無精子症の私がdonor-conceived childrenの親になるまで(9・完) ドナー利用に対する批判について

不妊治療は「親のエゴ」なのか

ドナーの利用に限らず、不妊治療には、「親のエゴ」だという批判があると聞きます。
私は、それを否定できませんし、否定しません。私の子どもが欲しいという思いには、妻が苦しんでほしくない、自分も妻が苦しむ姿を見たくないし妻に恨まれたくないという思いは含まれていたと思います。
でも、それはドナーの利用や不妊治療の問題ではなく、およそ、子どもを生むことについての問題です。全ての子どもたちは、自らの意思で生まれてくるわけではなく、生まれる時代も場所も環境も、自らの意思で選ぶことはできないまま、「子どもが欲しい」という親の一方的な意思(時には、そうした意思すらない偶然や事故)によって生まれてきます。「子どもが欲しい」という親の一方的意思を「親のエゴ」ではないと否定することできません。
そこに、ドナーの利用や不妊治療の有無で本質的な違いはありません。
それでも区別を求められたならば、私は、「自然に」子どもを生んだ人よりも、親子とは何かを真剣に悩み、必死にあがいた人こそ、「親のエゴ」の重さを知っているのではないかと、身びいきにも判断するでしょう。
では、不妊治療に限らず、およそ「子どもが欲しい」という思いは、また、子どもを生むという行為は正しいのかと尋ねられれば、私には、まだその答えは出せません。その答えが出る前に子どもを生むという行為が正しいのかと尋ねられれば、やはり、私には、まだその答えは出せません。ただ、正しさとは何か、人が生まれる・人を生むとは何か、そういったことを正面から問い続けなければならないのだと思います。

ドナーの選択は、悪しき「優生主義」なのか

また、私の場合のように、精子バンクのドナーの情報を見て選択できることについて、「優生主義的」との批判がありますが、先天性の無精子症患者である私から見れば、全くの的外れです。
健康な(異性)カップルは、この人の(遺伝学上の)子どもを生みたいと思うパートナーを好きなだけ選ぶことができ、そうして選んだパートナーの子どもを生んでいます。たとえ、考え得る全ての要素(学問、人格、スポーツ、容姿、健康面等)が完璧な人物が相手であったとしても、その人物か、自分のパートナーか、いずれの(遺伝学上の)子どもを生みたいと思うかを尋ねられて、前者を選ぶカップルは、よほど変わった人だけだろうと思います。
無精子症のカップルは、まず、本当に欲しかったパートナーを諦めたうえで、限られた選択肢の中で、日系人であるとか、目元が少し自分や親に似ているとか、趣味や職業が同じだとか、何か、少しでも自分を納得させられるような「理由」(というよりも、むしろ「言い訳」)を見つけて、「一番まし」なドナーを選ぶことができるだけです。それでも、私たち無精子症患者だって、子どもたちから、「お母さん/お父さんは、どうして、お父さん/お母さんを選んだの?」と聞かれたときに、「たまたまくじ引きでそうなったから、好きで選んだわけではないんだよ」と言いたくはないのです。
ともに子孫(又は遺伝子)を残すべき相手の選り好みが非難されるべき悪しき「優生主義」なのであれば、無精子症のカップルよりも、健康な(異性)カップルのほうが、よほどの悪であることになります。ですから、無精子症患者によるドナーの選択を非難するなと言うことはできませんが、少なくとも、健康な(異性)カップルよりも強い非難には値しないはずです。
このほかにも、ドナー精子の利用には、いろいろな批判がありますが、それら(の大半)は、本質的にはドナー精子の利用に固有の問題ではなく子を持つこと一般に広く当てはまるものであるか、反対に、むしろ、ドナー精子の利用の本質的問題ではなく、適切にドナー精子を利用することで解決し得る問題であるか、あるいはその両方であるように思います。

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