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代弁を失敗しつづける強力なスーパーフラットの形式のためのメモ書き


・俳優がセリフを話す、という行為があるとき、あたかも自分の言葉であるかのようにセリフを話す、役と見えるための演出に沿ったその発話の形式に納得することができない。

・それは演出によって引き起こされる。もしくは、俳優は役になりきるものだという固定概念によって起こりうる。

・わたしは「劇への抵抗」という文章の中で、「ーに見える」という目的に向かうリアリズム演劇の手法を脱したいこと、その回避の仕方を宣誓した。

・既存の現代演劇における俳優が役そのものであるかのようにセリフを発話しない手法には大きく2種類あり、チェルフィッチュの手法かマレビトの会の手法で、既に解は出揃っているのではないか、とアフタートークで佐々木敦さんに言われた。それは『つかの間の道』の創作中にもぶち当たった壁でもあった。

・それは大雑把だが書くと、①あるキャラクター(役)のセリフを俳優が代弁するということが観客にわかる形式。小説の語りの代弁の形式と似ていることから、小説的であるとも呼ばれるもの。②俳優=キャラクター(役)そのものであることを回避するために、なりきらせない強力な発話と身振りの制限を設ける形式、この2つということである。

・わたしはある時期まで熱心な俳句作家であったが、言葉の客観性と形式が短いために起こる言語ゲームの側面によって引き起こされる、個人の物語が形式や言葉から取りこぼされてしまうことに懐疑的になり、俳句の筆を折ったことがある。その後、最近は「喃語俳句」ということを言い始めて、言葉としての俳句ではなく、パロールとしての俳句を志すようになった。

・「喃語俳句」は言語につまづくこと、言語に完全には補完されてしまわないことを前提としている。最近になって、この喃語俳句のことと、演劇の思考がつながってきた感覚があった。

・スーパーフラットも、なんだか俳句作家の生駒大祐さんが言ってたプレーンテクスト味がある言葉だなと後から思う。

・つまり、俳優が役そのものであるかのようにセリフを発話しない手法の第三の道としてありあるのは、「失敗しつづける」手法なのではないかということだ。それは、わたしが俳句において言葉を書き下していく時の作業に近いものかもしれないと。

・役になる、ということに失敗しつづける。絶対にあなたはわたしにはなれない、わたしもまた、あなたにはなることができない。代弁を失敗しつづけるということは、わたしにとっては失敗し続ける、ということが重要な訳だが、観客は代弁に失敗し続けた結果こぼれ落ちた「意味」から物語を思考するだろう。ピエール・バイヤールの『読んでない本について堂々と語る方法』なんかのことも頭をよぎる。俳優は、キャラクターや物語の代弁に失敗し、観客もまた俳優という物語の代弁者から物語を代弁することに失敗する。現実ってそんなもんでしょ、とも思える。伝わり語られることの繰り返しによって物語は変容し続ける、訂正可能性の話だ。

・現在加茂くんと発表する予定の戯曲を創作していて、そんなことを思った。今年、わたしは自分の文体、それはマニフェスト「劇への抵抗」の強力な指示書となるものだ。

・代弁に失敗しつづける文体、書き下しつづける文体について、物語との間で考えてみたい。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。