教室の隅にいたわたしに資格はありますか

わたしにはわたしなんかが、、、という気持ちが何事においても、何をするにしてもどこか根底にはあります。捻くれすぎてしまったのだと思います。こういう時にいじめられたこととかを死ぬほど恨んだりします。

何かに関わること、特に公共事業などですが、とてもとても神経質になります。

一日一回は死にたいと思うような、思っていたような人間が関わっていいのかという、わたしなりの葛藤がどこかにはあります。

戯曲を書く時も結構自分を追い込みます。追い込んで力が発揮できる場合も多くあります。でも、それを他人に強要したいとかは全くありません。しんどいことからいろんなことがはじまったという経験はあるのだけど、それはわたしだけのものでよいのです。

先生になる人はみんな学校が好きな人だと思ってしまいます。わたしは集まりは好きだけど、確実に教室の隅の方で本読んだり音楽を聞いてたり、保健室で寝ていたタイプの人間です。だからこそ、そういうマイナーな人間のための場はつくりたいとか、死なずに生きていこうな!って言いたいみたいなのはあります。

アウトローな人間が公共に関わっていいのか、これが本当に最近わからず。こういうやつが関わってるから公共はダメなんだと言ってくる人の顔が浮かびます。わたしは菩薩ではありません、残念ながら。でも、菩薩が求められるのはわかります。

できるだけ色んな人に嫌われたくないのですが、勝手によく思われていないような場合も多く、ほんとつらみ、、、となります。学生の頃からそうでした。わたしの頭の中がわからないという理由で嫌われました。今だって、私怨で恨まれることもなぜかあり、なにも変わってない!と思います。

神さまへ、わたしに資格はありますか?
神さまへ、なぜわたしは、わたしの努力した痕跡によって人に嫌われないといけませんか?
わかりません、わからないです

教室の端でうずくまってたわたしは、なかなか何かを言えなかったし、幼稚園の頃はトイレに行けなくておもらしをたくさんしていました。言えないことのほうがデフォルトだった人生で、でも言えないのに何考えてるのかわかんなくてムカつくということで、叩かれて、さらに言えなくさせられます。不可視にさせられます。ほんとうに、ほんとうに、いじめっ子が、とてもとても嫌です。いじめっ子はずっといじめっ子やし、演劇のセカイにもいじめっ子になれる人はいるのだと思います。自分が良ければ良いという考えの人です。

ガツガツできなくても、弱いままでも演出家でいていいですか?
その方法をずっと探しています。
弱いままでも演出家できるんだよ、のために、わたしは努力してきました。マッチョ思想に負けません。負けていい演劇、言葉にない演劇、そんなタテとかヨコとかじゃない世界のために、わたしは演劇をつづけています。あなたはいつか言葉を失います。

弱いままでいいと思います。スキルを上げていきます。これからも努力をつづけます。あなたがセルライト溜め込んでお家でゆるゆるしてわたしの文句とか悪口言ってる間もわたしは書き続けるし、演劇のこと考え続けます。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。