みぞれ・15

電話が鳴ったときはまだ会社に居た。明日までに仕上げなければいけない仕事をあらかた終えて帰ろうかと思っていたところだった。大久保さんの携帯から聞こえたのは始めて聞く女性の声で、仕事の同僚のような物だと言った。

車を手近なパーキングに止めて歩き始める。何故俺に掛かってきたんだろう。彼女が言ったのだろうか。だとしたら、何だというのだ。俺に出来る事は変わらない。

聞かされた店の中に入り連れが居ると告げると、奥の個室を案内された。

「あぁ、東城さん!ご無沙汰しております!お久し振りなのに申し訳ない、こんなお願いをしてしまって」

この子の家を知らないのに後から気付いて、と取って付けたように俺の姿を認めると大久保さんが立ち上がって声を掛けてきた。もうひとり女性がいる。この人が電話を掛けてきたのだろう。当の彼女は机に突っ伏して寝息を立てている。

「はは、ちょっとびっくりしましたね。まだ会社にいてよかったですよ」

大久保さんは再度謝りながら彼女を揺する。

「ほら、ななちゃん起きて!東城さんが迎えに来てくれたよ!」

彼女はゆっくりと頭を上げてぼんやり周りを見回している。俺以外の前でもこんなに飲めるのか、とうっすら思う。こちらを見た彼女はまだぼんやりとしている。彼女の鞄を持って腕を取る。

「立てる?」

子供のように素直に頷き、ふらつきながら立ち上がる。2人はその様子を遠慮がちに見ている。

「ななちゃんがこんなに飲むなんて珍しくてついつい飲ませ過ぎちゃいました。本当にごめんなさいね」

「見かけによらず酒癖悪いですからね、彼女は」

2人とも笑って今日の彼女の失態を喋り始める。当の本人はぼんやりと俺の服の裾を掴んでいる。大久保さんが最後に言った。

「この子、言葉に出すのがすごく苦手なんですよね。だから色々溜め込んでいるんじゃ無いかと心配で。あなたのことは信頼しているみたいだから。もし東城さんが良かったら話、聞いてあげて下さい」

優しいまなざしで彼女を見ている。愛されているな、と思う。そして、何を聞いたか知らないが大久保さんは今の俺たちの関係は変えるべきだと思っている。隣の女性もそうなのだろう。でもそれは関係無い。恐らく俺の意思も。少なくとも俺の中ではそうだ。彼女が望むならいつまでだってこのままで良いのだ。溜まる性欲はよそで吐き出せば良い。ただ彼女が生身で居られる場所を取っておきたい。

彼女のことを思うからこそ、この2人は俺に連絡をしてきたのだろう。その気持ちは分からなくはないし、彼女にとっては果報だろう。人に無償で思われるというのはなかなか得られない幸せだ。ただ彼女がどう受け取るかは分からない。それでも、この2人は。

手短に挨拶をして彼女の手を引いて店を出る。空気が冷えて尖っている。彼女はふらふらと上を見上げていた。もう少し近ければこのまま歩いて帰れるのになと思った。

助手席に乗せるがとても素直だ。他の男が呼ばれていたら、彼女はこの後抵抗もせず服を脱ぐのかもしれない。エンジンを掛けるとぼんやりとしている彼女が話し始める。

「ごめんね」

「わたし、よくわかんなくて」

「駄目なのかな、みんな変な顔してた」

「ごめんね、うまくできないんだ、なんにも」

何に謝っているのだろう。誰も謝罪なんて要求していない。今を望んでいるのは彼女だけでは無いと気付く。

きっと明日になったら、彼女はまた忘れてしまう。俺と彼女だけの時間はいつもそうだ。

本当になにも覚えていないのだろうか。公園の野良猫が可愛かったと笑いながら話した事を。俺の手を取って嬉しそうにしながら指の長さを比べた事を。俺にしがみついてそのまま眠りに落ちてしまった事を。

全部俺だけの物になってしまっているのなら、俺も忘れてしまえば良い。何度でも。

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