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奇妙な恋人たち

 もし、あなたが「奇妙な恋人たち」の姿をその目で確かめたければ、午前七時一分にS駅を出る、とある鉄道の三号車に乗ればいい。その車両には、青いコートに身を包んだ魔女のような顔立ちの女と、黄色い帽子の年老いた男が、しっかりと手を握り合って座っているから。毎朝、同じ時間、同じ車両に、必ず。
 初めて二人の存在に気づいた時、見てはいけないものを見てしまったような気がした。街中で、前を歩く女子高生のスカートがめくれていることに気づいた時のような。瞬間的に目を逸らすけれど、意識はそちらに向いてしまうのだ。彼らの間に流れる親密な空気、不釣り合いに歳が離れていること、きつく握り合った手、恍惚とした表情、青いコートと黄色い帽子のコントラスト、そういったものが一瞬で統合されて、私の心に深い印象を残した。

 公共の場で見かけた人々の暮らしや関係性、夢や過去に思いを巡らせるのが、私のクセだ。もちろん、すべては想像である。着ている服、表情の翳りや、会話の断片から、勝手に物語をこしらえているだけであるが、それが面白くてやめられない。「奇妙な恋人たち」の存在は、そんな私の悪戯心を絶妙にくすぐった。
 あの女は、魔女だ。まだ若く、修行中なのだ。年老いた男は、魔法をかけられているに違いない。だって、あんなに幸福そうな目をしている。
 彼らはS駅からほんの三駅で降りてしまう。固く手を握り合ったまま。私は二人の後ろ姿を横目で眺める。彼らが毎朝寄り添って歩く、奇妙で美しい散歩道を想像する。

 「奇妙な恋人たち」の存在に気づいたのは、仕事で失敗が重なり、気が滅入っていた頃だった。当時の上司は冷徹な上に陰気な人で、ただでさえ退屈な仕事を、嫌味や溜め息を聞かされながらこなしていた。転職をしたかったが、踏み出す勇気もなかった。
 通勤列車で見かける奇妙な男女の存在は、そんな私にとって一種の癒しとなった。彼らの幸福そうな表情を眺め、物語を想像していると、不思議と心安らぐのであった。

