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2002年からの武術エッセイ

形意、太極、八卦・・・いわゆる内家門の技術は、書道でいうところの「行書」から入る。

打っては引く、かわしては突く。蹴っては逃げる。パンチとキックのコンビネーションを使う。打とうして打たない、蹴ろうとして蹴らない。蹴ると見せかけて突く、突くとみせかけて蹴る。
これらの技術は、書道でいうところの「楷書」である。
この「楷書」の修練なくして「行書」からはいるのは、非常に危険だと思う。
打ち合いの原点を知らずして、その応用を学ぶというのは、極端に言えば「机上の空論」である。

打ったらそのまま受けるために手を引かない。かわしてから突くのではなく、かわしながら突く。蹴ったら逃げるのではなく、そのまま脛や足を踏みつける。パンチとキックのコンビネーションを使う必要がないくらい相手の体勢を崩しながら攻撃する。相手が打とうとしたのをやめたら、そのまま波が飲み込むように、相手のからだをさらっていってしまう。相手が蹴ろうとしてやめても、おかまいなしに間合いをつぶして、ひっくりかえす。
これらの「行書」の技術は、「楷書」の経験なしには習得できない。

「楷書」の技術は、反射神経とパワーの世界である。
「行書」は、それを否定する世界である。
しかし、「楷書」のこともよく知らない人が、「楷書」を否定することなどできない。
「楷書」を書いたことのない人が、「行書」のほうが優れているといっても説得力がない。というよりも「行書」の技術が使えない。

そういった意味では、「楷書」の未経験者がいきなり内家門に入門し、「行書」の技術を学ぼうというのは、机上の空論や、誇大妄想を生む原因となる。
そして、「楷書」の技術を知らない指導者達ができあがり、初心者にさらなる机上の空論と誇大妄想を植え付け、しまいには「花拳繍腿」の造花や、「オタク」と呼ばれる頭でっかちのもやしのような輩を生み出す。
かくして、武術は、世間からうさんくさいもののように見られてしまう。

私の考えでは、現代人が武術をより深く学ぶためには、現代の格闘競技の経験が必要だと思う。
いわゆる「カラテ」「ジュ-ドー」「ボクシング」「レスリング」などである。
これらの競技の選手生命は短い。
なぜなら、反射神経とパワーは、歳とともに衰えていくからだ。
しかし、これらは、しっかりとした「楷書」の技術だ。

それから、「内家門」に入門して「行書」の技術を学ぶ。
それぞれの格闘競技で身に付けた動きのクセや、無駄な筋力を使わないようにするためには、最初からなにも学んでいない人に比べれば、すごく苦労すると思うが、それらの技術が、いままで信じてきたトレーニングの成果よりも大きな威力を発揮するという実感は、身にしみてわかると思う。
そうすれば、興味が尽きなくなり、時間はかかっても生涯追究していこうという人達が増えると思う。

そうなれば、この国にかつて、若者すら寄せ付けないじいさん、ばあさんがいたように、強い年寄りが増えることになる。
強い年寄りが増えれば、若者をしっかりと教育できる。

・・・・失礼!話が飛んでしまいました。

形意、太極、八卦・・・内家門の高級技法群であるが、「どつきあい」や「とっくみあい」の経験をしたこともない者が、「コンピューターゲーム」の延長として、あるいは何かの宗教の類として学べるほど、甘いものではないと思う。

2005年3月記す。

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