酔って思ったことを連綿と書き残す33「123」
はしがき。
みなさん、「新ハムレット」をご存知でしょうか。
敬愛なるD先生が、ハムレットを改変した作品です。1941年7月の刊行。太平洋戦争勃発、数ヶ月前です。
私はもちろん、戦争を体験してないし、いつから文学統制が行われていたのか、なんてことも知らないけど、D先生は真珠湾攻撃の日のことを作品にもしています。太平洋戦争が始まる前から、戦争の演習はあったようなのです。
となると、いわゆるお上からの「発禁処分」というのは、ちゃんとしたことは知らないけど、大戦以前にもあったのでしょうね。
そういう時勢の作品だと思って「新ハムレット」を読むと、もはや、D先生が預言者のように見えてきますよ、と。
ちなみに、太平洋戦争に関しては、かつて私が結婚していた相手の義父が(もうお亡くなりになりましたが)、東京大空襲を生き延びた人。計算すると、義父が19歳の時ですね。体が弱く、お国のために戦うことはできなかったそうです。歌手でした。酔うといつもセントルチアを歌うので、義兄弟に「ルチア」と呼ばれていました。
立場上、お父さんと呼んでいたけど、心の中では今でもあの人は、ルチアです。本当に、いい人でした。
故人の義母は、看護師として戦地へ行っていたそうです。
重度の認知症でしたが、肺炎で病院に搬送された時、「〇〇(薬の名前)は打たないで!」って、と、専門用語をザアザアと言い始めて、周りの看護婦たちをざわざわさせていましたね。
私もびっくりしたよ。
覚えているのは歌と、氷川きよしだけだと思っていた。
戦争当時のことは、酔った義父から色々聞かされました。義母は先述の通り認知症でしたので、義父から聞きました。誰もが戦争を、自国の日本そのものを疑っていた。それが、口癖でした。
相手が私より13歳年上、相手はご両親が40代の頃に生まれた子だったので、そういうことが、成り立ったのですよね。私の実父母は、戦争を知りません。
私が昭和に惹かれるようになったきっかけは、義父母のおかげ。義父の語る昭和。認知症の母が歌った昭和の歌。あとは、その時に住んでいた横浜の街。
そこは、大戦後の闇市が、そのまま街になったものでした。
街の入り口にすき家がありました。
そして、私の改変は、ただ行き詰まってる己の小説を、酔った勢いで滅茶にぶっ壊している、そういうものです。
前回に引き続き、「スコーク77」の2章目、「123」の、酔っ払いバージョンをお楽しみください。楽しくは、ないか。つまらないものです。
物語の続きは、行き詰まりつつも、今、懸命に、考えてはいます。いいことを、思いついたのですよ。
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スコーク77(2)「123」
黙々とした雲たちの、民族大移動。
but a certain amount of danger is essential to the quality of life.
