手を動かそう

自分は何も努力してないのに、他人の顔色うかがってんじゃねーよ、人のせいにしてんじゃねーよ、お前のことなんて知らねーよ、羨ましがられても困る、と思うことがある。他人への言葉なんて全部自分に跳ね返ってきますからね、とも思う。でも、このいかにも日本人的な他者を羨ましがるような、出た杭は打たれるようなあり方がわたしはとても苦手なのだとも思ったりもする。他者がわたしは心底どうでもいいと、小5くらいでどこかで悟った。

どうして演劇なの?演劇じゃなくてもいいじゃん、と思ったりもする。わたしは実存をやっていくのだから演劇なのだという理を思ったりもする。集まりが好きなのだ。集まりが好きじゃない人はなぜ演劇なのだろう、演劇じゃなくていいじゃん、コミュニケーション取らなくてひとりでやってればいいじゃん、とも思ったりする。それはそうしろという話ではなく、己への問いかけとして。

なんていうか、わたしはケア治療者でもなんでもないけど、俳優の人からワークショップで肯定されたのはじめてでとか言われることも少なくないのだけど、その度にほんと大丈夫か演劇界、、、と思ったりする。みんなすばらしい俳優なんだぜ、とほんとうに、心から思う。

わたしは自分への問いかけは徹底的に厳しくしちゃうのだけど、ここまで書いたような感じで、だけど同じことを他者に求めたいかと言われるとちょい違うかなと思ったりする。

見られる私をライフワークとして気にしすぎるということは、鏡みたいなもので、自分が軸になってしまうので、その必要さももちろんあるのだが、鏡を破る瞬間は必要になってくる。絶対的な他者につながる瞬間。マジックミラーのように。自分をガチでやると他者に繋がっていく可能性はあるけど、その時のわたしが見られるわたしだと妄想になってしまうというか。自分の想定する他者だと、そんなの面白くないじゃないですか。演劇じゃなくていいと思う。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。