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トラウマの話

わたしは去年の『ことばにない』上演期間中に、「生理用品をトイレに置く暇があるなら死ぬほど傷ついて作品作ってください」「こんな作品作らない方がいい」「レズビアンであるということを客寄せに使っている」ということを直接&間接的に言われ、普通に傷付いた。あまり周りの環境にも守ってもらえなかった。他の人は自分がやりたいことを作品にしても言われないことを、なぜわたしだけ言われて傷付かなくてはいけないのかが本当にわからなかった。2ヶ月くらい何も出来ない時間が続いた。

気にしなければいい、その通りだと思う。けど、出来ない。

トラウマ療法としての公演も吉田くんが助けてくれて行えたし、『ことばにない』後編は書けたし、やれない状態からやれる状態にもなった。

けど、今も上演が近づくごとに不安になってくる。去年の不安故に、今年の広報などで一歩が踏み出しづらい状態になっている自分に対して嫌気がさす。そういう内面にこびりついた呪いみたいなのが今は苦しい。けど、この苦しさみたいなものが誰にもわかってもらえないことも十分というくらいにはわかっている。わかってほしいとも思わない、けど、ただ、ただ、苦しい。

演出は楽しいからしたい。どんな作品でも演出したい。けど、わたしが演出することで、暴言を言われる確率は確実に上がることなども考えてしまう。

神聖かまってちゃんの、の子さんがアームカットした腕で配信とかしてるのを観ると少し安心できる。イタいと言われるのもわかるけれど、安心できる。ぶっちゃけ話をするならば、16歳の頃からわたしはリスカというか、アームカットが辞められないでいる。不安爆発状態になると、自分のストレスのはけ口として、やってしまう。心配されたいからやってる訳じゃなくて、血を見て生きていると感じて安心する自分のためにやっている部分がある。なので、全然わかられなくていいし、わかられない方がよいと思っているが、そういう安心の取り方があってもいいよね、ということは思っている。一般的に言われるような社会的信頼の問題はあるかもしれない。そんなもんは、すげーわかっている。長袖を着る。

他人にはけ口を向けられない優しい人がワリを食ってると思うことが多い。無痛の人、他人に暴力を向けられる人が生き残っていて意味がわからない。優しい人から死んでいく世の中を変えたいって、思う気持ちがある。わたしが上演するのは自分のためでもあるけれど、少しでも教室の隅っこにいたタイプの人が元気ななったらいいなとは思っている。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。