばよかった!

 風上からも、老女たちの「ぎゃっ」という悲鳴が聞こえた。ジンジンするお尻を、さすり、さすり、モタモタと体を捩って、そっちの方に顔を向けると、水色の猫が数匹、人間界の赤信号を横断して、てくてくと走り去っていくところだった。

 ぷー、と白い軽トラ。煙草を咥えたおじさんが、運転席から、身を乗り出している。

 見て、水色の猫だよ。なにあれえ? 嫌だあ気持ち悪い、と、老女たち。落ち窪んだ眼をまるまるとさせ、仔犬のように吠えたてる。

 僕は、唖然とするばかり。

 あの猫、絶対さっきのロッカーから出てきたやつだ。
 開けた時、猫だ、と思った。
 信じてもらえないだろう。でも、ロッカーから出てきたのは、確かに猫だった。猫が、猫がいっぱい、出てきたんだ。
 水色の、猫たちだ。

 でも、どうしてロッカーに、あんなものがたくさん入ってたんだろう? 一体、どうやって? どうして、あんなにぎゅうぎゅうに? どうやっておとなしく、入っていたんだろう? 大体僕は、またたびじゃないぞ。

 ふと、突拍子もないことを、思いついた。

 真逆、あれ、猫型ロボット?

 誰かが、遠くで見張ってて、僕がロッカーを開けようとして、よしきたぞ、と、コントローラーで、猫が飛び出すように、遠隔操作した、とか?
 そんな、手の込んだイタズラだった、とか?
 いや、そんなはずは、ない。ないない。

 ああ、にしても、心臓に悪い。これは、よくないよ。
 ヨレヨレの濃紺のジャンパーを、皺皺の右手でぎゅ、と握りしめて、僕は、自分がなんだか、のび太になった気がした。のび太は、もっと、驚くべきだ。ドラえもんに対して。机の中が、宇宙なんだぞ。

 未来のロボットは、まあ、あんまり、そもそも僕、ドラえもんってあんまり見たことはないんだけど、でも、ドラえもんは、ロボットなのに、とても動きが滑らかだった。ロボットのくせに、手足が短くて、無駄に面積が大きいのは、置いておいて。
 でも、ついこないだまでのロボットって、頭を90度右に向けて、それから、躰が緩然と右を向いていたような気がするんだよね。
 いや、でも、もしかしたら。
 僕の預かり知らないところで、世の中が格段と進歩していて、まるでドラえもんみたいな猫型ロボットだって、今は作れるのかも知れない。もうドラえもんは、実在しているのかも知れない。ドラえもんを完成させた何者かが、こっそり内緒で、実験をしたんだ。そうだ、きっと、そうに違いない。今頃、どこかでひっそりと、ニヤニヤしているに違いない。
 いや、だから、違う。
 そんな手の込んだイタズラ、こんな辺鄙な都会の田舎で、やるわけがないだろう。大体、イタズラにする必要が、あるか?
 いたら、花粉よりももっと、暇人だ。

 青色吐息、青色吐息。
 僕は、歳を、とりすぎたのかも知れない。
 地べたに座り込んだまま、また、迂闊にも洟が出てきた。本当に、忌々しい。そこは、涙であれ。ああ、そして、ティッシュが欲しい。
 厭だけど、べちょべちょのポケットを弄り、まだなんとか使えそうなものを取り出して、ちーん、とかみながら、ロッカーに視線を戻そうとして、僕は、見つけた。

 独り言を喋り終えた、証明写真機の前。

 小さな水色が一匹。
 猫背を向けて、顔を叮嚀に、洗っていた。それは確かに、生身の猫だった。滑らかに動く、体温のある、毛の生えた、猫だ。

「え、な、ちょ?」

 嘘、だろう? 
 僕は、すっかり力が抜けちゃった。猫は、悪くない。猫に、罪はない。ただ、ものすごく、気持ち悪いです。

 ものすごく燻んだ、水色。まるで今日の、空の色みたいだ。晴れてるんだか、いないんだか、よくわからない。晴れなのか、曇りなのか、気象予報士ならどう答えるのか。どう答えられても、しっくりこないような。そういう、水色。

