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シタンダリンタが話す「物語る」ことと「物語らない」こと。常にどこかデタラメである必要性について | RintaShitanda’sNewPlay

「自分の創作というものを知る良い機会でした」。初の書き下ろしシナリオブック『言い訳』の制作について、シタンダリンタはそう話す。

これまで映画を制作することを前提に物語を書いてきたシタンダが初めて、シナリオとして発表することを前提に物語を書き下ろした。10代を終え、20代を迎えた彼が生み出す人間模様、物語について自ら向き合い、多くのことを発見したと語るシタンダは、まさに次なるフェーズへと踏み出そうとしているようだった。

作品数を重ねるごとに着々と研ぎ澄まされながら、自身にとっての『物語る』ことと『物語らない』ことについて考えを深めていく。これまで以上に物語というものに真摯に向き合ったからこそ見えたのは、常にどこかデタラメである必要性についてだったというシタンダリンタ本人に話を聞いた。(編集部)

正直言うと僕の創作過程なんて誰も興味ないだろうって思うんですけど、途中からなんだか自分にとってセラピーみたいな感じになって。

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─ 「ミス・サムタイム」公開時に会場限定で発売されたことはあるものの、書き下ろしのシナリオブックが発売されるのは初めてですよね?

シタンダ
:大体にしてシナリオって映画やドラマを作るために書かれるものであって設計図みたいなものなんです。なのでそれだけを発表するのってちょっと違う気もしていて。結局発売記念イベントで映像化はしたものの書き始めた時は映像化を前提にしてないので、そういう意味で普通にシナリオを書くのとはちょっと違う感触で書いてた気がします。より"物語"というものに向き合えたというか。

今回書き下ろしでシナリオ本を発表させていただくに当たって、その制作過程というか、物語が出来る1から100までの過程を書籍にするということがあって。なのでただ物語を書くだけじゃなくて、それを書き出すまでのことをまえがきに書くのでそのために日記のようなものをつけたりして。それは結果的に自分の創作というものを知る良い機会でした。正直言うと僕の創作過程なんて誰も興味ないだろうって思うんですけど、途中からなんだか自分にとってセラピーみたいな感じになって。

シタンダリンタ 映画監督/脚本家/俳優。小学3年生から自主映画を撮り始め、中学卒業より本格的に始動。2019年、デビュー作『或いは。』で国際映画祭にて最優秀編集賞・優秀作品賞を受賞。以降「どこからともなく」「もしや不愉快な少女」「ミス・サムタイム」「Amourアムール」「ぼくならいつもここだよ」など既に15本以上の作品をコンスタントに発表し続けている。現在、自身の映画制作と並行し、MVやCM、戯曲なども手掛け活動範囲を拡大中。2019年、フジテレビヤングシナリオ大賞にて佳作を受賞し、脚本家・文筆家としても注目を集めている。初の書き下ろしシナリオブック『言い訳』を上梓。若者特有の普遍的な鬱屈と葛藤を時代の空気を込めて表現する、よくばりな才能をもつ青年。

─ 『ぼくならいつもここだよ』公開時のインタビューで、自らの内面性と創作の距離感についてお話しされてましたが、今作についても意識はされましたか?

シタンダ
:作品を手がける時は常に意識しています。昨年公開した3本(「ぼくならいつもここだよ」「Amourアムール」「ミス・サムタイム」)の長編で、なんとなく自分の中にあるナイーブさみたいなものとどうしても向き合わざるを得なくて、そうするとなんというか自分のナイーブさに完全に飽きてしまったところがあって。物語の中でナイーブな側面が出るのは良いとしても、ナイーブが物語を動かすタイプの作品は一旦もういいかなと思って。それよりは何かを捉えようとする、掴み取ろうとする、今作でいえば見つけようとする、そういう望みの物語を書きたくて。けど、ちょうど書いてる時に色々あってナイーブになってたこともあって、なかなかそれが影響しそうで危なかったです(笑)。

─ 今回の書籍ではまえがきのコラムがすごく面白くて、制作時期のシタンダさんの創作と生活の境界線や、互いへの作用の仕方が、漠然としながらも明確に見えてきて、すごく読み応えがありました…..

