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一人のバカがお笑い芸人になって起業するまで

2021.01.24

僕は高校2年生の秋に初めての漫才を人前で披露した。
学校の真ん中に組まれたステージにはたくさんの父兄や女子高生や同級生の観客に囲まれた。
トリに回された僕たちは見事なほどウケた。
終わった後相方と二人で地べたに寝転んで笑いながら一つ一つウケたボケを確認しあった。
そのおかげで僕は一人のブスに告白された。
それが異性とのコミュニケーションをとった僕の最初の出来事であったが、
これも人生と丁重にお断りした。


僕の人生にとってお笑いがすべてだった。


学祭の演目決め
漫才をやる人たちが何人か決まりかけたとき僕は名乗りをあげた。
僕はそのとき授業中手を挙げることすらできないほどに目立つのが苦手なタイプだった。
相方は幼稚園、小学校からずっと同じの幼馴染みだったがそんな僕よりも人見知りな奴だった。
他の漫才コンビは皆野球部やサッカー部のイケイケな奴らだった。
同級生はみな困惑した表情だったが、
誰も仲良くなかったため
誰も否定することもできず
すんなりと漫才コーナーの欄に僕らの名前が書かれた。


なぜそこまでお笑いがやりたかったのかと聞かれると自分でも上手く答えられない。
正直やらない意味がわからなかった。
それくらい自分に自信があったし、もはやこの質問を投げかけられた時点で少々イラッとしていた。
自分が芸人になると言うと周りは皆冗談だと思っていたが、僕は就職する方が冗談だと思っていた。
まるで宇宙人と話しているような気分になった。

僕は高校生の間中ずっと
男しかいない山の上の教室でつまらない授業をよそに窓から見えるグラウンド越しの街並みを眺めながら
たくさんのお客さんの前でネタをして爆笑の渦に囲まれている僕と相方を想像した。
一人ベッドの上で布団にくるまりながらどういうネタがウケるか頭の中で研究し続けた。


卒業式でも漫才をした。

僕の出身校の卒業式は「日本一面白い卒業式をする高校」として有名だった。
だが僕の属する学年はたいした協調性もなく受験のことばかり考えていて誰も出しモノに立候補しなかった。
あいにく既に芸人になることが決まっていた僕と相方は一切勉強せずに卒業式で披露する漫才の練習に励んだ。
その結果僕らのコンビが怒濤の15分間漫才をすることとなった。
それはそれは伝説級にウケた。
ウケすぎて全然漫才が進まないくらいウケた。
芸人にとって最も気持ちいい瞬間の「笑い待ち」がすべてのボケの後にあった。
終わった後同級生全員に褒められた。
めちゃくちゃ怖い先生が僕に駆け寄ってきていつも通りキレられるのかと思ったら
「今日のネタをつくったのは君か?君は絶対にお笑いをやりなさい。必ず成功します。私が保証します。」
と言われた。
「いやぁ・・」と言いながら、俺は心の中でガッツポーズをした。
卒業式運営のリーダーが僕に向かって
「お前らリハと全然違うやんけ」と言いながら笑顔で親指を立てた。
それはちょっとサムいなと思った。が、嬉しかった。



その後大学に無事受かり僕は京都大学の学生として半年だけ通うことになる。
もちろんすぐ芸人になるので大学の記憶はほぼ残っていない。
本当に通ってたのかすら怪しい。でも、なぜかまだ学生証が家にあるので行ってたっぽい。
大学の合格発表時に自分の番号を見つけてすぐ相方に「オーディションへ行こう」と連絡したのを覚えている。



時は過ぎ僕は芸人として芸歴3年目になっていた。
そのとき僕は相方から「解散したいです。」というLINEを受け取っていた。

まずそれまでの間なにをしていたかというと
大学在学中オーディションを受けたが合格せず結局NSCに入り晴れて僕らの夢の芸人生活が始まる。
しかし、そこから究極なまでに怠惰な二人はネタの練習もしなくなった。
おまけに二人とも世間知らずで人見知りでどこに行っても孤立した。
なのに人の言うことを聞いたり誰かに決められたことをするのが嫌いで事務所を辞めた。
自主ライブを開催したりもしたが基本無茶苦茶な僕の杜撰な運営により誰も出てくれなくなった。
僕たちは誰でも出れるフリーお笑いライブでわけのわからんネタを圧倒的低クオリティで提供するという事を繰り返していた。
当たり前だがファンもいないし、賞レースも突破できないし、オーディションにも引っかからなかった。
ワンルームで二人でルームシェアしバイトを変えてはお荷物扱いされながら低給で働いた。