 僕は、歳をとりすぎただけじゃないのかも知れない。
 頭が、おかしくなったんだ。
 ならばいっそ、花粉症も治ってほしいよ。

 ふと、猫を、捕まえてみたくなった。僕はそれから、まるで水面に落ちた虫を見つけた、アメンボのようになった。
 お尻の痛い、四つん這いのアメンボ。
 そろり、スイスイ、水色の猫に近づこうとした。
 ただ、僕は、僕自身のことを忘れていた。こんな老いた躰じゃ、スイスイとはいかない。ヨボヨボ、グラグラ、モタモタ。ダラダラ、とは、僕の鼻のことだ。四つん這いは、洟が垂れる。そして、鼻がかめない。
 でも、僕はアメンボ。なので洟を垂らしたまま、少しずつ、猫との距離を詰めた。

 猫は、ますますロボットに見えない。

 毛並みも冬毛で、触ったら気持ち良さげだ。小さいけど、ふくふくしている。抱き上げたら、きっと温かい懐炉になるだろう。冬の必須品だ。子供の頃、家に猫が数匹いた。みんな、キジトラだった。水色は、やっぱり気持ちが悪い。捕まえてもなあ。この色、落ちるのかな? 落としたら、綺麗な白だったりするのかな?
 よく見ると、尻尾は赤くも、短くも、丸くもなかった。躰と同じく、青かった。いっそ、長いしっぽだった。この猫は、決してドラえもんじゃない。
 ドラえもんも、びっくりだろう。

 水色の猫は、大人しかった。無防備だった。なんにも、気にしちゃいない。ほら、あくびした。キョロキョロ、している。潜り込める場所を、探しているんだろうか。証明写真機の方をピッと見て、その猫背を直した。
 その様子を見守るギャラリーが、複数人。奇妙な猫と、人間アメンボを、スマホを横向きにして撮っている。僕は、写すな! 洟が、写るだろう!
 ああ、でも、あともう少しで、その長い尻尾を捕まえられる。
 そのまま、じっとしててくれ。いい子だね。よし、よし。話しかけながら、僕は右腕を、ゆっくりと伸ばした。昨日、そういえば、飲みすぎたんだ。手震えが酷い。まるで博多華丸大吉だ。千鳥の、助平の方でもいい。

 すると、言葉を話す、証明写真機の深緑のカーテンが、シャッ、と開いた。

「きゃあ!」

 リクルートスーツ姿の女子大生が、アメンボ姿の初老に、悲鳴を上げた。僕だって、ぎゃあ、って叫んださ。だって、中に、人がいたなんて知らなかったもの。また、尻餅をついてしまった。
 目の前に、肌色のパンティストッキングを履いた二の足。僕はそれを、見上げる。膝上のタイトスカートが、ていうか、リクルートスーツって、下から見ると、えっちだね。違う。違う、違う、違う! 今は。
「な、なんなんですか!」
 女子大生は、カチコチに固まった僕の股間、もとい、視界から、左へスルスル、と、後退りする。ああ、ちょっと遠くだと、二の足がちゃんと見えて、綺麗だね。うっかり、しゃべっちゃった。ち、ちち、違う! 違うんです! ご、ごめんなさい! 違、ごぼ、ご、誤解です! こ、ここここの猫が、いや、そ、そんなんじゃ、ないんです! ね、ねねねね猫が、ロッカーから飛び出してき、て。

 言い終わるまでもなく。

 女子大生は、わなわな、と美しい二の足を震わせて、鞄を胸に、お団子頭を振り乱して、改札の方へと走って、逃げて行ってしまった。え。ど、ど。
 ど、どうしよう?
 僕は思わず、ギャラリーを振り返った。どう、しましょう? 
 しかし、ギャラリーは、もういなかった。蜂の子、なんとかだ。蜘蛛の子、だっけ?