シタンダ
:かなり恥ずかしいし、むしろそういうことって作り手側が書くのはダサい気もして少し抵抗があったんですけど、おそらく常に無意識的に流れるようにやってたことを、改めて書き起こしながらやってみることで、自分が作品にどう恐れていて、どう救われようとしているのかが分かりました。そうやって思うと、自分のこれまでの作品に対してもう少し解像度が上がった気がして。極めてエゴイスティックな話で恐縮ですが。

─ 1人でじっくり考えを深める側面もあれば、友人との会話などから発想されてる側面もあって、それがかなり不思議なルートで考えが巡って作品に投影されていて面白かったです。

シタンダ
:人と人の関係性についての物語にやっぱり興味があるので、人と人の関係性を過ごしたあとに考えたことがあちこちに飛んで戻って飛んで戻ってして物語に反映されることがほとんどですね。そういうとよく聞かれるのが、実体験ですか? ってことなんですが、たしかに要素としてはありつつもそれがそのまま作品になってることはないので、ほとんどがフィクションで実体験な部分は極めて少ないですね。

今僕たち私たちはこんな気持ちです、っていうことだけを言う映画には僕はどうしてもしたくないなって。

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─ 今回の書籍に収録されたコラム(『まえがき - という名のきっかけ』)にはこんなことを書かれていました。
「我ながら、目も向けられないような後悔が今日もある。二〇歳を迎えてちょっとは大人と名乗ることも可能な歳になったことで、そういう自分の目も向けられないような後悔がそのまま自分の一部にならざるを得ないような、そういう空気をひしひしと感じる」この文についてもう少し詳しく教えてほしいです。

シタンダ
:本編とは大して関係ないような話ではあるんですが(笑)。やっぱりなんだかんだ言っても、ここ数年大人になっていく実感はすごくあるんです。まだまだガキだし、ガキだなぁって感じたりはするけど、でも大人になっていく感覚が確かにある。そんな時に、なんていうのかな、なかなかニュアンスな話なんですけど、自分のネガティブな側面というか、負の部分、それはある種の後悔であったり、そういうものが自分の生活と別のところにあるんじゃなくて、一部になっていってるというか。メインストリートに噛んできてるというか(笑)。

─ それは数年前までは違ったんですか?

シタンダ
:違いましたね。僕だけかもしれないけど。それはそれ、これはこれ、みたいなことが良くも悪くも無くなってきて、全部ひっくるめて進んでいく感じがより強い。でもそれも今思えば元からそうだった気もするんです。元から自分はそういう全部ひっくるめて進んでいくタイプではあった気がして。でもそれがある意味無意識的だったというか、気にしてなかった感じかな。近年は意識的にそれが行われている気がします。

─ それはどうしてだと感じていますか?

シタンダ
:めちゃくちゃイキった物書きみたいなことを言いますけど、ここ数年そういう作品ばかり作ってたからだと思います。さっきもお話ししたみたいに『ぼくならいつもここだよ』『Amourアムール』『ミス・サムタイム』とか、もっと言えばそれより前の『どこからともなく』『もしや不愉快な少女』辺りも含めて、自分のネガティブな側面とかと向き合わざるを得ない作品ばかり意図的に書いていて。自分はコロナ禍で割と明確に影響を受けた気がしていて。今から頑張るぞ!というタイミングでの一時停止だったし、年齢的にも16歳とかその辺で。あんなに時間がゆっくり進む上に何もすることのない時期、考えなくても良いことを考えるがあれ以降すごく増えた気がする。それを自分の中でちゃんと創作として暗くなりすぎずに、ある意味利用できるように扱うようにして。なんとなく、十代の人が作った映画でただただ楽しいハッピー最高!なものをやっても別に何も面白く感じてくれないんでしょ?みたいな気持ちがあって(笑)。

─ (笑)。以前別作品のインタビューでも同じようなことを語っておられましたね。

シタンダ
:すごくそれは感じていたんです。なんていうか、すごく語弊が生まれそうだからそのままの意味で捉えないでいただきたいけど、若者ってそれこそ、青くて痛くて脆い、がほとんどのイメージだと思うんです。ナイーブでセンチメンタルで、だからこそ明るくポジティブなものが反動的に煌びやかな映り方をするというか。それまで作ってた映画の反応とかを見て、良い反応をいただけた部分のほとんどが痛みとか苦しみみたいなものを描いた側面だったんです。それで、十代の映画監督って呼ばれるうちはそういう作品をなるべく上手いバランスで描けたらまずは良しとしよう、みたいなしたたかな気持ちになって(笑)。

─ そういうことを繰り返していると、実生活にも影響を及ぼしてきた、という感じですか?