子供の頃、僕はリンドバーグの言葉が好きだった。
写真も見たことあるけど、あれはモテただろうなあ。イケメン、って、いうのかい? シュッとして、シュッとしてる。
プロペラ飛行機の前で、まるで宝田明のようにスックと立ち、左手だけをポケットにしまっている。
「しかし、 適度な危険は人生を豊かにするのだ」
なんて、かっこいいんだろう。
僕は臆病だった。僕はいつも、お追従ばかり。勉強しなさい、と言われれば、はい。早く寝なさい、と言われれば、はい。
赤ちゃんの頃はどうだったか知らないけど、物心ついた時にはもう、僕は、悪いことをしたくない子供だったと思う。叱られるのが、厭だった。怒られるのが、怖かった。出来損ないで体の弱い、人見知りの、もじもじ、とした子供だった。
親や兄、姉の言いつけとおり、川には決して飛び込まなかった。
日が暮れるまでに、必ず家に帰る。9時には寝る。
子供達がこぞって遊びに行っていた、あの戸倉山の秘密基地にも、僕は、一度も行かなかった。総スカンを食ったものだ。
ヘタレ、泣き虫、うんこ。
誰になんと言われても、僕は、冒険を頑なに拒んだ。
だって、怖かったんだもの。
川に飛び込んで、岩に足が引っ掛かったら、どうするの。頭をぶつけて血が出たりなんかしたら、失神しちゃう。日が暮れて、一人で外にほったらかしにされたら、どうするの。畦道で足を踏み外して、畑の作物を潰してしまったら、どうするの。
ちなみに、戸倉山の秘密基地は、山の中腹の、とても大きな大楢の股に、大工の息子の櫻井くんが丸太で小屋を設えたもので、縄梯子をよじ登って入室するそうだ。中へ入ると、誰かが家から掠めてきたカストリ雑誌が、たくさんあるのだという。
あれは、いいぜ。
いくらそう言われても、僕が縄梯子なんかに登ったら、身動きできなくなって、それだけでみんなに笑われてしまう。風に煽られる縄梯子の上で、高い! なんて、ガクガク、と震えて、お母さん! おばあちゃん! なんて叫びながら、挙句、腰から落っこちて、うんこなんて漏らそうものなら、いい迷惑ものだ。うんことまではいかなくても、そそっかしい僕は、縄梯子や小屋を、うっかりと壊してしまうかもしれない。櫻井くんの家の面目が潰れてしまう。
そうなるよりは、学校で、帰り道で、うんこ、と呼ばれても、僕はいいと思っていた。本当にうんこを漏らすよりは、マシ。僕は、どうにも情けない男子だった。
カストリ雑誌に就いては、父の離れの書斎にあるのを見つけて、ひとまず満足した。えっちだった。すごかった。内緒だよ。
でも、リンドバーグのあの勇敢な言葉の数々には、あの立ち姿には、そんな諦めを含みつつも、どうにも憧れないわけにはいかなかった。
いつか、あんなふうになれたなら。
ああ、なんて、陳腐な憧れ。
How beautiful the ocean is; how clear the sky; how fiery the sun!
Whatever coming hours hold, it's enough to be alive this minute.
僕には、程遠い世界。
初めて空を飛ぼう、と思ったのは、大人になってからだった。
飛ぼうと決めて、その階段を登った。場所は東京だった。今でも有名なホテルだ。呑気なものだった。端金を投げ打って、ご叮嚀にも宿泊して、初めて自死しようとしたのだ。カッコつけてね。
ビルの屋上に上がった時の、上空の風の強いこと、強いこと。
加えて、繰り返すまでもなさそうだけど、僕は、高所恐怖症だった。2階の窓から下を見下ろすだけでちびっちゃうような弱い男が、ホテルの屋上から飛べるはずもなかったんだ。
僕はあの時、腰が砕けて、本当に、お漏らしをした。
あの日、僕は、景気付けにビールをたくさん飲んだ。その日本一高額なビールの残滓が、僕の足元に、大きな水たまりを拵えた。情けなくて、笑っちゃった。リンドバーグは、ちびったり、しなかったのかなあ?
ちょっとはちびったに決まってる。
自死は、放尿の末、未遂で終わった。
あの時に、空を飛ぶだなんて、ましてや冒険だなんて気狂いの所業だと、目が醒めたんだった。
32歳の春のことだ。
英語教師も、その年に辞めた。
今は、何歳なんだろう?
忘れてしまった。
兎にも角にも、今、僕が見ている景色は、僕にとって、夢の世界だった。
分厚い窓越しに、真っ白な主翼が見える。航空会社の名前が、アルファベット3文字で、青く誇らしげに刻まれている。
眼下は、灰白の雲海。空は、どこまでも果てしない青。
目の前には、たくさん並んだエコノミークラス。
僕は、飛行機の中にいた。
僕が、空を、飛んでいる?
あれ? と、思う。
いつの間に、飛行機に、乗ったんだっけ?
