無精子症の私がdonor-conceived childrenの親になるまで(7) 治療の終わりと子どもたちを待つ日々


治療の終わり

赴任先のクリニックの知識や能力、設備には当初からかなり不安はありました。
日本の有名クリニックの医師や設備の水準を知っている中で、それと比較すべくもない医療のクオリティの低さと、反対の意味で比較すべくもない医療費の高さに、海外の医療事情の厳しさを思い知らされました。
それでも、通院していたクリニックは、赴任先の中では破格と言える安い診療報酬で受けてくれていたので、予算に限りがある中では、他に転院しようもない状況でした。
行き詰まっていたところで、妻が、友人から、現地民からしても物価が高い赴任先では、物価が安い他国で不妊治療を受けることが珍しくないと教えられました。
妻は、すぐに国外での治療を決めました。そのために、楽しみにしていた友だちとの予定や、既にチケットを買っていたイベントを全て諦めて泣く妻に対し、私は、いつものように、ただ謝ることしかできませんでした。
妻は、必死に節約しながら、お世辞にも良い環境とは言えないなかで、一人で他国での採卵に耐えました。私は、例のごとく、醜くも自分のせいであることを棚に上げて妻を励まし、神に祈ることしかできませんでした。結果として、赴任先での悪戦苦闘は何だったのかと腹立たしさを感じるほどあっさりと、最初の採卵で複数の胚盤胞を凍結できました。
そして、赴任先での治療がなかなかうまくいかなかったこと(後から考えれば、それは単なるクリニックの能力不足だったのですが。)を踏まえて凍結胚盤胞2個を移植したところ、最初の移植で、妻は双子を妊娠しました。
それから今日までの妊娠経過は、IVF(体外受精)による双子妊娠というハイリスク要因を抱えながら、産婦人科医から「とても順調ですね。」以外の言葉を聞いたことがないほどに順調でした。
パートナーが私でさえなければ、妻は、何の苦労もなく、自然に子どもを産むことができたでしょう。

子どもたちを待つ日々

不妊治療が終わり、子どもたちを待つ日々は、毎日が特別でした。どんどん成長する子どもたちに驚かされ、目まぐるしく変わる妻の体調に慌てふためき、妊婦検診の結果に一喜一憂し、育児について勉強しては途方に暮れ、期待と不安でいっぱいになりながら過ごす毎日には、一日として同じ日がありませんでした。
ですが、それは、子が産まれる日を心待ちにしながら暮らすという、どこにでもあるカップルの、とても平凡な毎日でした。
特別というなら、100人に1人の無精子症(の中でも比較的稀なもの)に苦しむ日々のほうが、ずっと特別でしょう。私と妻は、とても長い回り道をして、「当たり前」に辿り着いたのです。
義母からは、「子どもは、3歳までにいっぱい幸せをくれて、一生分の親の恩を返してくれるから、恩返しなんてしなくていいんだよ」と教わりましたが、私は、3歳までどころか、妊娠中の数か月で、子どもたちに返しきれないほどの幸せを貰いました。
この手記を書くために昔のことを思い出しましたが、あれほど辛かった日々がはるか昔のようで、寝ても覚めても逃れようなく付き纏っていたはずの辛さは、何か半透明のスクリーンでも挟むかのように、振り返るべき過去になってしまいました。
つらい経験の後に生まれた子どもは、嵐の後に架かった虹にちなんで、rainbow babyと呼ぶそうですが(Rainbow babies: The children bringing hope after loss - BBC News)、私たちの子どもたちは、まさしく、嵐の後の希望の光でした。
子どもたちには、感謝の気持ちしかありません。
どうか、心身とも健康な子に生まれてきて、元気に育ってほしい。少しでも長く、幸せに生きてほしい。
生まれてくる子どもたちに対して私が望むことは、それだけです。

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