 僕、あの子に、通報される。

 逃げなきゃ。
 アメンボの変態なオスは、慌てて数歩、後退した。歳をとると、体がいうことを聞かないものだ。小さい頃も、運動神経はまるでだめだったけど、もう、歳をとるということは、運動神経とか、そういう段階じゃない。歳をとると、アメンボが、やめられないのだ。人への直り方が、わからない。

 赤信号が青に変わって、信号機が、小鳥のように歌い始めた。
 老女たちの声が、ようやく遠ざかっていく。ドトールにでも、行くのかな?
 ことん、と小さな音が鳴って、先ほどの女子大生の証明写真が、取り出し口から見えている。作り笑いの4つの目が、僕をマリアのように見ている。あの子、目が大きいんだな。
 僕好みだ。
 僕はアメンボのまま、歳をとると、思考も、どうにもだめである。どうしたらいいのか分からず、ふと、思い出した。

「猫、」

 猫はもう、いなかった。
 そうか。だから、ギャラリーがいなくなったのか。一体、どこへ、行ったんだろう? あの人たちの写メ、SNSとやらに、載ってしまうのかなあ。
 厭だなあ。洟。
 僕はこないだ、あかさ、あ、匿名にしよう。Y・Aの鼻くそをテレビで見た。

 ぺたん、とお尻を下ろす。ちょっと、人間らしくなった。洟を、まず拭いた。もうこのティッシュも、いい加減、限界だ。拭けるところが、まるでない。ぐしょぐしょだ。次は、中に着てるシャツで拭わなきゃならない。冬のアスファルトは、ひんやりとしていて、僕の尾骶骨と、心を妙に落ち着かせた。諦念、という。

 もう、いい。捕まろう。
 どうせ、あのボストンバッグの底には、大人のおもちゃがいっぱい入っている。もう、有る事無い事、言ってしまおう。あの子のパンティは、黒だった。ドラえもんは、実在した。

 首をふるふる、と振って、はあ、と息をつく。語彙など、必要ない。ふう、はあ、だ。ああ、もう、なんて日だ! ドラッグストアでアレグラを買わなかった。ティッシュもない。ロッカーは上しか空いてない。アメンボの変態だと間違われる。いや、僕は、蜘蛛だったのかもしれない。猫は、ヘンテコな色。今日も、仕事。明日もエンヤコラ。ああ、そうだ! 仕事! 
 早く、仕事に行かなきゃ。

 とりあえず、ボストンバッグをロッカーに入れよう。
 バッグからセブンスターを取り出して、ケツポケットにしまおう。汚れたティッシュは、バッグにでも入れてしまおう。
 早い鼓動、頭も、心も、アメンボで疲れた体も、叱咤する。仕事、仕事! 僕は口に出して唱えながらロッカーを振り返り、そしてまた、立てなくなった。

 ない。
 ボストンバッグが、ない。

「え?」
 アメンボ姿で、ロッカーへと戻る。ない。アスファルトを、撫でる。叩く。やだ。ない。ない!

 慌てて、すくりと立ち上がって、腰が、ぼきぼき、と音を立てた。壊れたロボットのように、ちんちくりんな躰が、ギコギコ、と伸びる。本当に僕は、大莫迦だ。ないと分かっているのに、必死の形相で、爪先立ちで、水色の猫の飛び出したロッカーの中をまさぐるのだから。無論、空っぽだった。じっと手を見ても、水色の毛がくっついてるだけ。

 ない。
 どうしよう。

 お財布、バッグの中だ。電車に乗れない。カップ焼きそばも、ストロングゼロも買えない。セブンスターも、ライターもない! 
 でも、警察に「かばん、盗まれました」なんて言ったら、きっとバッグの中身を聞かれるに決まっている。
 あのバッグの中には、大人のおもちゃが詰まっている。大人の夢が詰まっている。ジジイの夢だ。綾子ちゃん用とちなみちゃん用、7つ、入っている。ラブホテルの白か茶色のタオルに、一つ一つ、叮嚀に包んで、その上には、コインランドリーで洗うつもりだった、パンツや、シャツや、靴下や、ズボンが、ぐしゃぐしゃに詰まっている。それらは、夢じゃない。生活だ。
 ボロボロの茶色の財布には、なけなしのお金が入っている。財布は、千円で買った。確か、日暮里で買った。そうだ、2日前に貰った給料袋も、あの中に入れたままだ。謎肉まみれのカップヌードルBIGも一つ入ってたと思う。買ったまま、忘れていた。なくすと、無性に食べたくなる。食べたかった!
 でも、電車に早く乗らないと、仕事に遅れてしまうよ。電車じゃなきゃ、行けないよ。

