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30年ぶりに読んだナウシカに見た、支配、利他、リーダー

 図書館に通って、漫画版「風の谷のナウシカ」を全巻読み直しました。先日読んだ「ポストコロナの生命哲学」という本にナウシカが非常に大きく取り扱われていて、久しぶりにまた読んでみたくなったからです。

ナウシカを知らない人へ

 宮崎駿作『風の谷のナウシカ』は劇場版と原作である漫画版では結末がまるで異なることは以前触れました。(その時の記事はこちら⬇️)

 ナウシカで描かれる時代は遠い未来です。簡単に言うと、人類が地球を徹底的に汚染し、自らの文明をも破壊し尽くして後、千年の時が経った時代の物語です。
 この時代設定そのものは誰でも思いつくようなものかも知れません。しかしその時代に生きる人間と地球環境の成り立ちについては、宮崎駿の人類に対する深い洞察と愛着がうかがえます。
 
 その頃地球上には「腐海」と呼ばれる菌類の森が発達しており、「瘴気」という(人間や動物には)有毒のガスを発していて、しかもその領域には森を護るように超巨大化した昆虫が生息しています。そのため人類は腐海を避けながら生活していますが、どうしても腐海に近づく時には防毒マスクが欠かせません。
 そして、潮風により瘴気から守られた土地に住み着き、平和に暮らす部族である「風の谷」の若きリーダーがナウシカというわけです。いつも風が吹いている風の谷では、気流の助けを借りて飛ぶ「メーヴェ」という凧のような乗り物が、優れた「風使い」であるナウシカのトレードマークです。

 ナウシカは内緒で腐海の謎を研究しています。猛毒を吐く腐海の菌類、その植生を護るように虫達がうごめく森。なぜそのようなものが存在するのか、それらを克服する手立てはないものか。腐海をメーヴェで飛び回り、菌類が放出する胞子を採取したり時には虫と対話しながら腐海を理解しようとするのです。

腐海を飛ぶメーヴェ

 しかしある事件をきっかけに、ナウシカは二つの強国間の争いに巻き込まれていきます。その戦禍で幾多の悲しみを経験し、傷つき、成長してゆきます。そして闘いの果てについに「腐海の謎」を知るに至り、そこでナウシカはその後の人類にとって極めて重要なある選択をします。ナウシカがどのような選択をしたのかはひとまず置いておきます。

民主主義は永遠か?

 漫画を読んでいて常に感じたのは、ナウシカの時代の風景は「中世」だなぁということです。私のイメージする「中世」が正確かどうかはさておき、ナウシカで描かれる社会はどうやら君主制のようです。
 物語の中で敵対する二大国家(土鬼ドルクとトルメキア)は共に皇帝や国王が統べています。なぜでしょう?
 
 我々は(一応)民主主義(或いは共和制)の社会に生まれて育ってきたいわば「民主主義ネイティブ」です。しかし考えてみれば人類の歴史全体を見た時には君主制の時代の方がはるかに長かったのです。
 
 ナウシカでは「火の七日間」と呼ばれる最終戦争で人類の繁栄の歴史は一旦リセットされてしまいます。それと共に社会体制も当然リセットされるわけですが、もしもゼロから人間社会がスタートし再び成熟する過程においては「強力なリーダー」つまり王とか皇帝となるような人物の出現が必然であると、この物語は示唆しているようでもあります。
 
 しかし権力はやがて暴走し、怒った民衆が君主を打ち倒し、民主主義社会が生まれるという歴史が繰り返されるのでしょうか。もしそうだとして、民主主義もやはり時が経てばやがて綻びまた別の社会体制に取って代わられるのか、或いは再び君主制に戻ってしまうのか?そんなことを考えながら約30年ぶりにこの漫画を読んでいました。

支配しないリーダー

 「君主制」といえば、どうしても支配する側とされる側という構図をイメージします。前述の二大国家、土鬼トルメキアも人民を巧みに支配しています。土鬼は”人心を読む”異能を受け継ぐ皇帝一族と宗教の力で。トルメキアは”王族”という絶対的なブランドと非情な武力の後ろ盾で。
 
 しかしそのどちらにも属さず自治権を持った部族も存在します。その一つが「風の谷」です。しかし500人程の集落が自治権を持つには大国の承認も必要で、風の谷は「戦役の際には兵を派遣する」という盟約をトルメキアと結んでおり、その盟約を実行する形でナウシカは戦場に赴いたのです。
 