シタンダ
:作品と自分の普段との境界線はなるべく明確に持ってるつもりだけど、そりゃ自分の生活の色々な面、もしくはもう少し広げるとすれば前よりも社会的なムードや起きてることへの興味がすごく湧いたことで考え出した社会的な事とか、そういう身の回りのことについて考える時間が増えれば増えるほど自分のことと比較していたと思います。自分一人で書くから基準が自分になってるというか。なかなか上手く言えないけど。

─ 他の青春映画に比べてシタンダさんの書く物語はテーマが生々しいというか、それはシタンダさん自身から生まれるある種のナイーブさからなのかな、とは感じています。

シタンダ
:あと、若者の物語を書く上で、若者が若者のことを書いただけの作品にならないようにずっと気にかけてた自負があって。今僕たち私たちはこんな気持ちです、っていうことだけを言う映画には僕はどうしてもしたくないなって。それよりはどこか、大人の人が若者だった頃の気持ちに戻って書いたような達観性というか、それをいかに若者的なムードのまま描けるか、みたいなものに自分は挑戦したかったんだろうなと思います。なんとも高望みだけど。そういうことを意識してたから故に、身の回りで起こる様々なことを創作の上で強引に達観しなくちゃな時とかがあって。そうしているとやっぱり無理矢理大人にならないといけないみたいな感じになってくるんですよね。こんな話をしていると、あれもしかして意外と僕って創作との距離感を保つの下手なんじゃないか、とか不安になってきますね(笑)。

物語の構築というのはいかに構築し過ぎないかということ。「常にデタラメである必要があると思うんです」

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─ そんな中で作られた今作は、シタンダ作品にしては珍しく主人公が四〇歳目前の女性になっています。

シタンダ
:結構そこを指摘されるんですが、自分的には意識してそうしたわけではなくて、単純に書こうとした物語の主人公が四〇歳目前の女性だったというだけなんです。ただ、今回のテーマを語る上では十代じゃない方が良かったのは明確に感じています。

─ 勿論テーマについては作品を読んでもらう、または見てもらって感じ取っていただくのが一番良いとは思うのですが、言える範囲で今作は何についての物語を書こうという出発点だったんですか?

シタンダ
:何についてのテーマだったんだろう(笑)。いつもそうなんですけど、描きたいものは明確にあってそれだけを頼りに書いて撮って完成させて、完成した後にこれはこれについての映画だったんだ、って分かるみたいなところがあるんです。そういう意味で今作は、書き上げた後に『愛の物語、だといいんだけど。』というキャッチコピーが浮かんで、なるほどこれか!って思いました。

─ 確かにすごく印象的なフレーズですよね。

シタンダ
:愛の物語、って結構よく聞くじゃないですか。愛についての物語、愛にまつわる物語ってよくあるけど、僕は常々、愛を向けられたい相手と向けられたくない相手がいるというのを感じていて。逆を言えば、向けたい相手と向けたくない相手。そういう意味で言うと、愛を向けたい相手にとって自分が愛を向けられたい相手、でないと愛の物語は成立しないと感じていました。だから、今作で言えばそういう、身勝手な愛というか、身勝手な愛、っていうワードが1番ポピュラーだと思うけどそれよりもう少し踏み込んだ自負はありつつ、そういう物語? なので、自らの行いを愛の物語にしたい女性の奮闘記というか、そういう映画だと思います。

─ 個人的には、近年の他作品の比べて物語性というかストーリーを進める力がいつもより強いと感じました。

シタンダ
:生活感の強い映画が続いていたので自分で飽きる前にもう少しサスペンスを持たせたいなと少し意識したところはあります。生活感のある描写の積み重ねで物語が後から生まれてくるような作品が多くて、個人的にはその方が好きなんですけど、描写の積み重ねじゃなくて、かといって力技でもなくて、ちゃんとサスペンスの見た目をして進めてみようと思いました。そういう意味では中盤が一番サスペンス味がありますよね。後半になるにつれて、徐々にそういうストーリーラインに乗っかっていく空気がなくなって、ある種生活感が増していくのはすごく気に入ってます。あの導入からあの中盤があって、あの着地が出来たのは自分の作る物語というものを全て通して見ても、かなり好きな流れの映画です。