 困った。

 僕は、ずるずる、ロッカーに凭れかかって、また地べたに座り込んだ。
 白髪だらけの禿頭を、ぐしゃぐしゃに掻き回す。本当に、薄い。どうしよう、わからない。どうしよう。どうしたらいい。綾子ちゃん。ちなみちゃん、カップヌードル! ああ、仕事に、皿洗いの仕事に行かないと、またジジイに怒られる。ジジイが、ジジイを叱る。ジジイ、怖いんだ。

 とりあえず、改札に、行こう。

 僕はまた、アメンボになった。前進。膝が、痛い! もう、全然前に、進めない!
 途中の自動券売機の、へりを引っ掴んで、僕は、ようやっと、アメンボを卒業した。どうにか人間らしくなったけど、腰が、曲がっている。腰も、痛い! お尻も痛いし、散々だ。でも、どうにか、改札の方へ、うろうろと、歩いていった。お昼に食べた蕎麦が、口からついうっかり出そうだ。歳をとると、本当にいけない。いっぱい食べたくて、食べても、あとで腑に怒られる。消化不良。食後どころか、食中に動いても、お腹が、もやもや。カップヌードルは、2回に分ける。2回目は、鍋に入れて、冷飯を入れて、クタクタに煮て、卵を割り入れて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜる。意外と、美味いんだ。だから僕は、カップヌードルは、BIG一択だ。謎肉は、多ければ多いほど、良い。ああ、あのカップヌードル、食べたかった。奮発して、買ったのに。

 あ、まって。
 あの女子大生が改札にいたら、どうしよう?

 急に、あの可愛い、えっちな、いや、違う。あの清廉な女子のことを、カップヌードルBIGと一緒に思い出して、歩を止めたけど、目の前の改札には、誰もいなかった。
 あの子は、もしかして、向かいの交番に行っちゃったのかな? だとしたら、よかった。いや、よくない。悪い。もっと、良くない。そうだ、あの証明写真。あれも、どうしたらいいんだろう? 駅員さんに、言った方がいいよね? 持ってきた方が、よかったのかなあ。
 僕は、そんなふうに、這う這うの体。
 ちょうどいてくれた駅員さんの手に、縋りついた。

「あ、あの!お金がなくて、」

 ボストンバッグのことは、言わなかった。証明写真のことも、言わなかった。お金がありません、失くしました。電車に乗せてください。仕事に行かないと、いけないんです。

 花粉で目に涙をたっぷりと溜めながら、洟はそのまま、声は、情けない、鼻声。ほれ、みっともないだろう。だめなジジイだろう。あわれんでくれ。どうか僕に、施しを。僕は、駅員さんに、電車が、仕事が、と繰り返し言いながら、ズボンのポケットを、弄ってみた。まずは、右から。
 ティッシュが、いっぱいだ。
 でも偶に、あるでしょう? お金がポケットから出てくること。まるでドラえもんのポケットのように、記憶にない泡銭が。
 僕は、それを期待したのだ。
 なので、うんと底を、もそもそ、弄る。ティッシュが、ポロポロとこぼれ落ちる。駅員さんは、困り顔で、笑っていない笑顔だ。僕は、笑い返す。うんと、探す。右は、なさそうだ。
 左は?
 左も、ティッシュがいっぱい。でも、硬いものにぶつかった。この感触は、股間ではない。僕の股間は、もうそんなふうに、硬くはならない。
「あ、」
 取り出してみると、本当に、硬貨だった。
 一瞬、パチンコ玉かな、と思ったけど、お金だった。50円玉が2枚、100円玉が、2枚。
 こないだの、もう幾つ寝るとお正月、で忿懣した時の居酒屋のお釣りと、その帰りに酔ってセブンイレブンで買った、セブンスターのお釣りだ。その割には、50円が多いような気がする。なんでだろう?
 僕はセブンイレブンに行くと、いまだに、お金を店員さんに直に渡して、カタコトの店員に「お金は、機械に入れてください」って、怒られる。あの日も、怒られたんだっけ。
「あ、ああ、ありました。ははは。ああいやあ、すいません。はは。あ、そうだ、で、出口の証明写真に、写真が、忘れられていましたよ。はは」
 ボストンバッグのことを、言えなかった。
 はあ、と、氷よりも冷たい駅員さんの返事から、僕はじり、じり、と、後退りする。でも、よかった。何はともあれ、よかった。
 ドラえもん、ありがとう。ここから、逃げられます。
 仕事にも行けます。まだ、間に合う。

