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不幸と不便について

初めての妊娠中、私は幸せだった。

およそ、結婚とか出産に憧れたことのないような人間で、子供だってほしいとか全然思ってはいなかったのだけれど、いざ、妊娠したと分かった途端、私はもう幸せだった。

そうして、目に映る世界の全てが輝いて見えた。

私は、お散歩しながら、お腹をなでて、目に映るもののことを話した。

あなたが生まれてくるこの世界は美しいよ、早く生まれておいでね、みんな待ってるよ、って話しかけていた。

...今思えば、私はあの時、お腹の中にいる子供を通して、世界を、地球というものを見ていたのかもしれない、とそんな気がしている。

そして、あの時も私はやっぱりただのパイプとして、ただ、この子を産むために、この子という存在に、地上に生を享けさせるために、神様にお腹を貸しただけのような気すらしている。

だって、不思議なくらいの安心感があったもの。

神様が私のお腹を借りて、この子を産み出したいと思ってるんでしょ、だったらわるいことが起こるわけないじゃん、っていう、ある意味、不遜とも言えるような。

という感じで、とにかく私は幸せだったわけです。
生まれて初めて感じるような幸せに包まれていたわけです。

でも、とっても不便だった。

つわりだとかうつ伏せに寝られないとか、食べ物に気を付ける、とか、世間一般に言われていることもまあその通りなのだけど、せっかちな私としては、全ての動作をゆっくりにせざるを得ない時期が、とってもとっても不便だった。

ゆっくりしか歩けないこと、
目の前の棚からお鍋を取りたいだけなのに、手をゆっくりのばさないと大儀なこと、

ああ、普段だったらもっとちゃっちゃかちゃっちゃかやれるのに、って思いながら、私はふっと、ああ、年をとるってこういうことなのかなあ、と思った。

本当はもっと素早く動きたいのに、思うように体が動かない。

ゆっくりにしよう、っていう自分の意思ではない、年をとった、っていうただそのせいで。


障害があっても不幸ではない、なんていう言葉を聞くことがある。

ただ、障害があることで、不便なことがたくさんあるだろうというのは想像できるし、それは事実だろう。

目や耳からの情報が得られないこと、
車椅子で行ける場所が限られていること。

普段、目や耳から存分に情報を得て、好きな移動手段で好きな場所に行ける人間にとっては、一日でも耐えられないような、想像を絶するような不便さだろう。

障害とまでいかなくても病気だとか入院だとか、普段の健康というルートからちょっと外れた時にも、私たちは不便を感じて、でも、それで健康のありがたみが改めて分かったりもする。

だから、不便だけど、不幸じゃない、っていうのはあると思うし、もっと言えば、不便、なだけの人に対して、不幸、って決めつけるのは、障害を持つ人に対してだけではなく、それはしないほうがいいよね、って。

じゃあ、不便、って何?って考えた時、世の中からの、何気ない、あら、かわいそうね、とか、あら、お気の毒ね、みたいな好奇の目にされされることも不便そのものな気がする。

あら、大学に落ちたの?
あら、今、無職なの?
あら、結婚してないの?
あら、子供いないの?

そんなのの数々。

そんなのの相手をしたり、時には調子を合わせないといけなかったり愛想笑いをしないといけないこと、それは間違いなく不便だ。

でも、不便と不幸は違う、絶対違う。

そんな好奇の目にされされた時、私は今、不便なのかも、って思っても、次の瞬間には、でも私は不幸ではない、って思ってほしい。

そして、私は今幸せだ、って宣言してほしい。

幸せだ、って自分を定義付ければ、幸せになってゆくから。

私にも不便はいっぱいある。
これまでも、多分これからも。

でも、私は私を幸せにできる。

自分を幸せにできるのは、ほかの誰でもない、まずは自分自身だ。

自分にやさしくすること、自分のための所作に愛を込めること、そんなちょっとしたことの積み重ねが自分を幸せにしてくれる。

現状がどうであろうと、ほかの人がどうあろうと、世間が何と言おうと、自分の手と心ひとつで、自分の幸せは作り出せる、今の私はそう思っています。





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