─ ネタバレにならない範囲で話すのがなかなか詳細を言えずもどかしいですが、言える範囲で答えてください。

シタンダ
:特に今作は言えない要素しかないですもんね(笑)。

─ 個人的に、何をどうしたらこういう物語が浮かぶんだろうって不思議なんですが、それは先程聞いたようなテーマにまつわることではなくて、ストーリーラインというか、物語の構築についてです。今作は美しいくらいの三部構成になっていますが、至るところにシタンダさんらしい要素が散りばめられていて、それこそシタンダさんにしか紡げない物語が確かに描かれていると感じています。

シタンダ
:本当こういう話するならネタバレ踏めないの難し過ぎますよね(笑)。コミカルな嘘がバレるバレないのシュチュエーションコメディ的な第一幕、失踪事件を追うことになるサスペンスチックな第二幕、主人公自身の孤独や寂しさともう少し漠然とした人間の分からなさみたいなものを追求する第三幕。それぞれ全く違う映画を書いてるようにしよう、というのは最初から決めていました。

─ 確かにそれもそうなんですが、もっと深掘りするとしたら、例えば…ダメですねどうしても少しはネタバレになってしまうかもしれない。

シタンダ
:物語の核心に触れない程度なら良いですよ(笑)。注意書きしてもらいましょう。作者としては、何もゼロの状態で見たい人にとってはネタバレだけど少しは大丈夫な人にはここまではネタバレされても大丈夫としてる範囲です、って(笑)。

※ここから先は物語の核心に触れずとも、少しのネタバレへと踏み込みます。作者としては、何もゼロの状態で見たい人にとってはネタバレだけど少しは大丈夫な人にはここまではネタバレされても大丈夫としてる範囲ですので読者様のご判断にお任せ致します。

─ 私が今作で最もシタンダリンタ作品だ!と感じたのは物語中盤で失踪した天人を探す中で、天人の同級生である裕翔と会話をしますよね。そこで出てくるシーンについて以降全く触れない潔さというか、度胸です。

シタンダ
:天人くんが裕翔くんのことを好きだったのではないか、そしてあの夜の一件が失踪の原因なのではないか、というシーンを書いて、それ以降それについての明確な答えは出ないしはっきりと処理されないというのは僕も気に入ってます。セクシュアリティについてのテーマが顔を覗かせて、天人自身の自身への戸惑いなどを追求する物語となる気配がありながら、そうせずにいたかった。例えばこの物語において天人が不在の人物でなければもう少し深掘りしたのかもしれないけど、今目の前にいない人について、ただ単純に仲良かった同性の友人への気持ちを否定されたから失踪したんだ、と分かった気になることについてある種否定的に書きたかったんです。やっぱり人はいくつもの側面で出来ているものだし、人の不安などはひとつの側面だけで構成されてるんじゃなくてパッチワークみたいに重なり合って出来てるんだと思います。彼が同性の友人に抱きついたから彼はゲイで、それを友人が拒んだから失踪したんだ、という風に映画を見てる人がそこで仮定してしまうことの危うさみたいなものについて考えてもらえたらとは思いました。

─ 私の勝手な価値観ですが、セクシュアリティについてのテーマを扱うのは特に繊細である必要があって、勿論どのテーマについてもそうですが、しっかりとした取材と丁寧な描写で過不足なく描かなくては間違った認識を招くことがあると思います。まだまだ議論の対象になるテーマであると思うので、素人の意見としてはそこについての最もな向き合い方はやっぱり丁寧に深掘りすることなのかななんて考えてしまいます。だからこそ本作における深掘りの無さが、シタンダさん自身の物語への向き合い方、テーマへの真摯な姿勢が垣間見えて、私は好意的に捉えさせていただきました。