 僕は、よちよちと自動券売機に戻って、50円玉を2枚、入れた。それから、100円玉を1枚入れようとしたら、手が震えて、どこかへ転がっていってしまった。ああ、博多大吉!
 なんで、100円玉の時に!
 風が、ひやあ、冷たい! まるで、夜風のようだ。世界が昼間の終了を知らせる、急な、冷たい風だ。改札の時計を見たら、ちょうど、3時半だった。
 そういう、風だ。
 冬は、わかりやすい。

 頭上では、電車が、ガタンガタンゴトンゴトン、と、着いたよ、と、言っている。でも、多分、あれは、逆方向の電車だ。大丈夫。落ち着け。落ち着け。ああ、でももう、時間がない。あと、30分。
 僕は、最後の100円玉を、ぶるぶるしながら、慎重に入れた。入った! タッチパネルのボタンを慎重に触ると、30円が、金属音を立てて、バラバラと落ちてきた。買えた! 
 僕はそれを大事に掬い、ティッシュまみれのポケットの奥に、大切にしまいこんだ。これで、うまい棒5本ぐらい、買えるかなあ。コーンポタージュ味がいいな。今度こそちゃんと、セブンイレブンのあのいかつい機械に、お金を入れたい。
 あ、切符を取るのを、忘れないようにしなきゃ。

「落としましたよ」後ろから、若い女の声がした。

 振り返ると、それは、悪夢。
 いや、ごめんなさい。うっかり、言い過ぎました。
 それは、さっきの、証明写真機の女子大生だった。隣にお巡りさんは、いなかった。
 黒くて硬くて強そうな、僕を一撃でのせそうな革の鞄は、きちんと左肩に掛けられている。振り乱していたお団子頭も、頑丈だ。全く乱れていなかった。
 その、か細くて、未来ある白い手指が、100円玉を、僕に優しく、手渡してきた。きっと、さっき落とした僕の100円玉だ。あの、洟まみれの。

 あ、あの!

 僕は言いかけたが、女子大生はぺこりと会釈して、証明写真機の方へ、足早に去ってしまった。きっと、あの写真を思い出して、取りに来たんだ。折角綺麗に撮れていたんだもの。忘れていないでくれて、良かった。手は、洗ってね。
 でも、僕のことは、僕が、あの時のアメンボだ、ということは、どうやら彼女にはわかっていないようだった。もしバレていたら、あの鞄で殴られていたかも知れない。
 人間に戻っておいて、よかった。

 ところで、バッグ。
 君は、ボストンバッグを見なかったか?

 遠ざかる美しい女神、美しいリクルートスーツ姿に、僕の心の声は虚しく叫んでいた。だって彼女は、見たはずだもの。大人のおもちゃと、洗濯物と、給料袋と財布とセブンスターとカップヌードルが入った、あのボストンバッグ。見なかったかい?
 あと、清楚な君のパンティは、ずばり、黒だ!

 僕は、最低な人間だ。
 僕の心は、黒いパンティだ。
 それがわかっていただけたなら、幸甚です。

 彼女が、消えたボストンバッグのチャックを開けて、大人のおもちゃを「わあ、太い!」って触るのを想起しながら、僕は、自動改札機に切符を流し込んだ。
 太いのは、ちなみちゃんのおもちゃだよ。使いなさい。
 僕は、素早く飛び出してきた切符を、ギュッと掴む。なくしては、ならない。ずっと、手に持っていよう。
 行先電光板を見ると、柏行きが2分後に到着するらしい。
 さあ、行こう。
 案外今日は、いい一日かもしれないぞ。

 階段を、おぼつかない足取りで登った。僕の心臓はますます早く、高鳴った。年寄りは辛い。わがままでしかない。ああ、喉が渇いた。吐きそう。階段、きらい。鼻を、洗いたい。手も、洗いたい。目を、取りたい。手摺が、冷たい。僕のバッグの中身を見た女子大生のように、ひんやりと冷たい。それで、いい。
 そうだ、お金、どうしよう? 居酒屋で、前借りできるかなあ? 
 ジジイに、叱られるの、厭だな。
 わがままばかりだ。

