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ココア共和国10月号やながわの感想

ココア共和国10月号の感想です、やっと。

 様々な手段で、わたしたちの世界を(これは妄想や、目に見えない世界も含む)切り取る。切り取り方、差し出し方は違えど、「この世界を知ってる?」と微笑む少女のような生きものが現れたり消えたりする。
 出入国自由な此処は、毎月たいそう賑わっている。飛行機で、車で、小舟で、時には空気に紛れ込んだ粒子としてやってくる言葉たち。

 出来るだけたくさんの方の詩へ言葉を送りたいと思っているのですが、なにせあまりにも大量。感想をかけなかった方、ごめんなさい。
 わたしというごく限られた読み手の、勝手な想像による感想です。ささやかなるわたしのひとことが、次の詩へ向かうほんのちいさなひかりになり得たとしたら幸いです。


ろかのさなか(三船 杏)
様々な「かわいい」のなか、濾過されない私の半分は「夢をみたい」のだ。勢いのある散文。かわいくなければいけない、ことってつらい。

おとなりさん(向坂くじら)
毎回、違う景色を見せてくれる。完成度の高い詩だ。死が隣に座っている。君とわたしが入れ子構造のようになっていて興味深い。

器躯(中マキノ)
タイトルが凄い。正直、生理的にうわっとなったが、この「うわっ」と思われることは、なかなか出来そうで出来ないことだ。最後に「物語りを読んだ」とするが、余計に何かが胎内に宿ったような気がした。

青少年サーカスの一夜(中田野絵美)
こちらもタイトルから、いい。書き出しもいい。言葉に強度があり、タイトルの世界を書ききれている。圧巻。

麦畑(入間しゅか)
「私は知らない国からきた。」から始まり、カタカナの長い名前の害虫と( )で括られた構成がおもしろい。同じ命あるものであるのに、害虫と忌み嫌われたり、珍しがられたりする存在である悲哀と、風が吹き抜ける麦畑の心地よさが読後に残った。

破水(雪下まほろ)
「齧りついた李」「灑掃」「雑曲」「嫋やかな切り抜き」難解な漢字や読みが犇めき合う。歯、食道、肺、子宮などのからだの各所が、石、地層などとリンクしている。私たちの身体は、等しくいつか土に還る、歴史のなかの一粒なのだ。語彙の豊富さが過剰となるか、過剰をおもしろいと思わせるか、次回作も楽しみにしている。

刺繍(あち)
全身に刺繍をくまなく入れる。刺繍をくまなくいれた「ボク」は「ようやくボクとして完成」するのだ。ボクは、人である必要はない。一人ではなく一個として数えて欲しいとの願い。

循環(井上美帆)
「雨の日差し」が効いている。雨にも日が差しているのだ。そして、それを保温してセミは鳴く。詩をかくことも、生きることも、循環している。保温、保湿が世界の要素であり、「雨の日差し」に繋がっている。

僕はヒモ(田中里奈)
「お前は紐だと言われた」から始まる紐の一日が、とにかくおもしろい。朝、昼、夜、紐として一日を、一生を、五連構成で巧みに語る。三連の、昼休みに力を緩めて(緩める、締める、紐の特徴がよく出ている)道端に手紙を落とす妄想と、四連の「もし、紐にならなかったら」としんみり眠るところが特にいい。わたしも、紐になりたいと思わせた。

一枚の絵(田村全子)
恋愛とは、相手を想う自分への陶酔だ。相手を好きなわたしが好きなのだ。そんなことを思い出させてくれた詩だ。

夏の庭、あるいは遺言(紅坂紫)
18文字の句読点のない長方形の詩の、全ての行末が次の行頭になっている、技巧的にもすぐれた詩だ。気づいた瞬間、「おっ!」と思う仕掛けがあるとおもしろい。わたしもやってみたいなと思わせる、それってすごいことだ。

八月の非在(吉原幸宏)
ラスト5行の、短い改行が緩やかで効果的。
「八月」という季節は「目に見えないもの」の気配を感じ、自分さえも「見えないもの」にしてしまう季節なのだ。それは光の強さから来るものなのだろうか、陽炎のような揺らぎがみえる。

カラダがカラだ(田中傲岸)
「めずらしく肉体が帰宅していなかったので」から始まり「ぴくりとも動かない自分の肉体を見つけて拾う」さりげない言葉の端々と構成にセンスを感じる。空っぽなカラダと、中身しかないカラダ。魂と肉体は容易に分離する性質なのかもしれない。

群青(浦野恵多)
最も長い行で11文字という細かく行替された効果が出ている。ただの青ではない「群青」というタイトルがラスト二行目で「偶発的群青」として現れ「零してみせるから」と続く。そう言い切る強さが魅力的だ。他の言葉も何ひとつ無駄がない。