シタンダ:ありがとうございます。仰る通り、これまで僕もセクシュアリティについてのテーマを描こうとしたことはあったんですが、まだまだ自分の認識の甘さや稚拙な決めつけで、今の自分が描くのはそれこそ仰ったように誤った認識を招く可能性があるし、当事者の方を傷つける恐れがあると感じていました。ただ、僕にとっての少し大きな出来事があって、どこまでここでお話して良いのか迷いますが…友人の友人に、同性と付き合っていた経験のある方がいて。本人は公にはしてなかったのですが、僕はその方をゲイだと認識していて。ある時その方が知人の女性といわゆる、良い感じ、だということを聞いて、僕は正直なところ「本当に両思いなのかな…?」と感じたりしたんです。結果的に二人は付き合ったんですけど、2ヶ月も経たずに別れてしまって。そこまで親しいわけでもないから別れた理由についてははっきり聞いてないんですが、僕は心のどこかで「やっぱり女性と付き合うのは上手くいかなかった、とかなのかな」なんて考えたりしていて。我ながら、なんというか、稚拙だな…と感じました。彼がバイセクシュアルであって、女性との付き合いは全く不自由なく楽しくやってたけど別の理由で別れることになった、とかかもしれないのに、目の前のいくつかの情報だけで彼という人を分かった気になってることについて、すごく深く考えてしまいました。自分にとっての反省というか、そのことについてを物語として落とし込んで考えたいなと感じました。

─ そんな背景があったとは…シタンダさんにとって今作はそういった自身を省みて書いたような側面もあるのですね。

シタンダ
:物語へ利用してるように見えてしまうのだけは避けたかったので、描写の仕方はすごく気にしました。主人公の早苗が天人を探す過程で、天人の失踪の原因かもしれないエピソードがいくつか出てきて、その度にそれだ!と盲目になっていくことがこの物語においての一番のテーマなのかな、と感じています。第三幕はそれについてグッと深掘りしたというイメージかな。

─ "物語に利用"という言葉を使われましたが、私はいつもシタンダさんの作品を見て思うのが、それぞれのテーマや描写がある意味全く物語に利用されてなくて、物語の中に突然噛み込んでくるような形で配置されているのが印象的です。

シタンダ
:数年前はあまり意識してなかったんですけど、近年は特に物語ることと物語らないことについて考えて作っています。例えば過去の作品だと「ミス・サムタイム」という東京のガールズトークと恋愛模様が交差する映画を書いて撮ったんですけど、物語序盤で主人公の女の子が良い感じだった年上の男性と次に会う予定を決めようとしてるんだけど、嘘みたいに噛み合わなくて、やっと噛み合ったと思えば当日に小さめの地震が起きてその人の仕事の兼ね合いで来れなくなった、っていうシーンを書いたんです。その前に会った時に今日はそういうことするのかな、って思ってたし嫌じゃなかったのに、たまたまその日に生理になって、断りたいっていうわけではないけど単純に出来ない、でもそれを断る口実だと思われたくない、っていうシーンがあって。だから出来れば勘違いされないためにもまた会いたいんだけど全然会えない。そうこうしてるうちにその年上男性に彼女が出来る、というシーンなんですけど、それを書いた時に自分が興味のある人間関係模様ってこういうことかも!って少し思ったんです。

ドラマを描く時に、例えばこれで言ったらその最後に会った日に断ったと思われて向こうがもう会おうとしてくれない、とか、会う約束をしたいのに話を逸らされるとか。もしくは最後に会った日にこっちは出来ないって言ってるのに強引に求めてきたからもう会いたくなくて話を逸らしたい、とかそういうのがあると思うんです。でも実際の生活をしてて、自分の気持ちだけで物事が動いてるばかりじゃないと思っていて。この場合で言うと、主人公も年上男性もまた会いたいから予定を合わせようとしてるんだけど、本当に嘘みたいに予定が合わない。神様のいたずらみたいに合わない。やっと合ってやっと会えると思ってたらまさかの地震起きる。嘘みたいなことだけど本当にそういうことってあると思うんです。なんでなん…みたいな(笑)。むしろ笑っちゃうくらいに上手くいかない。これってある意味作り手側がこの後の展開のために二人を会わせたくなくて、でも後半でまた再会して楽しく話すから喧嘩して縁が切れるわけにはいかないから、っていう都合でそうしてるようにも見られる気がするんです。人間を描けてない、というか。でも、もう他に何も言うことないけど、ほんまにこういうことあるんやもん‼︎っていう(笑)。