 日は、傾いていた。風が冷たくて、今だけはなんか、気持ちが良い。よく、真冬に滝行してる人がいて、正気の沙汰じゃない、って、ずっと思っていたけれど。
 なんていうのか。冷たさは、罪が浄化されて、薄らぐ、気持ち良さなんだね。萎える。うん。萎える。
 すっかりと、慾情が、消えました。
 僕も、そのうち、滝行、してみようかしらん。そしたら、僕は、白いパンティになれるかも知れない。
 高輪ゲートウェイ駅を羨望して、拗ねて臍を曲げたような、素朴なプラットフォーム。
 馴染みの風景だ。何十年と、通っている。僕は、このなんでもない駅風景が、嫌いじゃない。
 カラスが、カアカアと、誰かを呼んでいる。この駅ではいつだって、カラスが、誰かしらを呼んでいる。それが、良い。
 眼下には、ヂスイス下町が、広がっている。家と低いビルが、やっつけ仕事のジオラマのように、ぐしゃぐしゃにみっちりと詰まっている。
 ひときわ、変なビルがある。裏紙を貼り付けました、みたいな外装の、へんちくりんなビル。
 あとは、特に、ない。
 ひとえに雑多。庶民的。
 馴染みで、愛すべきものだ。これぐらいが、ちょうどいい。

 そんな街並みに、最近できたタワーマンションが一本、ロンギヌスの聖槍のように突き刺さっている。
 この街もあの日暮里のように、これからどんどん、変わってゆくのだろうか。
 日暮里といえば、あの角打ちだって、僕は、昔の方が好きだった。寒かろうと、暑かろうと、外で飲む日本酒は、格別でしかないから。
 でも、今も、好きだ。ホワイトボードのメニューの文字が独特で、それだけで充分酔える。
 ああ、洟が、垂れる。なんだか、お酒が飲みたくなっちゃった。

 ホーム、中央。

 なんだか、おかしかった。いつものように、のんびりとしていない。
 群がる人の気配が、不穏だった。

 最初、学校帰りの、やんちゃな若者たちかしら? と思ったけど、群がる人が皆、しゃがんで、何やら、騒々しい。老若、男女。ベビーカーを引く奥様の姿もある。おい、おい。そんな声がする。

 真逆、緊急地震速報でも、あったのかしら?

 身構えた。でも、地面は、揺れない。「1番線に、快速柏行きがまもなく参ります。黄色い線の内側で」
 構内に、男声のアナウンス。
 良かった。間に合った。仕事に、行ける。
 心は、安堵。
 でも、僕のふらふらなまなこは、その不穏な群れの中で、あるものに気づいた。
 水色の猫だ。

 水色の長いしっぽは、パタパタ、と、上下に動いていて、今に、走り出しそうな様子だった。お尻が、ちょっぴり浮いている。前に、行きたいのだろう。
 おかしい、と思ったのは、人間が、その水色の猫を取り囲んでいるわけじゃなかったこと。
 てっきり水色の猫を、人間たちが面白がって、取り囲んでいるのか、と思ったら、猫は、しゃがみこんでいる人間たちに紛れて、しゃがみこんでいる人間たちを真似するように、座っていただけだった。
 人間も、猫も、何かを取り囲んでいるのだ。
 取り囲まれたものは、ここからは見えない。どうしたのだろう? なんなんだろう? 
 僕は、近づいた。

 あのぅ。

 僕が声を出すのと、柏行きの緑の車体が通過するのと、猫が、ミャア、と鳴くのとが、一緒だった。

「!」

 やっと見えたものに、僕は息を呑んだ。
 灰色のブレザー。男の子。
 高校生だろうか。大きな男の子が、仰向けに真っ直ぐになって、倒れていた。泡を吹いて、ピクリともしない。
 両目は、晴れ曇り判然としない空を穿つように、目一杯、開いている。どこも、見ていない。
 友達だろうか、同じ制服の男子2人が、自分の鞄を投げ出して、名前らしき言葉を連呼している。
 アオト、アオト!