はてな。
いや、だって、飛行機に乗る過程には、いろいろ、あるでしょう。
まず、飛行場へ行く。チケットを、買う。お土産だって、買うかもしれない。物珍しいものがたくさん売っていて、夢中になって、フライトの時間ギリギリになってしまって、慌ててしまうかもしれない。
辿り着いた搭乗口で、チケットをもぎってもらう。もぎるのかな? 渡すのかな? よくわからないけど、そのあとで、手荷物検査を受ける。ああ、でも、チケットと、手荷物検査、どっちが先なんだろう? 荷物を預けるのは、いつ?
それから、搭乗通路を渡って、乗り込む。
空へと飛び立つ。
僕、何も、覚えてないんだもの。
大体、どこに行く飛行機かすら、分かってない。
今、何を呑気に、リンドバーグ云々を、秘密基地云々を考えていたのかも、もう分からない。
そしてどうしようもないことに、ここにきて、眼前に広がる天空世界よりも、父の書斎にあったカストリ雑誌が、猛烈に読みたい。
そんな助平な僕が、空を、飛んでいる。
頭の中が、なんだかとっ散らかってるけど、目に見える頭も禿げてとっ散らかってるけど、ふと思った。
ここまで上空だと、高所恐怖症も何も、へったくれも、ないらしいや。
ただ、綺麗なんだもの。
テレビや写真で見た、飛行機の中から撮った景色が、僕の視界に在るだけ。
感動というか。
ああ、本当だ、という、気分。
本当に、こういう景色なんだねえ。電車や車より、怖くないかも知れない。
僕、一度だけ新幹線に乗ったことがあるんだけど、もう本当に怖くて、上野から飯山まで、寝た。外を見たら、おしっこちびっちゃう、と思って。
だって、ビュンビュン、飛ばすんだもの。
車体と車体がすれ違う時の、あの揺れ。あの速さで、近距離で、ガガガガガガ! って、すれ違うんだもの。怖すぎて、フリーズしてしまった。トンネルに入った時には、たまりかねて叫んじゃった。食べていたかまぼこを、前の座席に飛ばしちゃった。背面に当たって床に落ちたから、よかったけれど。
あの時、確か、フジが横にいたんだよね。ごめん、ごめん、って、抱きしめてくれた。フジというのは、僕の友達だ。
「東海道新幹線の、のぞみよりはマシだよ。森さんがのぞみに乗ったら、絶望だ! やら、インフェルノ! って、叫びそうだね」
インフェルノ、って、何?
僕は、帰りは車で、高速道路で帰った。
高速道路も、それ一回きりだ。あれも、本当に怖かった。フジが、ビュンビュン、スピードを飛ばすんだもの。殺される、って思った。
でも、飛行機は、なんだか大丈夫みたいだ。僕は今、実に悠々と、空を飛んでいる。
想像で、飛行機って、もっと鳥目線で、空をビュンビュンと飛んでいるぞ! という体感なのかな、と思っていたけど、存外、柔らかかった。
遅い。
というか、前に進んでもいやしないじゃないか、とすら思える。なんだか、ポカポカと浮かぶ雲のようだ。
ただ、眼下の、ポカポカと浮いている雲を眺めていると、ずんずんと、模様が変わる。ああ、あの灰色が、あっという間に、違う灰色に! あ、ちょっと今、何か、街みたいなのが見えた!
世の中の人たちからしたら、何を今更、なんだろう。
声高々に言われても、無感動だろう。
僕も今、すごく無感動だ。
ただ、止まっているようでいて、きっとものすごいスピードで、飛行機は飛んでいるのだ。新幹線や、車よりも。だって、半日でニューヨークまで行くんでしょう?