─ リアリティラインをどこに置いてるか、っていう話かもしれないですね。

シタンダ
:僕はすごくリアルだと思って書いてるんです。人間の気持ちだけを描くことがリアルじゃないし、その人の気持ちだけでその人の物事が動くのがリアリティじゃないと思う。ましてやリアルであればあるだけ良いなんてこともないと思う。けどなんていうか、どこか常にデタラメである必要があると思うんです。全てが観客の納得のいく選択と道筋で進むのを巧い物語だとは思わなくて。それこそ人と人がどう繋がるか、とかも、いやいやこことここは繋がらないだろうっていう人がまさかの繋がってて、世界狭いなぁって思ったりするじゃないですか。でも映画とかドラマを見てて、全く別の位置にいた登場人物同士が知り合って仲良くなったら、それはこのキャストを横並びにしたいだけのご都合主義じゃんって思う人がいて。僕は逆にすごくリアルな物語だと感じることがあります。ただこれも、それをどう配置するか、どういう流れでそこに行くか、によってすごくリアルに見えもするし、すごくご都合主義の荒いホンにも見えるから難しいんです。全部が全部そういうちょっとカウンター的な作りにしても冷めるじゃないですか。そのバランスだと思ってるんですよね、勝手に。

─ 『Amourアムール』で元夫の婚約者である乎悠ちゃんが元夫にすごく執着していたのに、あるシーンを境にあっさりどうでも良くなって、元カレとヨリを戻すっていうのが、すごく人間を描けてるな、と感じました。

シタンダ
:ここはね、逆に物語る物語らないというよりは人間を描けてるかどうかだからさっきの話とはジャンルが違うんですが。このシーンは演じてる秋山咲紀子とも色々話をしたところで。僕はすごくリアリティだと感じて書いたんですが、物語において早めに乎悠を退場させたくてそうした、みたいにも見えそうな絶妙な展開だからすごく気にしながら書いて撮りました。登場人物において、見てる人が納得できるきっかけとタイミングで納得できる判断をしないと物語として破綻してる、となるのは違う気がしていて。時々他の人には分からないその人にしか分からない道理で何かを決めたり何かが動いたりすることってあるじゃないですか。他人から見たら意味分からなくても、自分としてはすごく納得いってるし理にかなってる感じの。それこそ「ミス・サムタイム」で付き合ってる彼氏が急にしょぼく感じて冷めてしまうきっかけが、女子会で強いていうならで挙げた彼氏への愚痴がきっかけだっていうのも極めて自分らしい展開だと思ってます。彼氏の何かの行動が明確なきっかけっていうわけじゃないところが、僕が書きたい映画はこれだ!って思えたところです。

─ シタンダさんの作る物語の"先の読めなさ"がどう出来ているのかを少し分かった気がします。

シタンダ
:簡単だけど、そういう作り方をすればそりゃ先が読めないですよね。だってそれまで見ていた物語の中にヒントがないというか、いきなり別の次元にあったものが突進してくる感じなので。果たしてそれが物語を作るということにおいて正しいのかは分からないんですが、僕が物語を書くにはこれしかないというくらい感じています。今は自分にとってすごく確かな自信があるけど、側から見たらそんな大したことじゃないのかな…特に不安になるところでもありますね(笑)。

─ 新作『言い訳』についての話へ戻りますが、発売記念イベントで物語の導入はジブリ作品から着想を得たということをサラッと仰っていましたが、全く意味が分からないので詳しく教えてください(笑)

シタンダ
:意味が分からないってはっきり言われた(笑)。まぁこれはそんなに大したことじゃないし僕の勝手なイメージなので失礼に値しないか不安ですが、今作は主人公の早苗と天人が道端でぶつかるところから始まるじゃないですか。イマドキ路上でメインキャラクターがぶつかって出会うなんて導入ないでしょ。そんなことないだろう‼︎でもあり得るから書くっていう話を先程しましたけど、そんな僕ですらこの導入はそんなことないって思って書いてますからね(笑)。少女漫画かよ、っていう。でも物語に手っ取り早く入りたかったし、面白いから良いかって思って。それでジブリ作品の、例えば『千と千尋の神隠し』を意識したりしたんです。あの作品の導入も、引っ越しの最中に不思議なトンネルを見つけて入って抜けたら不思議な国でした、じゃないですか。いやいや不思議なトンネルって都合良すぎるだろ、って真面目に言ったらそうなんだけど別に何も思わないし。なんか、そういう感じかな、って思っただけで(笑)。ジブリ作品は世界観自体が不思議な作品だから何も違和感ないけど、僕の作品は不思議な国には行かないから街角でぶつかるが限界でしたね(笑)。

─ 個人的に気になってたことなので、真面目に聞いてしまってすみません。

シタンダ
:リップサービスみたいなもんだったので、恥ずかしいです(笑)。

「ちょっと自信がついてきたし、自信がある風を装わないと怖くなってきたりしました」

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─ これからもどんな物語が生まれるのか、かなり楽しみにしています。

