Memory Train「糸崎行き 普通列車」

山陽本線沿線でどこが好きですかと問われたら、ふたつあげられる。ひとつは岩国柳井間の由宇や神代のあたり。ここは列車がまるで海の上を走っているのではないかと思わせるほど、汀を走る。東京発の夜行寝台で来ると、ここで夜明けを迎え、明け方の静かな瀬戸内海の美しさを堪能できる。もうひとつは防府―徳山間にある「富海」あたりだ。富海は、とのみ、と読む。車窓から見える砂浜が晴々と気持ちいい。

 海沿いを走るイメージの山陽本線も、沿線の住宅化で海はどんどん遠くなっている。東海道本線もそうだ。海の光景を楽しめるのは小田原の「根府川」と浜松の「弁天島」くらいしかなくなった。あとは民家の上に海が広がる国府津か、用宗あたりか。由比などは高い防潮堤が目隠しになり、おまけに走行音が防潮堤に反響して最悪の数分間になってしまっている。

 防府駅(旧三田尻駅)を出発すると、列車はまもなく海岸線にでる。下関を出て初めて海を見る。ここから先は岩と松でできた海岸線で風景はいくぶん荒々しいが、初めての海に窓を目いっぱいに上げて、窓から頭を出し、夏の風を吸い込む。夏休みだ。ここから先が夏休みなんだ。

 しばらく海岸べりを走るといきなりトンネルに入る。車内に煤煙が入る。構わない。トンネルを出る。また海だ。またトンネルだ。しかも今度は2連トンネルだ。トンネルとトンネルの間に一瞬見える外の景色がひとコマの残像として残る。ここをもう何度通っただろう。でもそのたびに初めてのような気持がする。子どもにとっての夏は、去年の夏のトレースじゃない。

 しばらくすると目がゴロゴロしてくる。煤煙だ。もう目を開けていられない。窓を閉める。
「目が痛い」
「はいはい」
母が真っ白いハンカチの角にちょっとつばをつけて、私の下瞼、上瞼をひっくり返す。
「あった」
瞼がハンカチでこすれてちょっと痛い。
「ほら」
白いハンカチに小さなホクロのような漆黒の点が見える。
「ふう、助かった」

 私はもう窓を開けずに外をみる。長いトンネルを抜けると青々とした水田の景色に変わる。通過する駅のホームに「戸田」の駅名表示が見えた。
「・・・へた?」。変な名前。

 列車はあと二駅で徳山に着く。

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