 では風の谷はどのように治められているかというと、ナウシカの父であるジルを族長として、長老である"城ばば"や"城じい"達が祖先からの教えを伝え守り、おそらく集落の共有財産である畑や家畜でもって基本的に自給自足をする「共同体」のように見えます。
 決して族長ジルやその娘ナウシカに支配されているようには見えないのですが、村の者は皆ジルやナウシカに対する忠誠心に溢れています。つまり風の谷は、支配・被支配ではない、しかし一人のリーダーを頂点としてまとまって生活を営んでいる集団です。

究極の支配とは

 一方、究極の支配の方法を教えてくれるエピソードもあります。ナウシカの闘いの終着点は「シュワの墓所」といわれる場所ですが、そこには「火の七日間」で失われたはずの旧世界(私達から見れば未来)のテクノロジーを閉じ込め、密かに守り維持している場所です。
 
 実はシュワの墓所には侵入者を遠ざけるための罠があり、そこにナウシカは迷い込んでしまいます。罠といってもそこはなんとも気持ちの良い「」です。その庭の主はナウシカがシュワの墓所へ行かないようコントロールしようとします。
 「庭」は清浄な空気に満ちていて、柔らかく陽が差し、木々は繁り小鳥がさえずり動物達が戯れます。あまりの気持ち良さに闘いに疲れたナウシカは眠ってしまい、薬草の湯の中で目を覚まします。

「庭」で癒しに包まれるナウシカ

 なんとこれが支配です!支配されていると気付かれないのが最も強力な支配なのです。つまり相手の心に取り入っていい気分にさせて、あたかもその相手が自分で選んだかのようにこちらの思う方向に持っていくという手法です。
 実はナウシカがそこへ到達する以前にも、シュワの墓所を目指す多くの「挑戦者」がいたのですが、この庭で挑戦を忘れ、平和のうちに没していたのでした。

  しかし、成長したナウシカは強く、途中でその支配に気付き、拒否して強引に庭を飛び出してしまいます。すると庭の主も力づくで引き留めようとはせず「どうしても行くのだね」と諦めます。

完全調和の世界とは?

 もう少し詳しく言うなら、その「庭」は、墓所に保存されている人類の英知を駆使して作られた「完全調和」の庭でした。それはつまり争いや悲しみや憎しみのない、完全に平和な世界です。
 ここから「スマートシティ」という言葉が思い浮かびました。ICTやAIの技術で人間の生活に必要なあらゆることが「最適化」された街をつくろうという試みです(多分)。これに加えて人間の心にまで侵入し「負の感情」を書き変え「最適化」してしまうのがこの「庭」であると言えます。

 しかし想像してみてください。悲しみのない人生をあなたは生きたいですか?憎しみのない世界で一生を過ごしたいですか?その世界では、現実空間はもちろん、映画を観ても本を読んでもネットを見てもネガティブなことは一切登場せず、「苦労」すら存在しません。我々はそういう世界に住みたいのでしょうか?
 いやもちろん、紛争地域に生まれ、肉親を無惨に殺され、難民として食うや食わずで放浪しながら子供から大人になったような人なら、憎しみや悲しみのない世界に生まれたかったと心から思うかもしれません。しかしそれもバランスです。
 
 告白すると、私も毎月の収入の不安や、そこから想定される老後の不安に時に押しつぶされそうになりながらどうにか暮らしているのが現状です。本当は「Basic  Income プリーズ!」と叫びたいです。
 しかしそれでも「ネガティブフリー」或いは完全に「ストレスフリー」な世界で果たして生きられるかどうか、自信がありません。まぁ、そんな世界は我々が生きてるうちにはやってこないので心配ないのですが…。でも人類は必ずそこを目指すだろうと私は予想していますし、ナウシカもそのような世界を予見しているという点で共感しまくるわけです。

 最終的にナウシカの手に委ねられた選択肢は、二つ。一つは「人類の英知によって全てが最適化つまりコントロールされた世界」を目指して進む道。もう一つは「人類の知恵は利用しながらも最後は自然(地球)が本来持つ"偶然性"を受け入れる世界」を歩いて行くか、というものです。