 そんなある日、どうしても会社に行きたくない朝が来た。鉛のように重い身体に鞭打って、のろのろと早朝の列車に乗り込んだものの、上司の顔を思い出すだけで吐き気がした。
 「奇妙な恋人たち」が、いつものようにS駅から乗り込んでくるのが見えると、ふと、抗えない感情が湧きあがった。得体の知れないものを暴きたい、という欲望である。日常から逸れたかった。どこか別の世界、踏み込んではいけない場所に、逃げ込みたかった。そこで、私はS駅から三駅目で降り、彼らの後を追ってみることにしたのだ。
 二人はしっかりと手を握り合ったまま、改札口へと向かっていく。老人の方は、老齢のためか、足取りが覚束ない。魔女は真っ直ぐ前を向いて歩く。二人が並ぶと、女の方が少し、背が高い。
会社には行かない。高熱が出たと、偽りの連絡を入れたのだ。上司は疑わしそうな様子だったが、気にしなかった。怪しまれないように距離を置いて、だけど見失わないように細心の注意を払って歩く。「奇妙な恋人たち」は、人通りの少ない方へ進んでいく。彼らは角を曲がる。私も角を曲がる。
 すると、目を疑った。都会の真ん中に、花畑が広がっていたのだ。よく目を凝らして見ると、それは畑ではなく、空き地であったが、色とりどりの花が咲き乱れ、その一角だけが異世界のようであった。
 彼らは初めて、繋いでいた手を離した。老人がしゃがみ込み、一輪の花を手のひらでやさしく持ち上げ、愛でるように見つめた。そして、老人は突然、顔中をしわくちゃにして嗚咽を上げ、涙をこぼしたのだ。
 唐突な老人の泣き顔に呆気に取られていると、魔女が私の方を振り向いて、微笑みかけた。心臓がひとつ、大きな音を立てた。列車を降りた時から、後をつけられていたことに、彼女は気づいていたに違いない。もう、戻れない。私もきっと、魔法をかけられてしまう。
「驚かせてごめんなさい」
 魔女の言葉に、いえ、などと曖昧な返事をすると、彼女は肩をすくめて言った。
「あの人、呆けているの。事故で人を轢いてしまってから、ずっと」
「事故……?」
 思いがけない言葉に、魔女、いや目の前の青いコートの女性の顔を恐る恐る見つめると、彼女は話し始めた。
「運転中に持病の発作が出て、ここの歩道に突っ込んだんです。事故の後、俺は人を殺したって沈み込んで、頭が変になってしまって。認知症も重なって、何もかも、忘れてしまったの。結局、記憶に残ったのは、かつて愛した妻のことと、事故のことだけ」
 淡々とした口調の向こうに、深い悲しみの響きを感じ、私は言葉を失った。
「だから、こうして亡くなった人に手を合わせに来るんです。今では時間の感覚も失ってしまって、毎朝私の手を引いて言うんです。『今日は月命日だ。お参りに行くぞ』って」
「そうなんですか……」
 ふと老人の方を見ると、花々の咲き乱れた空き地に向かって、両手を合わせ、頭を深く下げて拝む姿が目に映った。
「すると、あなたは、あの方の……」
「私は娘なんです。でも父は、私のことを、若い頃の自分の妻だと勘違いしているの。母は、とっくに病気で死んだのに、記憶がごっちゃになっているのね。毎朝デート気分なのよ、困っちゃう。ごめんなさいね、こんな話をして」
明るい調子で彼女は言ったが、その目には涙が浮かんでいた。私は、一礼し、逃げるように空き地を立ち去った。何と返事をすれば良いのか、分からなかったのだ。
 
 それから、列車でその親子を見かけると、どちらからともなく会釈をするようになった。老人はいつ見ても幸福そうな笑みを浮かべていたし、その手をやさしく握る娘も、温かい目をしていた。二人の姿を眺めていると、何か尊いものに触れているような、そんな気分になるのだった。
 やがて私は、転職を決め、その列車に乗ることもなくなった。新しい会社での仕事は、出張が多く、めまぐるしい日々を過ごした。
 
 そうして一年ほど経った頃、隣町への出張のために、偶然、午前七時一分にS駅を出発する列車に乗ったことがあった。私は期待して懐かしい車両に乗り込んだが、「奇妙な恋人たち」の姿は、どこにも見当たらなかった。
 毎日欠かさずにお参りに行っていたというのに、どうしてしまったのだろう。まさか、あのおじいさんに、何かあったのだろうか。不安が過ったが、知る由もなかった。
 その日は早くに仕事が終わって、時間を持て余した。そこで、S駅から三駅隣のあの駅で、途中下車をした。記憶を頼りに、例の空き地まで歩いていく。角を曲がれば、美しい花畑が広がっているはずだ。
 ところが、辿り着くと、そこは工事現場になっていた。新しい家が建つのだ。色とりどりに咲き乱れていた花々は、跡形もなく姿を消していた。私は悲しかった。あの二人はもう二度と、ここに来ることがないような気がしたのだ。
 私は思わず、駅周辺の花屋に駆け込み、青いリンドウと、黄色い水仙を買ってきた。そして、かつて花畑だった工事現場の足元に花を手向け、両手を合わせて、そこで亡くなった見ず知らずの人のこと、そしてあの親子のことを思った。
 
 もちろん、すべては私の想像だ。あの日はたまたま、おじいさんに何か大切な用事があって、お参りに行けなかっただけかもしれない。きっとそうだ。
 だから今日も、青いコートの女性と、黄色い帽子の老人が、しっかりと手を握り合って座っているはずなのだ。毎朝、同じ時間、同じ車両に、必ず。