要は1ミリも結果が出ていなかった。

腐った僕は筆舌に尽くしがたい破綻した生活を送ることで脳がグチャグチャになっていた。


そんな中、バイト中に来た相方からのLINEに僕は頬が痙攣した。
嘘だと思った。
が、その後聞いてみたら本当だった。

いまだになんで相方はそんな愚かな選択をしてしまったのだろうと思う。
だが確かにそれは冷静な判断かもしれなかった。


僕は相方と売れたかった。
二人でたくさんのお客さんを笑かして、いろんなテレビ番組に出たかった。

これが僕の一生変わることのない夢です。


がしかし、結局それは叶わぬ夢となった。
僕はなんかもうよくわかんなくなった。
お笑いだけが僕の生きる意味だった。

というわけで平均寿命から逆算しておよそ60年弱の思いのほか長い無意味な人生だけが残った。
普通の人がどういう風にしてこんな冗長な時間を過ごしていくのか皆目見当がつかなった。
僕はいったん実家に帰り、はてどのように過ごすべきかと半ば上の空で考えていた。



そんな折に従兄弟から連絡が来た
同い歳の彼はIT経営者としてとりあえずめちゃくちゃ成功していたし有名になっていた。
そのときの僕には彼が具体的にどういう事をしたのかはよく理解できなかったが彼の作ったサービスがTVCMに流れていたことでとりあえずすげぇんだなということはわかった。
彼が言うにはりおちゃんは起業した方がいいというのだ。


普通なら就職してるはずの齢なのにもかかわらずもはや平仮名すら書けるかあやしい自分に何ができようといったんは断ろうと考えた

しかし、彼の説明を聞いて、自分で調べていくうちに僕は思った。


なるほど、確かに自分は事業を作れるのかもしれない。


これまで人生を生きていく中で、
自分は圧倒的に他人より頭がいいということと、
今まで幾度となく遭遇したクソ野郎よりかは良識を備えているということは自覚していた。
最初は間違いなく苦戦を強いられるだろう。
だが、自分ならその時々で最適解を導き出しやがていいところまでいくかもしれない。


そんなこんなで僕はどういうルールの競技かも知らぬまま、無意味な人生に小さじ一杯程度の意味を添えるため事業を始めることとなった。
事業やるならとりあえず僕は生きていないといけないので出来上がった会社にはアスアライブ(明日alive)と名付けた。


そして、そのアスアライブが創設からちょうど1年が経ちました。
昨年はコロナ禍の中、YouTubeチャンネル運用支援事業と映像制作事業をしておりました。
言うまでもなく数々の失敗をして、そして数々のかけがえのない人たちと出会う事ができました。
経営者として過ごす中で自分のような未熟な人間にも敬意を持って接していただける素敵な方々がこの世にたくさんいることに気づかされました。
きっとこれからもこの会社、この事業は多少の変容を続けながら大きくなっていくと思います。
今年は現状の事業に加えて新しく事業を始めようとしています。
僕の作ったモノがほんの少しでも貴方のためになることがあったらとても幸せです。
いろんな方とお話しするのが好きなので是非気軽にご連絡いただけたら嬉しいです。

貴方の意義ある人生に、僕が、アスアライブが、少しでも貢献できる日が来ることを願っております。


アスアライブ 代表取締役
赤松凜音


※画像は『舞子さんが一心不乱に祭り囃子を踊る隣で僕が数々の世界的危機を解決していき、解決したタイミングで舞妓さんがオーガズムを感じて「気持ちいい〜」と叫ぶという流れを3回繰り返す』というネタ中の一幕です。

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