 そもそもこの時代を生きる人たちは、腐海に緩やかに適応するよう(おそらくは)遺伝子操作された人類の末裔であり、ナウシカもその一人です。そんなナウシカですが、「庭」での平安を拒否したことからも彼女の最終選択は自明です。

自己犠牲あるいは利他

 話は変わりますが、というより「リーダー」の話と重なるのですが、ナウシカを読んでいてしばしば私が涙腺を破壊されるシーンに共通するのは「犠牲」です。
 
 前述のトルメキアの国王「ヴ王」の娘でクシャナという王女がいます。クシャナはバリバリの武闘派リーダーとして登場しますが、物語が進むにつれナウシカとの共通点が浮かび上がってきます。そしてこの二人の女性、クシャナとナウシカのために多くの命が犠牲になります。この二人には絶体絶命のピンチが何度も訪れますが、そのたびに身を挺して守る者(または動物)が現れるのです。

 この犠牲という意味でのMVPがユパ・ミラルダという男です。ユパのプロフィールは謎ですが、とにかくめっぽう腕が立ちしかも物知りで、腐海一の剣士であり賢者、そしてナウシカの師でもあります。
 彼は物語を通してナウシカを支えますが、最終局面では、憎しみに駆られた民族間の争いを収めるために左腕を失い、続いてクシャナを守るために身を投げ出し壮絶な最期を遂げます。戦争がすべて終わったその後の世界に、二人の女性、クシャナとナウシカがどうしても必要だとユパは知っていたのです。

ユパの最期

 その究極の利他の行動に私は恥ずかしげもなく感動してしまいます。幸い私が通っていた図書館は空いていて、おっさんの声なき号泣は誰にも気付かれませんでした(多分)。目から流れた液体もマスクの中へ落ちて行きますし。
 ただ、利他の精神は人間社会に必要で感動を生む一方、「自分だけは助かりたい」という衝動も動物としての本能であり一概に責められるべきではないと私は思っています。つまり、これもバランスで語られるべき心のあり様なのです。

私達はリーダーを求めている

 ところでなぜクシャナとナウシカのためには皆命を投げ出すのでしょうか。冷徹なリーダーを演じるクシャナも、兵を失うと鎧の下で涙を流しています。ナウシカも、自分を乗せて四面楚歌の劣勢の中を駆け抜け息絶えた馬(トリウマ)を抱きしめ人目もはばからず大泣きです。
 二人とも勇敢で聡明、しかも優れた先見性を持つリーダーですが、何よりも部下や仲間を守ることに自らが命懸けなのです。
 そんな二人だからこそ部下や仲間は「皆のために」自分の命にかえても生かさねばならない人だと考えるのでしょう。
 宮崎駿はクシャナとナウシカという二人の女性を通して、現実にはなかなか存在しない理想のリーダー像を描いてみたかったのでしょうか。

墓所から生還したナウシカをクシャナが迎える

 そんなファンタジーの中にしか存在しないリーダーを、実は現実の社会でも我々は望んでいるということを、Twitter 空間で感じることがあります。
 「この人は信頼できる」とか「この人の言うことカッコいい」という論者には6桁や7桁、時には8桁のフォロワーがついています(フォロワーには"アンチ"も含まれますが)。これは芸能人やアスリートなどの「ファン空間」ではなく「言論空間」の話です。もちろんファン空間も言論空間も微妙にかぶってはいます。
 
 そんな Twitter 空間で巨大なハブになっている論者のフォロワーの中には、どうにかしてその論者に自分の理想を実現してほしいと願いを託す人も多いように見えます。「総理大臣になって下さい」はよくあるコメントです。つまり自分はリーダーにはなれないけれど、この人ならやってくれそう、だからどこまでもついて行きたい!という心理なのでしょう。

 承認欲求だけでなく、そんなファンタジーというか幻想をあたえてくれる一面もあるから我々はこんなにもソーシャルメディアにハマってしまうのでしょうか。そして恐ろしいことに、我々は自ら進んで支配されています。喜んで自らの趣味・趣向や考えといったデータを提供し、プラットフォーマーのビジネスに無償で協力しているのです。そりゃあ格差は拡がるばかりですよね。ガッカリ。

 そんなわけで、大人になって読んだナウシカからは、社会体制、支配、利他、リーダーなどについて考えさせられました。そして最後はやはり脱線して、愚痴っぽくなり失礼しました。

 最後まで読んで頂きありがとうございました。


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