酔って思ったことを連綿と書き残す44「満開です」
はしがき。
今住んでるところが、半径数キロメートルの主要道路を全部桜にしてらっしゃるんです。
今日明日あたりが見頃となって居ります。
玄関を開けると、桜!
佳いものです。
ただ、いかんせん、駅の目の前に家がありまして、見られるのは信号待ちの数十秒。信号も、やたらに短いのです。
なので、さほど、堪能していません。
以下は、前回の「シン・死の媛」一章の続きです。雨ちゃんパート。
このあとは、植木屋さんと先生の予定です。
意外と大事。
*****
絢ちゃんと、幾度となくひとつになりながら、僕は、雨の話をした。
雨は、色街の女衒で売られ、この赤鳳楼へと入りました。僅か五歳。最初に会った日には、小雪がちらりと舞って居りました。
当時、燦州は内乱のさなかで、二城も非常な状態でした。極右政党に制圧され、無政府状態。個人的なお話で恐縮だけれど、家族も親族も、それで亡くしました。職も失い、ぼんやりとしていた。色街で『先生』を始めたのは、その当時のことです。決して、明るい理由からではありませんでした。
雨は、未幸という娼妓の禿になりました。未幸ちゃんは、僕の当時のご贔屓でした。
「先生も、よろしくね」
雨は、深紅の着慣れない和装で、未幸ちゃんの横に正座していた。「雨と申します」三つ指を立てて、僕にそうご挨拶をしてくれた。
可愛い。
もう、その一言に尽きます。雨ちゃんは、とびっきり可愛かった。桁違い。御目目はまんまるで、まるで満月のよう。まばたきをするたび、玉肌に翳。山茶花の髪飾りをつけた濡羽色の髪も、顔を埋めたくなるような光沢で、ちいさな口許は、未幸ちゃんと同じ洋紅を差していた。
正直に言うと、雨が男の子だってことに、しばらく気づかなかったんです。
気づいたのは、彼が七歳の時。梅雨時だった。内乱があまりにひどくて、僕は当時、ここで住み込みで働いていたんです。家に、帰れなくなっちゃってね。一年ぐらい、お世話になって居りました。
しとしと雨の、陰鬱な早朝。
妓楼ですから、早朝といっても人は出払っているんです。禿たちが帰ってくる前に、離れの雑居部屋でも綺麗にしようと思って、箒片手に戸襖を開けたら、なぜかお着替え途中の雨がいて。
見ちゃった。
雨はへいちゃらな顔をしてとり澄ましていたけど、僕は、思わず戸襖を閉めちゃいました。お馬さんが、ついている!
のちのち聞いた話、雨は、自分が男の子だってことを、僕がとっくに知ってるものだと思っていたんですって。
未幸ちゃんも、
「えっ? 知らなかったの?」
でした。ずっと、女の子だと信じて疑って居りませんでしたよ。僕の一年半の恋慕を返してくれ!
まるで、悪夢でした。曇天の霹靂です。
そんなだったから、僕は当然、雨が男娼になっても、雨と遊ぶつもりは毛頭ありませんでした。僕はいわゆる変態性欲者じゃなかったし、女化男子にも興味を持たなかった。今もご覧のとおり、ふつうだよ。
ただ、雨との付き合いが長くなるにつれて、理解というか、彼らへの見方は、少し変わったかも知れない。雨みたいな女化男子もいるんだなあ、って。
雨はね、本当はふつうだったんです。
あれは、十二歳ぐらいの時か。本人が言ったんです。自分の性的アイデンティティは、相手次第で決まるんだ、って。男だと思って自分を買う人にとって、自分は男。女のように扱う人にとって、自分は女。だから、自分のことを「僕」って言ったり、「私」って言ったりするんだ、って。
雨のアイデンティティは、名前さながら、まるでお天気のようでした。
話が逸れちゃったかな? 戻そうか。
雨の立派なお馬さんを見ちゃった頃に、燦州の内乱は収まって、僕は内務省に再入省しました。それからはずっと、統計課の椅子に収まって居ります。今は、課長の椅子。課長席は窓際だから、暑いわ寒いわで、厭なんだけどね。
未幸ちゃんはその秋の宵花祭で、十の九。翌年春には十の五に選ばれて、身請けされて引退、ご成婚されました。ご存知だと思うけど、春と秋、四月二十三日と十月二十三日に、色街では『宵花祭』という神事が執り行われます。色街屈指の十人の娼妓が選ばれ、十の一が『宵花さま』。街の代表、街の象徴となります。
そして、一里ある色街の表小路を、南の前門から北の紅黎門まで練り歩きます。
雨は、未幸ちゃんの禿として、宵花祭の晴れ舞台に立ちました。
ああ、もう、そりゃあ、可愛かったよ。当時の新聞、今も残してあります。今度、見せるね。
未幸ちゃんの禿じゃなくなった雨は、それからはよその妓楼や待合へと出向くようになった。詳らかなところは、わからない。本人が、頑なに言いたがらなかったんです。多分、実技演習、売り込みみたいなことも、してたんじゃないかなあ、と推察しているよ。赤鳳楼は、女子専門だからね。男娼になってからも、ホテルや待合、よその妓楼、邸宅と、出向いてばかりでした。
雨が正式に男娼になったのは、九歳の冬でした。お誕生日が四月だから、ほぼ、十歳かな。
早熟だった。
言い忘れてたけど、雨も、僕の青空授業には来ていました。赤鳳楼に来た頃から、他所に出向き始める前までは顔を出してくれていた。ノオトと鉛筆を持って、いつも、僕の目の前に陣取っていた。
最初の頃の雨は、もちろん文字も読めなかったし、言葉もあまり知らなかった。お父さん、お母さんが、わからなかったんです。
吃驚でしょ?