度を通り越すと、人は麻痺する。
リンドバーグ、然もありなん。
つまり、程々が、いけないのだ。
速いなら、とことん、速く。それが、冒険の本質なのかも知れない。飛べば、楽ちんだったのだ。
そう思うと、例のことが悔やまれた。
子供の時、あの秘密基地に行ってしまえば、縄梯子を空飛ぶ飛行機のように登りさえすれば、今のように穏やかな心地で、カストリ雑誌をたくさん読めたのかもしれない。秘密基地から下を覗き見ても、怖くないと思えたかも知れない。自死だって冒険活劇のように、笑いながらできたのかも知れない。そういえば、あの小屋には、何やら、とんでもない雑誌もあったそうなのだ。サド、マゾ。
父の書斎に、なかったもの。
一体、誰のおやじのカストリ雑誌だったのやら。
門前くんちかな?
「それは、私も見てみたいな」
雲が、そう言った。
悠然と空を飛びながら、僕は冒険の真実とは別に、段々と、もう一つ、霹靂の真実に気づきを見つけた。
退屈だ。
空の上は、存外につまらない、ということだった。
父のカストリ雑誌や、秘密基地のカストリ雑誌に思い耽るほどに、上空の景色は、ただ、単調だった。
人とは、なんて贅沢な大莫迦もの。
感動して、慧眼して、飽きて、カストリ。
なんて、俗物!
次、こんなふうに飛行機に乗ることがあったなら、もし、事前にわかっていたなら、僕は、迷わず寝るだろう。
前の日にさんざ夜更かしをして、たらふく酒を飲んで、搭乗する前におしっこをきちんと出し切って、寝るだろう。
今は、眠くない。
いや、いっそのこと、次は、リンドバーグの本を買って、空旅を洒落込むのも一興かもしれない。リンドバーグ、もしくは、宮沢賢治の名著。それらを持ち込んで、智識者ぶって、ロイド眼鏡を引っ掛けて、パラリ、とページをめくる。ページをめくる速度は、ゆっくりだ。思索に耽るフリをするんだ。目は、眠って。
背広、ハッチング帽、ロイド眼鏡、私立探偵よろしく、パラリ、パラリ。
そして、何かを閃いたフリをして、窓の外を見遣る。
徐に筆記具を持ち出して、「愛する人が、雲の下にいるのね」なんてメモを書き記す。筆記具は、鉛筆でいいだろうか。いや、そこはちゃんとした万年筆でしたためるべきだろう。
そんなことをずんずんと考えていたら、リンドバーグや宮澤の列伝以前のエンドロールが、僕を待っていた。
まず、ちんちくりんな僕が背広を着たならば、それはただの喜劇役者。浅草の劇場の前座で、オドオドとネタを披露して、誰からも笑われずに、すごすごと舞台袖に下がる、悲しいピン芸人。ヂスイズ前座。
ハッチング帽。
サイズが大きすぎて、視界がなくなるだろう。
ロイド眼鏡。
恵比寿目の僕は、へのへのもへじのへに丸を描いただけの顔になるだろう。
私立探偵。
この容姿の僕に原稿を依頼をしてくるようなクライアントなんて、いるものか。大体、頭も良くない。
万年筆。
買ったとしても、使い方がわからず、しどもどして、挙句壊し、インクを股間にぶちまけるだろう。
そうして、コメディアンとしてのエンドロール。それも、まるで笑えない。絶句だ。僕は、ロマンチシズムの前に立ち塞がる、鉄壁のアントだ。
なんとも、様にならない!
せめて僕が、宝田明のように、かっこよかったなら!