 駅員が、携帯電話で何かを訴えている。きっと、救急車を呼んでいるんだ。早口で、駅名、泡を吹いて、そうです、動きません、脈は、わかりません、と、言っている。
 僕は、怖い。怖くて、何もできない。
 死ぬ、の?

 快速柏行きの車両のドアが、電子音と共に、一斉に開いた。
 降りてきた乗客はみんな、のび太だった。

 老いたのび太。
 僕だ。
 僕が、いっぱい、降りてきた!

 僕は、逃げ出した。


 どんどん、逃げる。階段を転げるように降りて、黒いパンティの女子大生が、驚いて避けるのも構わずに、改札の西部劇の扉も押し除けて、僕は、逃げた。
 な、なんで、僕が、いっぱい?
 ていうか、あの子、死んだの? 死んでたの? 
 なんなの? なんなの!
 厭だ、もう厭だ! 
 怖い。気持ち悪い。怖い!
 悪夢だ!
 ドラえもんのポケットみたいに、電車から、のび太。おいぼれ、のび太! 僕! ああ、僕! 厭だ。気持ち悪い! 心臓が弾けそう。あれが自分だなんて、本当に吐きそう。僕は僕なんか、見たくない! 呼吸がもう、わからない。死んじゃう! しね! 
 し、しし、死ぬのはだめだ。死ぬのは、怖い! なんで? 知らないよ! 怖いよ。わからないよ! 教えてよ。助けてよう。ドラえもん! 綾子ちゃん! ち、ちなみちゃん!
 そ、そうだ、ケータイ!
 連絡しよう! 
 でも、ああ、ハジメテケータイも、ボストンバッグの中だった!
 みんな、さよなら! さよなら、さよなら、さよなら!
 鶯谷で、また会おう!

 僕は、赤信号を横断する。
 クラクションが、左右交互に、ぷうぷう、鳴らされた。
 この、くそおならめ! ありがとう! 知るか!
 僕は、走る。
 真緑色のコンビニスーパーを通り越して、あのスーパーは、安いけど、本当に、安いだけ! お惣菜とかは、てんでだめだ。おにぎりが特にだめ! 
 でも、お酒が安い! 煙草も売っている! ありがとう! 素通りする。
 僕は、走る。
 赤い看板の、焼肉店の真下に転がっていた、灰色の自転車を、引っ掴む。
 鍵がついてる。前輪が曲がっているけど、知るか!
 僕は、ジグザグに蛇行しながら、尾竹橋通りを蹴ったぐる。みんなが、避けていく。
 そんなの、慣れっこさ。
 自転車が、ガチャガチャと、厭な音を立てている。壊れそう。ああもう、知るか! 動け、動け、動け! 進め、逃げろ、逃げろ! のび太から、逃げろ! 僕から、逃げろ! 何が、今日はいい一日かも知れないぞ、だよ。最悪だ! 泥棒に遭った、泥棒じゃないか!

 とにかく、そこのセブンイレブンで右に曲がれば、日暮里駅が、あるから! そこから、電車に乗って! お店に行って、仕事して、お皿を。あ。

 お金が、ない!

 天を、仰ぐ。西の空が、ぽっ、と、赤い。
 照れるな、神よ。130円じゃ、電車に乗れません。この自転車じゃ、間に合わない!
 交番。お巡りさん! 交番、どこかなかったか?
 ああ、確かバスターミナルにあったはずだ!
 行って、お金を借りて、自転車を盗んだことは、内緒で、カバンのことも、内緒で。それで。
 それ、で。

 とりあえず、セブンイレブンを、右だ!
 僕は、ハンドルを、右に回した。

 途端、目の前に、シルバーカーを押し引く、老婆。

「う、うああああ!?」
 避け、きれない。

 両手で、ブレーキバーをぎゅっ。
 はっ、とするよりも先に、へし曲がった前輪が、つんのめる。洟が、引っ込んで、喉に流れ込んだ。推定時刻、午後3時45分。

 人生初の、逆ウィリー。
 それも、斜め後方捻りの、高難度。

 ああ、大成功だ。

 僕は、初めて、空を飛んだ。

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