いったい、どういう環境で育てられたんだ? と、いつも疑問でした。利き手すら、わからないような子だったんです。まさに、右も左もわからない子ども。戦争孤児が多かった色街の子どもたちの中でも、雨は飛び抜けて、異常でした。
ただ、飛び抜けて秀才でもありました。
僕が住み込みで働いていた頃、雑居部屋の雨の枕元には、大人が吃驚するような本が、山のように積まれてありました。
いったいどこで見つけてきたのやら。『資本論』『完全なる結婚』『あらたま』『戰争科学の基礎』『世論』『ドゥイノの悲歌』その他諸々、異国語の本もたくさん積まれてありました。英語、仏蘭西語、日本語、獨逸語、露西亞語。医学書なんかもありました。もちろん、色んな国の辞書も、枕元にはありました。
ちなみに、その山頂にいつも置かれていた『The Book of Lies』という本は、「多分、魔導書?」だそうです。よくわからないから、つい読んでしまうのだそう。先生も「どれどれ?」と、偉そうにぱらっと開いてみましたが、目次らしき頁で回れ右です。
赤鳳楼に来た頃は文字の読めなかった子どもが、二年後には、こうなのよ。僕の教えなんて、必要なかったかも知れない。
その雨が、娼妓になった。
忘れもしない、一九二九年正月十一日。
最初のお客さんは、僕でした。雨が、よりによって、僕を指名してきたんです。
今日のように電報で呼び出された僕は、赤鳳楼で、楼主さまから雨の独り立ちを聞かされました。今日の相手は、雨だよ、ってね。
さすがに、早すぎる。
そう物申したら「本人たっての希望だ」だなんて、無慈悲なことを仰る。
大の大人は、大たじろぎですよ。
「頭、大丈夫?」
言ったところで、本人には当然の如く、「大丈夫ですよ」と、かわされてしまう。その仕草はしっかり、嫣然として居りました。雨はその頃にはすっかりと、ちいさな大人になっていたんです。まるで無限真綿のような吸収力で、丸四年の妓楼生活から、エロスも世情も、常識も智識も、経験も、何もかもを蓄えて、こちらが慄然とするしかないほどに、雨は大人以上の子どもになっていた。
それでも。
「来てくれて、良かった」
そう胸襟を撫で下ろした君の幼な顔も、その体も、どうしたって、未成熟な子どもでした。
牡丹柄の装衣に身を包み、髪を一人前に結えたところで、あなたは子ども。
「もっと、大人になってからじゃ、ダメなの?」
男色や子どもにも、悲しいかな、性の需要があることは、知ってるけれど。
先生には、必要ありませんよ。
「僕は、男の子なので」
雨は、空いた盃に新酒を注ぎ足して。
「男には、三つの旬があります」
そう、婀娜やかに笑っても。
「子ども、声変わり、それから、大人」
お月さまの目は、何も笑っちゃいません。
そうして口許の薄笑みを消さないまま、雨は、摯実な言葉を紡いでいきます。
九歳の、子どもです。
「僕は、娼妓になるために赤鳳楼にきました」
やめてよ。
「その凡てを使うことが、使命です」
逆に、遅すぎたぐらいです。雨は、そう付け足した。
「莫迦なの?」
精一杯の返しです。やめてください。
娼妓になるのは致し方ないことなのかもしれないけど、それでも、自分をもっとちょっと、大事にしなさいよ。
その年で、そんな、自分を諦めること、ある?