ああ、もう、止そう。
現実に戻ろう。現実もろくでもないけど、妄想上の僕は、もっとろくでもなかった。
現実。
腰が痛い。
禿げている。
空を、飛んでいる。
そういえば、全然、話し声が、しないな。
あまりに暇で、僕はようやくそのことに気づいた。
機内は、殆ど無音だった。
心に、余裕ができてきたのかも知れない。
聞き耳を立てると、枯葉が擦れる程度に、遠くで誰かが、もそもそ、と、喋っているような気はする。そう聞こえるだけで、あるいは気のせいかも知れない。妙に、しんとしている。あと、音じゃないような、背中を掻くような、そんなあるかないかのような音が、連続している。これが、空を飛ぶ音なのだろうか? それとも、みんなが一斉に、背中を掻いている? そんなはずは、ない。
ああ、なんだか、背中がむず痒くなってきた。間寛平だ。
左横に、子供がひとり。
僕は急に、そのことにも気づいた。隣人が誰、だなんて、全く気にとめてなかった。
なんだか、急に、その子供が隣に座った。天使が空から落っこちてきて、ここに座った。まるで、そんな感じだ。
いつの間に? である。
青い長ズボンを履いた、男の子のような格好の、おかっぱの女の子。
窓にぴったりと、顔をくっつけている。キャアキャアとはしゃいて、足をばたつかせている。
あれ? さっきまで僕、そこに、座ってたと思うんだけどな。
年をとると、いけない。座席も、わからないのか。
5歳ぐらいの、女の子。
ゴホン。あー。
Ladies and gentlemen, this is your captain speaking.
Thank you for flying with us today.
なるべく機長っぽく、ディカプリオの真似をして、実際には、キャプテン、と言おうとして、随分と噛んだけど、ペラリと機内アナウンスをした。
そしたら、外の景色に夢中な女の子が「何事か」って、振り返るかな、と思ったのだ。
実際は、何も起こらなかった。
女の子は、僕を振り返らない。子供でも、僕を、振り返らない。こういうのを、芸が滑る、というんだ。努力して人を振り向かせてはならない。
僕は、悲しくなった。でも、頑張ったよ、僕。頑張って、ペラリとしたんだ。英語を喋るの、久しぶりだったから、ちょっと考えたんだよ。もっと色々と喋ろうと思ったけど、自信がなかった。
女の子は、空に夢中。大人のことなど、どうでもいいんだ。
途端に僕は、人見知りの、いつもの僕になった。
「お、おおおおおお、お父さんは? お、おお、お母さんは?」
空港に、お迎えの人は来てるの? とまで、とても言い切れなかった。人見知りは、いけない。最後まで、言えないのだ。
だって、でも、こんな小さい子が、一人で飛行機に乗ってるんだもの。それを見ちゃったら、誰だって、「どうした?」ってなるでしょう? だから、そう、声に出しちゃったんだけど、それも、無視された。
女の子は窓の外の雲に、無我夢中。
窓にちっちゃい顔をくっつけたまま、短い足をバタバタとさせて、鼻歌を歌っている。これは、あれだ。真っ赤なお鼻のトナカイさんは、だね。
ねえ、トナカイって、花粉症じゃないかな?
そうも話しかけてみたけど、どうやら僕とこの子は、別次元の住民らしい。
僕は、諦めた。
それからずっと、延々と、僕は、その女の子の愛らしい足で、左膝を蹴られ続けた。空の退屈さに比べれば、まるで飽きない。逆になんだか、楽しかった。鼻歌は次々に、僕の知る歌、知らない歌へと移り変わる。ドラえもん。何、その曲? これは、もしかしてクレヨンしんちゃんかしら? 真逆の、荒城の月?
にしても、女の子が真隣で、こんなにも大声で歌っているのに、さっきまで僕は、なぜ、まるで気づかなかったのだろう?