存在感(イナヤミユウ)
古文でうわ言のように繰り返して覚えた「らりりるるれれ」「ありをりはべりいまそかり」を懐かしく思いつつ、あ、確かに全てが存在を意味するんだわ、と思う。最後の4行で旧仮名になっているのもおもしろい。

ここまでが紙の分です。
わたしの詩の「読み方」の勉強としての意味もある「感想」あるいは「評」ですが、いやあ、ここまでかくのに二週間かかりました。
何度もページをめくっては読み返したので、ココア共和国10月号は少し膨らみが出てきています。ぺったりくっついていたページとページに空間が出来て、わたしの指紋と共に文字たちが、夢枕で踊っているのかもしれません。(常に枕元に置いて寝ているので)


次回、電子版のみ掲載(佳作)へ続く。

ここから電子版のみ(佳作)の感想&評です。

戸棚の奥(天地有仮)
「桃缶の中で眠る」すっと最初の一行で改行する。ラベル、メッキ、酸化、缶ゆえの描写がいい。

あと百日(山月恍)
一行目が効いてますね。詩の一行目で「以下、」とくる。おっ!と思う。短い詩の「なりたい」を繰り返し考えている。なりたいわけではない「誤り」の確率が十分の一「ある」から。

口笛(夏生)
「夜、口笛を吹くと蛇がくる」ああ、わたしもよく親に言われたな。このことを詩の一部に入れたことがあります。「まん丸の目の生白い小さな蛇」は、今宵も誰かの口笛に呼ばれているのでしょう。

フライパン(tOiLeT)
「二十億光年の孤独」谷川俊太郎のオマージュ作品。「註の入れ方を編集部に教えて頂いた」と作者がツイートしているのを目にした。「ココア共和国」の凄さはここにある。一般的な投稿誌では、ありえない。
オマージュ作品は、元の作品が有名であればあるほど、自分なりの切り取り方、新しい視点を求められる。タイトルからもチャレンジしている。

水洗い喋れない進めない(よしやまよしこ)
言葉を水洗いするという発想が秀逸。タイトルもいい。「ザルにすくって水気を切って頭に戻す」洗われた言葉で、脳内はシナプスが点滅しまくっているだろう。

生きたくない(新美千里)
「きれいな言葉はぜんぶ嘘っぱちだった」がいい。「嘘だった」より断然「嘘っぱち」の方がいい。「きれい」には注意が必要だ。傷つけられる方の「きれい」は特に。「生きたくない」は「死にたくない」に似ている。

ツキトナツトセイシュンヲ(田中千佳子)
漢字にすると「月と夏と青春を」がラストの4行に出てくるが、タイトルはあえてカタカナにしたのが効いている。漢字ではぱっと頭に入ってくる言葉が、カタカナだと一文字づつ入ってくる。「〜を」を繰り返し、速度をあげる。体言止めの言葉の意外性をもっと出せるとさらによくなると思う。

田舎の晴天(カタキリケイイチ)
作者もタイトルにした「田舎の晴天はどこまでも続く」が秀逸。田舎の真夏の風景が目に浮かんだ。

ガラスの靴下(AI KOTOBA)
「舞踏会の夜に残された伸び縮みしないガラスの靴下」靴じゃないんだ!靴下なんだ!
意表を突かれた。靴下を残すなんてただ事じゃない。しかもガラスの靴下など、どうやって履くのだろう。発想の面白さが際立っていた。

お茶のお客(真鍋せいら)
「わたしのドアまで雨が届いたとき」印象的な書き出しではじまり「そういうこと」だと悟り、母も「それは時々起こる」のだという。詩全体に流れるものがいい。


以上です。
154名の作品を全て読み、ほんの一部への感想&評です。
もう、11月号の予告が出ているのに、やっと今日書き終わりました。154名をはるかに越える詩を全て読んで選んでいる編集の方々、何度もいいますが、凄いです。しかも、今回、オマージュ作品の註の入れ方の話をかきましたが、そんな丁寧な指導もするなんて凄すぎて言葉になりません。

感想をかきはじめてから、あ、先月もいた方だ、とか、あ、この方の視点すごくいいな、とか、勉強させて頂いています。
詩に正解なんてないし、どんなふうに読んでもかいてもよいのですが、もっとこうしたら、もっとひかるなあ、と思うことがあったのも事実です。

まあ、ほんとにわたしという単なるひとりの読み手の見方ではあるのですが。

例えば大きすぎる言葉「生きる」「死ぬ」「世界」「月」「星」「恋」「愛」などをそのまま詩の中で使わずに、それらをあらゆる言葉をつかって表現してみる、そんなチャレンジも有効的です。あと、わたしが現代詩(わたしが思うところの)をかきはじめた頃、難解な言葉に惹かましたが、「かけた気になる」「難解な言葉は詩の中で大きすぎる」ことに気付き、それを使いきることの難しさを感じるようになったのが現代詩2年目の頃です。

自分のことをながくかきすぎました。
それでは、11月号を楽しみにしています。












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