シタンダ
:ちょっとさっきの話をしてしまったから、なんか展開が読まれそうで怖いですね(笑)。でも展開を読まれないように、ってするとそれこそ物語にテーマや描写を利用してるようになるので、これまで通り自分が思うリアリティラインを行ったり来たりして書いていきたいですね。

─ 今作は勿論映画としてもですが、脚本として、物語として、シタンダリンタ作品としてまた次なるフェーズへ行ったと感じました。それがシナリオ本と発表されることにも大きな意義を感じています。

シタンダ
:ここ数年自分でも意識して繊細なテーマを扱ってきたつもりなんですが、その分誰かを傷つけてるのでは、という不安が大きくあります。常に自分の書きたいことを書きたいだけ書いてるつもりなんですが、やっぱり人に見てもらう、人に楽しんでもらうというのも念頭にあるので、そうなると気にはしますよね。それで書くものを変えるまではいかなくても、時間がかかってしまう。今作における天人のセクシュアリティについてのシーンも、なんか書きたいだけで書いてるようになるのは避けたかった。でもそう見えないことはないし、悩んだけど、あの描き方をすることに意味を感じてしまってたので。それに対しての友人(裕翔)の否定的な物言いも、物語として落とし込むことに絶対意味があるし意義があると僕は思っています。ただそれも自分が思ってるだけなので。リスペクトを込めて、色々な取材をして書いたとしても、自分の視野で全部が見えてるとは到底思えないし、やっぱり自分から生まれる何かをそのまま表現するっていうのは危険性を孕むし、傲慢なことだと思います。しかもそれをある種自分の拠り所にしてるのもすごく浅ましい。そんなことを考えながら、それでもやめられない自分がいて。物語を作る上で、調子に乗るのも嫌だし誰かを傷つけるのも嫌だけど、とにかく意味のあるものを作りたいって最近は強く思うようになりました。それはもしかしたら、誰かにとって迷惑なものを生み起こすことになるかもしれないけど、それでも自分にとって明確な意味や意義、作りたいと思うその理由、そういうものが単純な創作意欲として現れるならそれは自分が作るべきものだという勝手な責任感を感じて作ってます。それもこれも本当に傲慢な話なんだけど。しかもこのクソガキがそういうことを言うのもまた、まずそれほどのモン作ってから出直せ、でしかないですよね。

─ ずっと思ってましたけど、自分を卑下するのは癖ですか?(笑)

シタンダ
:本当にそう思ってるところもあるし、ある意味そうやってちょっと自分を守ってるようなところがありますよね。ダサいなぁ。

─ 現在も新作を進めてらっしゃいますか?

シタンダ
:今のところ三本くらい作り進めています。脚本を書いてる最中のものが二本と、企画段階のものが一本。まだ企画に起こしてないけどやりたいと思ってる物語もいくつかあって、こんなに思いついてすごいでしょう!っていう自慢をしたいわけじゃなくて、本当にある種ネガティブな意味で自分の創作意欲に自分がついていけてないところがあって。それは多分こうやってずっと稚拙ながらも自分の中で理にかなったルートから作った作品を見てもらえる人がいるからだと思っています。そう思うとポジティブなんですけど、映画は作りたいって思ってから完成するまでが長いから、もどかしさがありますね。そこが良いとこなんだけど。

─ 某イベントでサラッとお話されていた次回作の構想、私はもう早速また次なるフェーズに行くシタンダ作品の気配が見えて、ワクワクしています!

シタンダ
:ありがとうございます。僕は調子に乗りやすいしチョロいので、最近はちょっと自信がついてきたし、自信がある風を装わないと怖くなってきたりしました。さっきの話にも通じるけど、作ったものを発表する時に、嘘でも自信あり気な調子に乗った顔をしてないと失礼だな、と感じるようにもなって。でも常に自分が作ったものを疑ったりしちゃう瞬間もあるし、反省点のない映画が作れるまでは走り続けたいなと感じています。多分僕が作らなくたって世界は回るし誰も困らないけど、僕が困る、みたいな感じです。お付き合いいただける方がいましたら、今後ともよろしくお願い致します。

現在は音楽映画とホラー映画の脚本を書いていると語った。

シタンダリンタ『言い訳(scenario book)』
2024年3月20日発売
価格:1,500(税込)

写真・中尾微々


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