おかしなものだね。
女の子のスニーカーは、よくよく見ると、きっと外遊びが好きなのだろう、薄汚れて黄ばんだ白だった。
気づくと僕は、もじもじしながら、その女の子の背中に手を添えていた。
とても温かい。
手を添えても、その女の子に僕は、悲しいかな、毛穴ほどにも気にもされちゃいなかった。大人しく知らないジジイと抱き合って、はしゃいでいる。お歌が、上手だね。
でも、今って、そういうことしちゃだめなんだってね。知らない子供を触ったら、その人は危ないんだってさ。
でも、自分の子供に、ウサギやクマの帽子を被せるよりはマシだと思うけどな。
言いすぎました。
「私も娘にクマの帽子被せてたわ」
雲が、また喋った。
ごめんなさい。君は、お母さんなんだね。
クマの被り物、可愛いよね。でも僕は、赤ちゃんは、裸体が一番可愛い。プリップリの、おちんちん。
言いすぎました。気をつけよう。
気を改めて、視線を機内に移そう。
エコノミークラスが、ぎっしりと詰め込まれていた。座席は、空よりもずっと面白かった。空よりも人の方が面白いなんて、変だね。通路をはさんで、3、4、3。横一列に計10席。それが、びっしりと機内を埋め尽くして、そして、座席と同じ数の黒い頭頂が、座席から飛び出ている。それが、面白い。
座席の頭頂だけをじっと見ていると、まるであけすけで、無防備で、チラチラと動いて、なんだか、ゲームセンターのネズミ叩きゲームのネズミのようだ。無性に叩きたくなる。意地悪、してみたくなる。この頭頂の数だけ人生があるのだと思うと、妙だ。敬虔な気持ちになる。とんだアメリカンジョークだ。
禿頭を数える。11人だった。
「これはね、ジャンボジェットだよ」
ジャンボジェット。
「確か、五百人ぐらい乗れたんじゃなかったかな?」
すごい。じゃあ、この中に、五百人もいるんだ。
そう考えると、禿は、希少だ。たった、11人しかいないんだから。
退屈なので、やっぱり、煙草が吸いたくなった。
慾望のままにセブンスターを弄る。煙草も、ライターもないなあ、と思っていると、キャビンアテンダントがこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。僕を、注意しにきたのかな?
綺麗だった。
むっちりとした体に、紺の襟付きワンピース。赤いベルト。縞模様のスカーフ。紺に赤裏地のキャップに頭髪を埋め、赤い口角をキュッと上げて、おっぱいの大きい、そんなキャビンアテンダントが、僕に、にっこりと笑いかけてくれる。
ああ、なんて僥倖。なんていう、美しさ!
こんな世界があるなら、僕はもっと早く、飛行機に乗ればよかった。かのリンドバーグだって、こんな未来を予想し得ただろうか。彼にも見せてやりたかった。
一体、誰がこんなシステムを、考案、構築したのだろう?
その人こそが、真の英雄じゃないだろうか。
エロスの世界において。
思わず手を挙げて、そのキャビンアテンダントを呼び止めた。僕の傍に、具現化された美が止まる。特に聞きたいほどでもないけど、あの。
「こ、これは、どこに」
行くんですか。でも、知りたかったんだ。僕たちは、どこへ向かって飛んでいるのか。行先が沖縄なら、ソーキ。北海道なら、蟹。
でも、「どこに、」そこまで口にした時、僕の左腕にぎゅ、と、可愛くか弱く、掴む力が加わった。
見遣ると、春紅楼の、なんて歌っていた、あのおかっぱの女の子だった。僕に、抱きついている。ぺたんこの胸がやっぱり温かい。
やっと、目が合ったね。無邪気に笑っている。「カナンだよ」
この子の名前かな? 随分、変わった名前だ。
「か、かか、カナンちゃん? お、お父さんとお母さんは、」
「ちがうよ」
何が。
「私はミヨコ。ミ、ヨ、コ」
僕は混乱する。ミ、ミヨコちゃん? じゃあ、カナンは、誰?
「カナンはお母さん」
ミヨコは、両足をパタパタとぶらつかせる。自信満々だ。
ああ、なるほど、と思う。
きっと、お父さんがお母さんのことを「家内」と言うのを、カナンだと覚えたんだ。カナンじゃないよ。
「ミヨコちゃん、それはね、」
パーン!