「莫迦かも」
雨は一瞬、子どもの無邪気さに戻って、それから、より大人になりました。
「楼主さまが僕に費やした金額は、金十五萬円だったと伺っています」
慄っとした。
「僕の倫理は、『それを返すこと』です」
「で、」
すっかりと疲れ果てた僕と絢ちゃんは、口づけを交わしながら、お蒲団の中で、ひと休憩です。
「なんで雨が、ふつうな僕をご指名したかというと、」
目が、綺麗だから。
だったそうなんです。
「どう、思います?」
先生は、それがいちばん、いつまで経っても意味不明なんです。
九歳といえど、相手はあの、書物山積み雨ちゃんですからね。
何かの暗喩。
深い意味でも、あったのかな、と思う次第です。
どうでしょうか。
「うーん、」
僕と三度の性交を終えた絢ちゃんは、草臥れたその姿体を、僕へと絡ませる。
「わかりませんけど、でも、そうですね」
僕の唇をやさしく奪い、
「ほんとうに、目が、お綺麗ですものね」
僕の目を覗き込む。決して、美男子という意味ではありません。僕の目の色は、水色なんです。
この国では割と珍しいけど、雨には敵わない。
「でも、それだけでも、なかったのだと思いますよ」
絢ちゃんの手が、僕の下腹部へと伸びる。「照れ隠し、」それは、あるかも知れない。
「あとはやはり、不安だったのではありませんか?」
いくら撫でても、しばらくは起きませんよ。
「先生がふつうの方だとわかっていても、初めての殿方は、見知った方が良かったのではないでしょうか」
だって、雨さまは、未幸さまの禿として、先生の『行い』を、見ていたのでしょう?
絢ちゃんの問いには、イエスだ。
部屋の隅で、雨は、僕と未幸ちゃんの、けだものと化した姿を見ていた。
まるで、猫みたいでしたよ。
「その時は、『した』のですか?」
「したよ」
する気は、さらさらありませんでした。だって、九歳の男の子だもの。線も細かったし、小柄だった。
雨が、壊れちゃう。
さっさと飲んで、はぐらかして帰ろう。そう思っていた。
「それならば、なぜ、同性の雨さまと『しよう』という気に、なられたんですか?」
ああ、肝心な命題に、やっぱり突っ込んでくるか。
ふつうだった僕が、同性の、それも九歳の子どもと性行為をした理由。
正直に、話しましょう。
「あの時は、腹が立って、」
僕の倫理は、ただ『それを返すこと』です。
「それが、ただただ、腹立たしくて」
本当に、分かってるの?
見知らぬ人に犯されるということが、どういうことなのか。その心が、体が、どうなってしまうのか。
性病をもらいますよ。心だって、壊れるでしょうよ。
「わからせてやる、って、なったんです」
あんな劣情は、初めてでした。
「雨を、壊しました」
絢ちゃんの手が、動くのをやめた。
「でもね、」
起き上がる。このままだと、あの日の凡てをぶちまけてしまいそうだ。
君の本当は、誰も知らない方が良い。
「雨は、毅かったんです」
彼は凛然と、色街の闇い海を泳ぎ始めました。あの子の訣意は、固かった。
それから先は、絢ちゃんもご存知のとおり。
「十一歳の春に宵花さまになって、引退する十四の春まで、ずっと宵花さまだった」
伝説とまで呼ばれる、孤高の存在となりました。
ちなみに、雨が髪を結ったのは、その初日だけ。あとは、宵花祭の時だけでした。
「どうしてだと思う?」
蒲団に身を投げ出したままの絢ちゃんの毛先に触れる。絢ちゃんは虚空へ、視線をくるりとさせた。
「禿、」
正解です。さすがだね。
「雨は、ちいさな策略家でね」
ちいさな、大人。
「僕、あの日、衝動的に雨の髪を崩したんです」
僕の知る、雨じゃなかったから。
お高くとまった、僕と敬語で話す雨を、もとの禿の雨に、戻したんです。
「その方が『需要がある』と、思ったそうよ」
雨の言っていた、三つの旬のひとつめ。
「子ども、」
でも、口を開いたら、大人。
雨はその戦略で、荒らかな海原を泳いで行った。
「顧客の多くが、政財界の方々だった」
これは、風の噂です。
絢ちゃんも身を起こして、顔が、すっかりと仕事人です。
「少しは、協力しましたよ?」
言うと、ああ、と、低い声色。「政財界、」
これが、絢ちゃんの本当なんですね。先生、ちょっと、女はやっぱり怖いぞ、と思いました。
「ありがとう。ああ、」
執り成して。
「佳い、お話でしたわ」
僕に、最後の口づけをしてくれました。「もし、雨さまにまた会えるとしたら、」絢ちゃんが、僕の水色の目を覗き込む。
「何をお望みになりますか?」
そうね。
赤鳳楼の天井の先にある、見えない月を、想像する。
「抱く、かな」
大抱擁です。
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