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豊岡滞在日記まとめ

物語とはなにか、を豊岡滞在で探求しようと思った。なにかわからないことを探求したくてものを書いているのだと思うから。書くことは自分の好きなものが明確でなかったり好きなものに対しての表現をする弱さや自己がないことへのコンプレックスを持つわたしなりの、好きなものなのかもしれないけれど、そんなことは恥ずかしいから人前では言いたくないし、ほんとうに好きならもっと読んで書いているのではないかという自分への疑いがなくならない限りにおいて難しい。

好きなものを語る術を持ち、その好きなものについて語りあうこと、そのコミュニケーションこそ作家を育てるのではないかとも思うが、わたしは何をすることが好きなんだろう。例えばお金がないけど、漫画家の山田花子が好きなので一冊古本屋で漫画を買ってしまったのはきっと好きだと言うことだし、読んだその本の魅力を伝えることをしたいと思う。写真を撮ることも好きなのだと思う。どんな風にものを見たいかを考えることが好きだけれど、そこには同時に見せられていると感じる写真に対しての嫌悪も含まれていて、そういうわたしの目から逃れた部分で撮りたいと思っている。なんだかわからなくなりましたが、豊岡でのことについて書きます。

豊岡で戯曲執筆のために一週間滞在し、中間発表会では街の方や青年団の俳優に参加していただいて読みあわせをし、ディスカッションをした。すごく楽しかったし、ディスカッションも盛り上がったと思う。わたしの無意識的なレベルでの物語的に対しての苦手意識が、書く時にわたしを物語的な展開から逃れさせようとしていることがディスカッションでもわかり、自分では物語的展開を選んでいたとしてもそれが表出されない難しさを実感した。これまで何度同じことをしているんだろうと、戯曲のディスカッションをする時、かならずと言っていいほど毎回物語がないと言われる。物語的な展開から外れていっているキャラクターほど褒められることが多いし、今回の戯曲だったら、さまよう男2人のキャラクターがそうだった。

ディスカッション内での型の話の時に、ある人が「バックトゥーザヒューチャー」を例にだして、宮﨑さんの戯曲だと最初に行動を起こすのが分かりづらいと言っていて、見返したらいいのではないかと思って流し見をしていたけれど、細部のことばかり目がいって、つらくなった。例えば、はじめてマーティーがビフに会って喧嘩が一触即発になる時の教頭の動きの導線などが気になってくる。マーティーは教頭に気づかないという仕組み。でも、本当に大事なのは最初のショットで時計が大量に写ったり、死がタイムトラベルのきっかけとなるところなのでしょう。

「わたしの物語」ということを考えることからなるべく遠ざかってきたが、その弊害が今のわたしにあるのかもしれないと思った。やりたいことに合わせて文体を選ぶことで、書く内容も絞られる、必然的にわたしが書いているという状態が現れ、わたしが浮かび上がる、というようなことを思っていたけれど、その次にわたしの物語ということがあるのかもなぁと思うようになった。どうして、このぐねぐね道のことはぜんぜん語られないんだよ!わたしの探求は形式のぐねぐね道を語った上で、あるってことは一般的なことですか。。。いつも当たり前のことがわかんなくて遠回りしちゃうんだよなぁ。

わたしの物語かーって感じですが、でもそこは書いていたというのがちょっとまだ良いポイントの部分かもしれなかった。親戚にブラジル移民のおばさんがいて、そのおばさんのこと、自分が高校を卒業してすぐに2週間おばさんと過ごしたときのことをなんとなく書きたいという思いがあって、今回やろうとしたのだが、普通にうまくいってなかったのだと思う。ディスカッションであまり語られなかった部分だったし。ある程度わかりやすくてもいいのかもなぁと思った。やっぱりわかりやすくても小津の映画は大好きだから見ていなかった「戸田家の兄弟」を観たが普通に最高でした。

自分の文体だと、物語から逃れる展開は割と書けてしまうので、違うことをしようとしているというお話でしたが、滞在では物語を一旦書いたもののそこまでうまくいかなかった部分もあったので、修正しますという感じです。でも、なんだか、このぐるぐるも、もうすぐな気もするのです。抜けたい。

という脈略のない感じでした。



演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。