その時、乾いた破裂音が、機内を支配した。
まるで、数十メートルの巨大風船を割られたような、風圧と音圧。
異常。
煽られ、耳を劈かれ、ガクン、と体が下へと落ちた。それから左右に大きく揺さぶられて、機体が右へ、大きく傾いだ。宙に浮く。
B♭、F♯。B♭、F♯。B♭、F♯。
けたたましい、警報音。
天井から、何かがバラバラと落ちてくる。それは、銀紙に巻かれた、正方形のギフトボックスだった。藍色のリボンで、デコレイトされている。ギラギラと輝く包装紙は、外光を乱反射させて、傾いた機内に数多の光線を演出した。まるで、ミラーボールみたいだ。なんで、こんなもの! 訳が、分からない。
「運命の、イタズラ」
僕は、咄嗟に手前の座席にしがみついた。重力が、僕を振り回す。「いやあああああああ!」情けない悲鳴は、僕だけのものだった。可笑しなほど、誰の悲鳴も、聞こえない。
し、死んだ?
みんな、死んでる?
ぐるりと機内を見渡すと、同じように座席から弾かれた人間たちは、ガラガラ、バラバラ、と、物質音を立てながら、ギフトボックスと共に、右方へ、機首の方へ、どんどん、雪崩れ落ちていた。積み重ねられてゆく、マネキンの山。プラスチックの腕や足が、捥がれている。はなから、生きていない。
え、じゃあ、ミヨコちゃんは?
最早頭上になった左翼側を見上げると、ミヨコちゃんの姿はなかった。
キャビン、ア、アテンダントは?
キャビンアテンダントは、僕の膝の前で、平行に佇んでいた。
笑っている。
その後ろに、ミヨコちゃんがいた。
二人とも平行になって笑っている。
生きていない。
そうだ、この人は、このキャビンアテンダントは、せっちゃんだ。
僕の初恋の人。37年前に、自殺した。
お腹の中の子供と一緒に。
F♯、B♭、F♯。
ただ今、緊急降下中。ただ今、緊急降下中。マスクを、強く引いてつけてください。ベルトを、締めてください。煙草は、消してください。ただ今、緊急降下中です。英語の音声。
B♭、F♯。B♭、F♯。B♭、F♯。
ただ今、緊急降下中。ただ今、緊急降下中。マスクを、強く引いてつけてください。ベルトを、締めてください。煙草は、消
「笑うな!」
僕は一喝した。掴んだ座席をよじ登ろうと、目一杯に右足を振り上げる。それが、せっちゃんに当たった。せっちゃんは、パタリと倒れた。ミヨコちゃんが、せっちゃんという支柱を失って、右方へ落ちていく。
僕の子供。ミヨコ!
「カナンだよ」
落ちながらミヨコが笑う。カナンだよ。
下中です。B♭、F♯。B♭、F♯。B♭、F♯。
警報音が鳴り続ける。
ds you, put mask over your nose and mouth. Pull the mask towards you, put mask over your nose and mouth.
Extinguish cigarett
一振りの激しい振動で、僕の手も、座席から見放された。脚から機首へと、落ちていく。マネキンの、ガラクタの中へと落ちてゆく。頭が、背中が、何かにぶつかって、まるで、ピンポンボールだ。Extinguish cigarettes.
Extinguish cigarettes.
僕は、セブンスターの箱を咥えて、火を点けた。
轟、と燃え上がる。
熱い! 投げ捨てる。
マネキンの屑の上に落ちて、轟、と燃え広がった。
小さな、火の海。そのうちに、大きな火だるまになるだろう。
もう、だめだ。
僕は、でも、初めて知った。セブンスターを投げ捨てる前に、愛する煙草の本当の名前を知ったんだ。
本当の名は、SEVEN STARS。
複数形だ。
こんな当たり前のことに、どうして今まで、気づかなかったんだろう。愛煙者、失格だ。
B♭、F♯。B♭、F♯。B♭、F♯。
警報音は、連続する。
火の海は、僕を子供に変えた。お母さんは、カナンじゃない。がむしゃらに、その姿を探す。
「お母、さん!」
母なる、海へ。
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